第16話 ロイゼンハウエルの闇-2-
翼を持った、黒い人影。忽然とそこに現れたのは、そうとしか表現のできない存在だった。たとえるなら、怪しい宗教の司祭、とでもいったところだろうか。
金色の装飾が施された、漆黒の貫頭衣――と表現してよいものか、黒い布を目深に被り、背に頂く翼にも、同じように布が被せられている。体型もわからぬほどゆったりとした黒い布に身を包んだその人影は、なにかを投げるような格好のまま、静かにその場に佇んでいた。
レイヴンのスタッフを投げたのは、この人物で間違いなさそうだが……。
なんというか、このルヴォス地区には怪しい格好をした者なんぞがけっこういたりもするのだが、この人物はその中でも群を抜いて怪しかった。通りがかった人に物を投げられたとしても文句は言えまい。
「……どちら様かは知りませんが、邪魔はしないで頂きたいものです」
レヒトの首にあてた右手の短剣はそのままに、ウォルスはその人物に向け言葉を発した。すると、その人物は、顔をウォルスに――向けたのだろうと思われる。布ですっぽり覆われてしまっているので、よくわからないが。
「早々に立ち去って頂ければ、命はとりません」
返る答えはなかった。
「そうですか……。人の忠告は聞くものですよ? そうすれば、命を失うこともなかったのに」
その言葉とともに、ウォルスの左手が小さく動く。同時に聞こえた風を裂く音と、視界を掠める一筋の銀。
しかし、その人物は慌てるでも騒ぐでもなく、すっと右手をあげる。すると、その手の中に、鋭利な短剣が現れた。ウォルスが投げ放った短剣を素手で掴み取ったのである。どうやら、ただの怪しい奴、というわけではなさそうだ。
「なにっ!?」
ウォルスが声をあげ、その注意が一瞬、レヒトより逸れる。それは、レヒトにとっては十分な時間だった。
左の肘で相手の腹を打って怯ませ、振り向きざま、その首筋に手刀をお見舞いする。ウォルスの身体から力が抜け、その場に倒れ伏した。
「はぁ……」
軽く息を吐いて、レヒトは黒衣の人物に向き直る。
「助かりました、どうもありがとうございま……」
言いかけたレヒトの髪の一房が、鋭利な風に切り裂かれて散った。レヒトは思わずその場に硬直する。
放たれた短剣が、レヒトが背にしていた家の壁に、音をたてて突き刺さった。
「おい……お前、こんなとこでなにしてやがんだ」
レヒトに向けて短剣を放った張本人は、不機嫌さを隠そうともせずにそう言い放つ。初めて発せられたその声に、レヒトは聞き覚えがあった。
「……まさか」
黒衣を纏ったその人物が、顔を覆った布をとる。現れたのは、レヒトの思った通りの人物。天界城で行方を晦ました、あの天界最高責任者だったのである。
「レイ様!? ……ど、どうして……」
唖然とするレヒトに、レイはさも当然とばかりに言い放った。
「馬鹿か、お前。トゥールから逃げてきたに決まってんだろ」
「は、はぁ……いえ、そうではなくて」
レヒトが聞きたかったのは、もちろんそんなわかりきったことではない。
「……なぜこのような場所に? ここは危険です」
前述した通り、ルヴォス地区はお世辞にも治安がいいとは言えない場所である。少なくとも、彼のような人物が訪れるような場所でないことだけは確かだ。
「危険、か。まあ、そうだろうがな。ここに用事があんだから仕方ねぇだろ。おっと、わかってるとは思うが……」
レイはそういって唇の端を吊り上げ、笑う。
「トゥールには黙っとけよ」
「……レイ様」
呆れたようなレヒトに、しかしレイは豪快に笑った。世界の象徴たる天界最高責任者が、供の一人も連れずにこんな場所を歩きまわっていたと知ったら、トゥールは卒倒するのではなかろうか。
「それより、お前はこんな場所でなにしてる。見たところレイヴンの姿もないようだし……なんか、妙な厄介事にでも巻き込まれたか」
「ええ、まあ……」
レヒトはナタリーに視線を移した。未だ座り込んだままの彼女は、少女のように頬を染めて、突如現れた美しき天界最高責任者を見つめていた。伝説の英雄とは思えぬ傲岸不遜な態度や野卑な口調は、脳内で都合よく解釈されているに違いない。見た目がいいと得である。
そこでようやくナタリーの存在を思い出したらしいレイが、彼女に近寄り、立たせようとその手を差し伸べる。その意外な行動にレヒトが目を丸くしていると、顔を真っ赤にしたナタリーが、ぱたりと倒れた。
「……なるほど。事情はだいたいわかった」
ナタリーが意識を手放してしまった後。野次馬がちらほらと集まり始めたあの通りに、いつまでも居座るわけにもいかず、いい場所がある、というレイに連れられ、一行は場所を移したのだった。
意識を失ったナタリーをレヒトが抱え、気絶したままのソードとウォルスをレイが引きずり、やってきたのは、あの通りからさほど離れてはいない、寂れた一本の裏通り。今にも潰れそうな廃屋が密集するこの場所にやってきた一行を迎えたのは、まだ幼さの残る十数人の子供たちだった。子供たちは見ず知らずのレヒトには若干の警戒心を覗かせたが、レイを見るなり喜んで迎え入れてくれた。とりあえず奥の部屋に寝かせたナタリーを少女たちに任せ、ソードとウォルスは猿轡を噛ませた後に縄でふん縛って適当に転がし、レヒトはレイに、ようやく事の次第を説明することができたのだった。
ちなみに、ここは一番大きな廃屋の中であり、レヒトとレイは小さなテーブルを挟んで、ぎしぎしと怪しい音を立てる椅子に腰掛けている。先程まで、隣の部屋に続く扉の影から小さな頭が幾つか覗いていたが、年長らしい少年に叱られて、みんな逃げて行ってしまったようだ。
「申し訳ありません、俺が少し目を離した隙に……」
「今更んなこと言ったって仕方ねぇだろ。とにかく、レイヴンと誘拐されたガキどもを助け出すのが先だ」
恐縮するレヒトに対し、レイは軽いため息を吐いてから、人身売買ね、と小さく呟いた。
「……奴隷制度の廃止とともに、人身売買も禁止された。とはいえ、それはあくまでも表向きの話だ。実際には、今でも奴隷が多く存在する。それを商売にする奴隷商人も、奴隷を用意する裏稼業の連中もな」
レヒトも聞いたことがあった。
魔界における奴隷制度の廃止と、奴隷の解放及び人身売買の禁止を提唱したのは、天魔大戦終結後、クリスティーヌ領主となったラグネスだった。魔界評議会の議員たちは、奴隷を使う立場の者たちだ。ラグネスの思想に理解を示す者は、誰一人としていなかったという。しかしラグネスは諦めず、反対する魔界評議会の議員たちと粘り強く交渉にあたり、およそ百年の歳月をかけて条約を制定させることに成功した。このことによってラグネスの辣腕ぶりと、執念とでもいうべき粘り強さが知られることになったのである。
「今までにも何度か報告はあがってたんだが……こっちもなかなか苦労してんだ。最近は手段も巧妙になってやがるし……真魔界とのこともある」
レイは苦虫を噛み潰したような顔を見せた。
未だに奴隷制度の残る真魔界では、奴隷の売買はごく普通に行われている。真魔界に生きる魔精霊という種族には、支配する一族と支配される一族とがおり、支配される一族が奴隷として、支配する一族に仕えてきたのだが。建国以来、千年に渡って続いてきたその支配隷属関係に、近年、疑問の声が出始めた。これは、現在の皇帝であるウィンドリヒ=シグルーンが側室に迎えた女性が、その支配される一族であったためだ。
そのため、真魔界では長らく続く支配隷属関係が崩れ始め、結果として貴族たちが奴隷として使い始めたのが、魔界の民だったのである。天界と真魔界には同盟関係がないため、抗議することはもちろん詳しい調査の依頼すらできず、結局そのままになっているというわけだ。
「……この誘拐事件の裏にいるのが誰かはまだわかんねぇが、どうにも真魔界が絡んでる気がしてならねぇな。魔界の権力者どもにしちゃ動きが派手すぎる。となると……今回の誘拐事件で、どうにか尻尾を掴みたいところだ」
レイが話を終えると、奥の部屋から一人の少年がやってきた。年齢は十四、五歳といったところだろうか。ここに一行を招き入れてくれた少年だ。ここの子供たちの纏め役らしい少年の手には、赤く熟れた果物がふたつ載っていた。
「レイ兄と、そっちの兄ちゃんにもやるよ。さっき盗ってきたばっかだからうまいぜ」
少年は、まだ少し幼さの残る顔に笑みを見せて言った。レヒトは思わず固まる。
「いい熟れ具合だな。今日はいいもん盗ってきたじゃねぇか」
レヒトとは対照的に、レイは赤い果実を手に取り美味そうに齧り付く。それを見て、レヒトは硬直から脱出した。
「レイ様! いけませんよ! こ、これは盗品でしょう!?」
「それがどうかしたか」
「ど、どうかしたかではありません! 窃盗は犯罪ですよ!?」
レヒトが大声を張り上げると、レイは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「……お前よぉ、自分が何を言ってるか、ちゃんとわかってるのか?」
少年の頭に手を置き、レイは真っ直ぐにレヒトを見据えた。心の奥まで射抜かれるような感覚に、レヒトはたじろぐ。
「盗みは罪だってお前は言うがな。それはこいつらに死ねっていうのと同義だぜ、レヒト。こいつらが盗みの罪人なら、お前は人殺しの重罪人だ」
思いもよらぬレイの言葉に、レヒトは頭を殴られたような衝撃を受けた。レイの言葉が、頭の中をぐるぐると回る。言葉に詰まったレヒトを見て、レイは少し優しく笑った。
「……お前の言うとおり、盗みは罪だ。だがな、こいつらはそうやってしか食っていけない。この街で、この世界で、精一杯に生きるこいつらに手を差し伸べる大人は存在しない。綺麗な心のまま、両手を罪の色に染めて生きるこいつらを、お前は裁けるのか?」
俺にそんな権利はない――天界最高責任者は少し悲しげに自嘲した。
「生きるために重ねられる罪……咎を負うべきはこいつらじゃない。こいつらを救ってやれない為政者――俺だよ」
「……レイ様……」
かけるべき言葉が見つからず、部屋に気まずい沈黙が落ちる。その重苦しい沈黙を破ったのは、果物を運んできた少年だった。
「レイ兄は悪くないよ。おれらはレイ兄にいっぱい助けてもらってるからさ。……エミリアも、きっとそう言うよ」
少年の呟いた名に、レイの瞳がわずかに揺れたのをレヒトは捉えた。そこにあるのは深い悲しみと――後悔の色。
「……エミリアは、俺を恨んでるだろうさ」
「そんなことない。レイ兄が助けてくれたから……エミリア、神様のところに行けたって。エミリアは笑って死んだんだから」
レイは頬杖を付いたまま視線を落とした。閉ざされた蒼穹の双眸からは、涙の一滴だって零れ落ちはしなかったけれど。
レヒトの目には、泣き顔のように映った。