第15話 ロイゼンハウエルの闇-1-
ドゥエインと別れたレヒトは、もと来た道を戻り、ナタリーの待つ詰め所の入口へと向かった。
ナタリーは来客用の長椅子に腰掛け、目を閉じ、小声でなにか呟いているようだった。胸の前で指を組み、神に祈りを捧げていたのだろう。テーブルの上には、彼女に出されたと思われる紅茶のカップが置かれているが、彼女が口を付けた様子はない。カップの中、揺れるセピア色の紅茶は、まるで彼女の深い悲しみを表しているかのようだ。
「ナタリーさん」
レヒトが声をかけると、ナタリーが弾かれたように顔をあげ、座っていた長椅子から立ち上がった。
「今、確認してきましたが……間違いありません。ジェイ君は誘拐されたようです」
「そんな……ジェイ……」
顔を覆い、崩れるように、再び長椅子に座り込んだナタリーの肩に、レヒトはそっと手を置いた。
「大丈夫。居場所は突き止めました。俺は今から子供たちの救出に向かおうと思います」
「ジェイは……ジェイは、どこにいるんですか?」
「……ルヴォス地区に。ナタリーさんは、どうかここでお待ちください」
ロイゼンハウエルの南端には、あまり治安のいいとはいえない場所が広がっているが、中でもルヴォス地区は特に危険な場所だと言われている。男であり、それなりに腕のたつレヒトは別として、若い女性であるナタリーが行くような場所ではない。
だが、ナタリーはレヒトを見上げ、懇願するように言った。
「……よろしければ、私も連れて行って頂けませんか?」
「しかし……」
「足手まといになるのはわかっています。けど……あの子、きっと怖くて泣いてると思うんです。私はなにもできないけれど……傍にいてあげたい……」
我が子の無事を祈るように、胸の前で組んだ指。こうして、ただ無事を信じて待ち続けるのは、辛いことなのかもしれない。レヒトが彼女と同じ立場であったとしても、きっと彼女と同じことを言っただろう。
「……わかりました。それでは一緒に行きましょう。けど、俺の傍からは、絶対に離れないようにお願いします」
「ありがとうございます……」
ナタリーは深々と頭をさげる。
レヒトはナタリーを伴い、攫われた子供たちを救うべく、ルヴォス地区へと足を向けた。
並び立つ怪しい店、怪しい宿、通りを歩く、傭兵だかゴロツキだかわからないような男たち。ここルヴォス地区で最も広く大きな通りには、そんな光景が広がっていた。まだ太陽が高い位置にあるために人通りはまばらだが、これが夜になれば、このあたりは喧騒と一時の快楽とが花開く、夜の顔へと変化する。
デリックは明言しなかったが、このルヴォス地区のどこかに攫われた子供たちがいることは間違いない。となれば、後は虱潰しに探し回るほかないのだが……。
「……そうですか、見たことはないと」
「ああ、知らんね」
十数軒目に訪れた酒場の親父は、洗いたてのグラスを磨きながら、愛想の欠片もなくそう答えた。洗ったばかりであるはずのグラスは何故か汚れていたが、そんなことを気にするような客はいないのだろう。まだ昼間だというのに、飲みにきている数人の客が、じろじろと酔った眼差しをナタリーに向けている。最初の頃は気にしていたナタリーだが、もういい加減に慣れたらしく、平然としていた。
ルヴォス地区にある、怪しい店のひとつ。レヒトとナタリーは聞き込みのため、片っ端からこの時間でも開いている店を訪れていた。行方不明になったジェイとレイヴンの特徴を告げ、見たことはないかと聞き込みを続けていたのだが。
「そんな子供見たことないよ。さあ商売の邪魔だ、出て行ってくれ」
店の親父の冷たい眼差し。こうして邪剣にあしらわれるのもいい加減に慣れてきた。とはいえ、はいそうですかと引き下がるわけにはいかない。
「それじゃあ、デリック=ラザーンという男はご存じありませんか」
「デリックだって?」
親父が露骨に眉を潜めた。
「あんた、あんな男と付き合ってるのかい」
「いえ、俺はその男から、ここで子供を見たって話を聞いて……」
「なるほど、そういうことかい。そうなれば、その話も信じられたもんじゃないよ。デリックの野郎の話なんざ……」
どこの店で話を聞いても、この反応だ。あのデリックという男、相当にろくでもない男だったようである。
「そんなに悪い人なんですか?」
「ああ、そりゃあ悪い野郎だ」
今までずっと沈黙を守っていたナタリーが問う。すると、親父はレヒトの時よりも、幾分警戒心を解いてそう答えた。どうも男という生き物は、若い女性が相手だと気が緩むようである。レヒトはとりあえず、この場はナタリーに任せることにした。
「デリックの野郎はたいしたことねぇんだがよ、その後ろに付いてる男が怖くて手出しできねぇのさ」
「そうなんですか。大変なんですね」
適当なナタリーの相槌に、親父は何度も頷いて見せた。
「まったくだ。デリックの野郎は店に何度も飲みに来やがるし、ツケは溜まる一方だ」
「その人の後ろに付いてる方、怖いんですか?」
「ああ、怖いさ。もともとは傭兵だったらしいんだがな、十年前魔物に襲われて右足をやられたらしいぜ。ま、それでも俺たちよりはずっと強いし、体格もいい。下手には逆らえんのさ」
デリックの背後にいるという、もと流れの傭兵の男。ドゥエインの語った話と一致する。間違いなく、ベイゼル=ワイザーだろう。
「……そいつは女好きだって有名だ。気をつけな、お姉ちゃん」
「わかりました、ありがとうございます」
にこりと微笑むナタリーに、親父はいやいや、と手を振った。
「ここはお姉ちゃんみたいな女が来るようなところじゃないんだぜ。まだここにいるのかい?」
「ええ。子供を探さないと……」
「そうかい。それじゃ忠告だ。デリックの野郎の後ろに付いてる男……確か、ワイザーとかいうんだがな。そいつが根城にしてる店が近くにあるんだ。クラウンって名前の店でよ。近付いちゃいけねぇぜ」
レヒトとナタリーは顔を見合わせた。これは思いもよらぬ有力な情報だ。
「クラウンですね。……わかりました、気をつけます」
礼を述べて店を後にする。聞き込みを続けること十数軒目にして、ようやく手がかりを掴んだ。これもナタリーのおかげである。彼女を連れてきて正解だったかもしれない。
「今のはかなり有力な証言です。後は、そのクラウンという店を……」
そう言いかけ、レヒトは言葉を切った。
(来たか……)
張り詰めた空気、感じる視線、そして通りに渦巻く冷たい殺気。
「……ナタリーさん、これを預かっていてください。それと……少し離れていて頂けますか」
レヒトは小声でナタリーに告げ、レイヴンのスタッフを手渡した。建物の蔭から、通りの向こうから、十人あまりの男たちが現れたのは、ちょうどその時だった。
現れたのは、見るからにゴロツキ、といった感じの男たち。革製の簡素な鎧に身を包み、手にはそれぞれ得物が握られている。
「……よぉ、兄ちゃん。こそこそと何を嗅ぎ回ってやがる?」
二振りの剣を両手に構え先頭に立つ、この連中のリーダーとおぼしき男の問いに対し、レヒトは唇の端を吊り上げた。
「説明するまでもないと思うが。……お前たちこそ、尾行ならもう少しうまくやるんだったな」
レヒトの言葉に、男たちは面白いほど動揺した。
数人の男たちに尾行されていることに気付いたのは、何件か前に立ち寄った店を出たところでだ。店に居合わせた連中の仲間か、もしくは店主が、レヒトたちの行動を報告し、仲間を集めたのだろう。当人たちは気配を殺し、うまく尾行したつもりだったのだろうが、卓越した神経を誇るレヒトは、男たちの放つ気配をしっかりと感じ取っていた。
気付いた時点で、問答無用で張り倒してもよかったのだが、レヒトはあえてそのまま泳がせておいた。理由はふたつある。
レヒトが自身を尾行する男たちの存在に気付いたとき、まだ有力な情報は得られていなかった。この男たちを返り討ちにして口を割らせようかとも考えたのだが、あの根性無しのデリックでさえ、アジトとなっている場所だけは吐かなかったのだ。相当に結束が固いのか、それともワイザーという男がそれほどまでに恐ろしいのかはわからないが、たとえ脅しても、素直に口を割るとは思えない。そのため、レヒトは有力な情報が得られるまではと、連中を泳がせておいたわけである。
そして、レヒトたちが有力な情報を得た場合、男たちは当然襲いかかってくるはず。それは逆に言えば、情報が正しいのだという証明にもなる。このタイミングで男たちが襲ってきた、ということは、先程の店で親父から聞いた話はどうやら事実、そしてこの男たちは、推測通りワイザーの一味ということだろう。
となれば、後はこの場をさっさと片付け、ワイザーが根城にしているという店に向かうのみ。レヒトはナタリーを下がらせ、腰の大剣セイクリッド・ティアを引き抜いた。
「悪いがお前たちと遊んでいる暇はない。……覚悟はいいな?」
「遊ぶ、だと? 面白い、やれるもんならやってみやがれ!」
先頭の男が声を張り上げ、数人の男たちが同時に突っ込んでくる。
突き出される剣の切っ先を、わずかに身を逸らしてかわし、左手で剣の腹を叩いて跳ね上げ、バランスを崩した男を蹴り飛ばす。
「うおっ!?」
その後ろにいた男は、蹴り飛ばされた仲間を反射的に支え、刹那、地を蹴り、飛んだレヒトの一撃が、蹴り飛ばした男ともども斬り倒していた。
「てめぇっ!」
着地したレヒトめがけて、別の男が刃を振り下ろす。レヒトは低い体勢のまま、セイクリッド・ティアを掬いあげるように振った。力が同じならレヒトは不利だ。
金属のぶつかりあう耳障りな音。振り降ろされた剣は頭の上で受け止めたまま、レヒトは男に足払いをかけた。不利な体勢のレヒトを斬ることにばかり囚われていた男は、そのまま大きく前に倒れ込み――結果、レヒトのセイクリッド・ティアに、胸を貫かれることとなった。
「な、なんだと……」
男たちの一人が、怯えた声を発する。ほんの数秒の間に、三人もの仲間を倒され、ようやく自分たちが相手にした男の実力に気付いたのだろう。
レヒトはゆっくりと立ち上がる。深いワインレッドの瞳に射抜かれ、男たちの間に戦慄が走った。
「ええい、怯むんじゃねぇ! 相手は一人だ!」
リーダー格の男の一喝で、男たちは恐怖に怯えながらも突撃する。数は多いが、連携などあったものではない。ただそれぞれが闇雲に突っかかってくるだけだ。
やる気のない牽制攻撃をかけてくる男を斬り倒し、別の相手と斬り結ぶ。剣を合わせて動きのとれぬレヒトに、好機と見てとったか、別の方向から男が近付く。しかし、男が剣を振り下ろした時、その場にレヒトの姿はなかった。
「なに!?」
レヒトは押し合っていた剣を引き、後ろに跳んでいたのである。となれば、当然、レヒトと斬り結んでいた男は、反動で前につんのめることになる。二人の男たちはそれに気付くも、勢いの付いた刃はとまらない。男の振り下ろした刃は、その僅か数舜前までレヒトと斬り結んでいた、仲間の男を斬り裂いた。
「――!」
仲間を殺し、声にならない悲鳴をあげた男を、レヒトはあっさりと斬り伏せる。
「……どうした、お前は来ないのか?」
向かってくる下っ端の、最後の一人を上下に断ち、血に濡れたセイクリッド・ティアの切っ先を向け、挑発するように言ってやれば。一人残ったリーダー格の男が、怒りに顔を赤くした。
「舐めやがってぇっ!」
獣じみた吠え声とともに、左右に構えた剣で斬りかかってくる。剣と剣とが絡み合い、白銀の火花を散らした。
わずかな時間差を置いて繰り出される、左右二刃の攻撃を、速さでは遥かに男を上回る、レヒトのセイクリッド・ティアが受け弾く。
数度目の打ち合いの後、絶え間なく続く斬撃の隙を縫い、レヒトがセイクリッド・ティアの柄で男の胸を突けば、男は大きくたたらを踏んだ。
刃が男に届く瞬間。しかしレヒトは慌てて剣を引き、大きく後ろに跳び退った。
レヒトと男の間を、銀色の残像が埋める。ほんの少しでも反応が遅れていれば、縦真っ二つに断ち斬られていたところである。
「……逃げられましたか。これは残念……」
どこか楽しげにそう言って、レヒトとリーダー格の男の間に現れた人物は、地面に突き刺さった長剣を引き抜いた。
年の頃なら四十前後。これといった特徴のない顔には、人の良さそうな柔和な笑みが浮かんでいた。
「ウォルスの旦那、申し訳ごぜぇません。お手数かけちまって」
リーダー格の男がそう言うと、ウォルスと呼ばれたその男は、顔に浮かんだ笑みを消すことなく答えた。
「いいですよ、これが私の本来の仕事。……さて」
ウォルスはレヒトに視線を向けた。その顔には、やはり人の良さそうな柔和な笑み。顔立ちもいたって平凡で、一見すると、ただの街人その一なのだが。彼の纏う空気、そして放つ気配とが、彼がただの街人その一ではないということを証明していた。
鍔迫り合いをしていたレヒトとリーダー格の男との間に、この男は現れた。傍の建物の屋根の上から、剣を構えて飛び降りてきたのだ。そのわずかな、ほんのわずかな気配すら、レヒトは掴めなかったのである。ただ、たとえようもないほど嫌な予感が背筋を走り抜け、身体が勝手に反応していたのだ。
「……あの身なりのいい子の護衛さんですね。ふむ、あまり強そうにも見えませんでしたが……人を外見で判断するものではありませんね」
「あんたには言われたくない台詞だが。……レイヴンを誘拐したのはあんたか」
ウォルスは頷き、少し離れて立つナタリーに視線を移した。
「そちらの女性がお探しのお子さんも、私が攫いました。本来の仕事ではないのですがね、私が一番怪しまれないから、と」
「ジェイは……ジェイはどこにいるんですか!」
相も変わらず笑顔のまま、ウォルスは答える。
「この街にいますよ、今はまだね。安心してください、ワイザーさんは若い女性がお好きですから、貴女は生かして連れて行って差し上げますよ。そこで最後のお別れをさせてあげます。そちらの貴方は、だめですがね」
「そうか。それなら案内はいらない」
レヒトは腰を落とし、セイクリッド・ティアを構え直す。
「……あんたを倒して行くまでだ」
「乱暴なお人だ。……しかし、楽しめそうです。ソードさん、女性は殺さないでくださいよ」
「わかってますよ、ウォルスの旦那。ちょいと遊んでやるだけです」
ソードという名前らしい、例のリーダー格の男が、ゆっくりとナタリーに近付いていく。足が竦むのか、ナタリーはその場から動けないようだ。
「ちっ……!」
助けに向かいたいところだが、目の前に立つ男がそれを許してはくれなかった。
「貴方の相手は私です。さあ、楽しみましょう」
「……後悔するなよっ!」
レヒトがたて続けに放つ斬撃を、無駄のない動きで、ウォルスの長剣が受け流す。決して、無理に弾いたり、正面きって受けたりすることはない。先程までの男たちとの戦闘を参考にでもしているのだろうか、手にした剣の質を、よく理解している。
レヒトが振るうのは、レイ=クリスティーヌが神々より賜りし伝説の剣。下手に受けようものなら、手にした剣ごと真っ二つである。
何度も打ち合い、白銀のきらめきが舞う。レヒトの斬撃を捌き続けるウォルスの剣術もさることながら、レヒトの攻撃には、いまひとつ鋭さが欠けていた。
「……きゃっ」
「ははは! いつまでもつかねぇ?」
ソードが軽く振った剣を、ナタリーは先程レヒトが手渡したレイヴンのスタッフを盾に、なんとか防いでいた。ソードにはナタリーを斬る気はないだろう。ただ恐怖に怯えるナタリーで遊んでいるだけだ。
「彼女が心配ですか? 大丈夫ですよ、殺したりはしません」
「殺す、殺さないの問題じゃない。女性をいたぶるような男が、許せないだけだ!」
裂帛の気合いとともに放った渾身の一撃は、受けにいったウォルスの剣を斬り飛ばしていた。返す刃がウォルスを捕えようとした瞬間、ナタリーのあげた悲鳴が響き渡る。
思わずそちらに視線をやれば、倒れ込んだナタリーに、ソードが剣を向けていた。彼女の手から跳ね飛ばされたスタッフが、遠く離れた大地に落ち、硬く乾いた音をたてた。
「ナタリーさん!」
「おっと、動くな。下手に動けばどうなるか、わかってるよな?」
唇を噛み締めたレヒトの首筋に、冷たい白銀の刃が当てられる。斬られた長剣を投げ捨て、その手に短剣を手にしたウォルスが、相も変わらずの笑みを浮かべていた。
「……万事休す。さて、それでは……」
「げぐっ!?」
死んで頂きましょう――ウォルスの言葉に、ソードのあげた妙な呻き声が重なった。
「なんです?」
声のしたほうへと視線を移すレヒトとウォルス。身を起こしたナタリーも、その状況が理解できなかったようで、呆然としていた。
視線の先には、倒れ伏したソードと、傍に転がっている銀色のスタッフ。
それは間違いなくソードによって弾き飛ばされたレイヴンのスタッフだが、スタッフが勝手に飛んでくるはずはない。三人の視線が、スタッフが転がっていたはずの方向へと向けられる。
つい先程まで、確かに誰もいなかったはずのその場所に――いつの間に現れたのか、黒い人影が立っていた。