第21話 眠らぬ夜に、乾杯
「――……っ!」
声にならぬ悲鳴とともに、レヒトは寝台から起き上がった。
「はぁっ……はぁっ……」
心臓は、まるで早鐘のように打ち鳴らされている。
「……なんだったんだ……あれは……」
酷く汗を掻いている。呼吸も荒い。胸に手をやり、身に纏っていたお気に入りのコートを握り締める。
その時。小さな音を立てて部屋の扉が開いた。思わず肩が跳ねる。
「ふぁー……さっぱりしたぁ」
湯浴みに行ったレイヴンが戻ってきたのだ。尋常でない様子のレヒトに、レイヴンも驚いたようだった。
「ど、どうしたの? なんかあった?」
「……夢を……見た……」
呼吸を整えながら、レヒトは小さくそう答えた。レイヴンはピンと来るものがあったようだ。
「夢って……。この間、見たって言ってた夢?」
「ああ……いや、違う。あの夢の……続きのようだった……」
「……どんな夢?」
興味を引かれたのか、それともレヒトを案じてか。控えめに、レイヴンがそう問いかけてくる。
「……嫌な夢だ。自分……いや、あれは俺ではない誰かだったが……死ぬ夢だった」
レヒトは額に浮かんだ汗を拭い、寝台から立ち上がる。
「少し……外を、歩いてくる」
「あ、うん……わかった。気を付けてね」
「……ああ」
答えて、部屋を後にする。背筋を伝うこの嫌な汗は、しばらく引きそうになかった。
レヒトは城を出て、夜の街へと繰り出した。この時間でも、ロイゼンハウエルほどの大都市では、通りから人の姿が消えることはない。ルヴォス地区などもそうだが、酒場や宿屋、そして花籠などが立ち並ぶああいった場所は、夜にこそ人々が集まり、賑わう。
ロイゼンハウエルは、おおまかに東西南北の各ブロックに分けられる。ラグネスの城が鎮座する北部、閑静な住宅街である西部、露天商などが軒を連ねる東部、そして南部が、前述した歓楽街にあたる。中にはルヴォス地区などのように、一般人がふらふら出歩くには少しばかり危険な場所もあるが、中央部にほど近いあたりには、洒落た店などが立ち並び、若い恋人たちなどにも人気が高い。
通りを歩きながら、どこか適当な店で酒でも呷ろうかと考えていたレヒトの目に飛び込んできたのは、闇に映える真紅の花弁。
「き、君は……」
驚きの声をあげると、彼女は振り返り、微笑んで見せた。
「あら、あの時の坊やじゃない。こんな時間に出歩いちゃだめだぞ」
そう言って唇に手を当てる。本気で子供扱いである。
「……俺は、もう二十三だ」
きっぱりはっきりと宣言すると、彼女は少し驚いたような顔をした。
レヒトはよく、実際の年齢より若く見られることがある。これは顔立ちが、というより、どことなくそう感じさせる雰囲気によるものだと、レヒトはそう認識している。シャープ、とは言わないが、輪郭だって大人の男のそれであるし、目に関しては、鋭すぎるほどだとも思っている。子供扱いを気にしたレヒトは何度も鏡で確認したので間違いない。となると、やはりそれは雰囲気のせいなのだ。
「そうだったの? ごめんね、なんだか若く見えたんだ」
「気にしないでくれ。慣れている」
女性はまた、ごめんね、といって微笑む。
「自己紹介、してなかったな。俺はレヒト。旅人だ」
「僕は快、同じく旅人だよ。よろしくね」
そう言って、快、と名乗った女性はウィンクしてみせる。レヒトは頬が熱くなるのを感じた。それを隠すように、軽く咳払い。
「カイ……か。不思議な響きだな」
「そうかな? まあ、僕にすれば、君の名前のほうがずっと不思議な感じなんだけど」
快は少し考えるようにして、言葉を続けた。
「レヒト、だったね。ここで会ったのもなにかの縁だしさ、どこかでお酒でも飲まない?」
「ああ、それは構わない、俺もそのつもりだったんだ。だが……」
「なに?」
快は可愛らしく小首を傾げた。
「君はお酒、飲んでもいいのかい?」
レヒトの問いに、彼女はしばし沈黙し。
「僕、二十八歳だよ」
「そうか、やっぱりまだ……二十八歳!?」
思わず凝視してしまう。確かに身体つきは大人の女性だが、顔だけ見ればレヒトなどより快のほうがよっぽど童顔だ。どう頑張って見ても、せいぜい二十歳前後である。
「……見えない」
「失礼だなぁ」
レヒトの素直な感想に、快は頬を膨らませた。その子供のような仕草が、彼女を余計に幼く見せているのだが、残念ながら本人はそのことに気付いてはいないようである。
「それで、どう? 僕は飲みに行くつもりだけど、一緒に来る?」
無論、お断りする理由などない。
「ご一緒しましょう」
そう答えれば、快は嬉しそうに微笑んだ。今夜は遅くなるだろう。
レヒトは先を歩く快の後を付いて行く。城で待っているだろう、レイヴンへの言い訳を考えながら。
快が案内したのは、こぢんまりとした店だった。中にいる客の多くは傭兵だろうか、結構な賑わいを見せている。
レヒトは少し意外に思った。女性である快は、もっと洒落た店を好むかと思っていたのだ。
扉を潜ると、一斉に視線が集まった。グラスを取り落とす者もいる。快は慣れているのか、特に気にした様子もない。
「はぁい、マスター。今日も来たよ」
カウンターの向こうに手を振ると、快に気付いたらしい店主が、隣にいるレヒトを見て口笛を吹いた。
「なんだい、今日は男連れかい? こりゃ、世の男どもが悲しむぜ」
俺も含めてな、と店主は豪快に笑った。
「やだなぁ、そんな大袈裟な」
快も笑い返す。空いていたカウンターの席に座ると、注文する前に酒瓶が置かれた。酒は嗜む程度にしか飲まないレヒトにはよくわからなかったが、快の嬉しそうな顔を見る限り、いい酒なのだろう。
「飲めるよね? けっこうキツイけど」
「……お手柔らかに」
レヒトが答えると、快は微笑み、二人分のグラスに酒を注いだ。
手渡されたグラスの中で揺れる、琥珀色の液体。かなり、香りの強い酒だ。レヒトは酒にはあまり強くない。匂いだけで酔えるだろうと笑われたこともあるほどだが、この酒、快の言う通りかなりキツイようだ。
「眠らぬ夜に、乾杯」
快はひどく妖艶な微笑を浮かべた。スリットから覗く、組んだ白い足が艶めかしい。
「……乾杯」
グラスをあわせて、口付ける。案の定、咽喉の奥を焼くような感覚が襲う。やはり、相当にキツイ酒だったようだ。ほとんど一気飲みに近かったので、味はよくわからなかったが、舌に残る甘さは、上品なものだった。
「うーん、美味しい」
快は顔に似合わず酒豪であるようだ。反して、前述したとおりに、レヒトは酒には強くない。ほとんどを快が一人で空けた。
(旅人、か……そんな風には、見えないけどな……)
美しく整った繊細な顔立ちには、どこか気品さえ漂う。貴族の令嬢だといっても通るだろう。身に纏っているのも、冒険者のそれではなく、人目を惹く鮮やかな真紅のドレス一枚である。
多くの女性冒険者は確かに、無骨で重い防具を嫌うが、それでも身を守るために、比較的軽く、お洒落にデザインされた革製の防具くらいは纏うものだ。それに、そんな格好では旅人を襲う盗賊たちに目を付けられるだろうし、たとえ運よくその目を免れたとしても、ドレスの裾は道端の草などで擦れてぼろぼろになってしまう。
同行者がいるのかとも一瞬思ったが、どうやらそうでもなさそうである。
(なにか事情があって、隠してるってとこか?)
そこまで考え、レヒトはそれ以上の詮索をやめた。
「あ、ねえ。レヒトはどうして旅してるの?」
快の言葉を受けて、レヒトはしばし考えた。会ったばかりの女性に、馬鹿正直に話してしまっていいものか。
「……天界最高責任者の命を受けて、旅をしてるんだ」
迷った末に、少し声を落して、そうとだけ答える。快だけならともかく、どこで誰が聞き耳をたてているとも知れない。現に、近くのテーブルなどでは、傭兵たちが無関心な振りを装いつつも、こちらの様子を窺っている。尤も、彼らのお目当ては快であり、レヒトの話など聞いてはいないだろうが。
「レヒトって、偉い人だったんだ」
快が驚いたように言った。
天界最高責任者の命を受けている、ということには、それだけの意味があるのだ。というのも、天界最高責任者レイ=クリスティーヌには、ごく限られた者しか接触できないからである。無論、これは表向き――というか普通のことであって、レイのように型破りな天界最高責任者には、その常識は当て嵌まらない。なにしろ、彼は城下にたくさんの友人がいるというのだから。
とはいえ、普通の人々がレイ=クリスティーヌに謁見することは、まず不可能と言っていい。ここロイゼンハウエルより天界へ向かうにも厳しい審査と監視がなされ、許可を受けた上での入国となる。レイへの謁見となると、さらに厳しい審査が待ち受けており、一般人にとっては、まさに雲の上の人物。レヒトの場合は、彼の主がレイの実兄にあたるため、きちんとした理由さえあれば、とりあえず会うことは可能である。
というわけで、レヒトの素性を知らない快が驚くのも、無理はない話なのだ。
「まあ、レイに会えるのは血縁者とか、傍仕えの人だけだもんね。それで、どう? 彼、元気?」
まるで会ったことがあるような、それも親しい関係にあるような言葉だ。
「? ……会ったこと、あるみたいな言い方だな」
「まあ、いろいろとね。女の子には秘密がいっぱいあるのよ」
そう言ってウィンクひとつ。
興味はあったが、なにを聞いたところで彼女は答えてはくれないだろう。仕方なしに、レヒトは話題を変えた。
「……快は、どうして旅なんかを? 女性の一人旅は、危険だろう」
「ご忠告ありがとう」
快はグラスを傾けた。中で揺れる琥珀の液体を見つめる表情は、少し寂しげな微笑。
「僕には、やめられない理由があるの」
「……聞いても、いいか?」
「ん……。人をね、探してるんだ。とても、大切な人」
グラスに向けられた瞳は、とても優しく――どこか悲しみを宿していた。
「同じ色……琥珀色の人をね」
「……恋人だった?」
快は答えなかった。けれど、その瞳は、それが答えだと告げている。
胸が、微かに痛むのを感じた。
「そう、か……」
快はグラスを置き、どこか慌てたような仕草をしてみせる。
「やだなぁ、僕ってば。なんかしんみりしちゃったね」
ごめんね、と謝る彼女に、レヒトは気にするなと微笑んだ。