第101話 錯綜する想い-3-
「……変わらんな、ここは」
薄ぼんやりと浮かぶ街並みに目をやって、疾風が小さく呟いた。この街で過ごした日々を、思い返しているのだろうか。
「うん。……この街はあの頃から、なにひとつとして変わってないよ」
目を閉じれば――優しい思い出が、色鮮やかに蘇る。
「……この街にいるのは、僕と貴方だけになってしまったけれどね」
「構わんさ。もともと、ここはお前のための街なのだから」
視線を快のほうへと移し、疾風は唇の端に笑みを見せる。
「……俺とお前がいれば、それで問題はあるまい?」
快は幾度か瞬きを繰り返し――くすりと笑った。
「そうだね。……あはは、なんだか昔に戻ったみたい」
「……昔?」
「あの時だよ。貴方がここに街を造ろうって言った時」
目を閉じ、眉間に手を当てて記憶を探っていたらしい疾風が、どこか苦笑にも似た表情を見せた。
「……あの時か」
「そうそう。誰も来なかったらどうしようかって言った僕にさ、貴方は同じことを言ったんだよ」
「……よく覚えているな」
「忘れるはずないよ。だって疾風ってば……」
快は口元に手を当てた。疾風の眉がわずかに跳ねる。
「あんな気障な台詞……」
笑いを堪えながらそう言えば、疾風はふいと視線を逸らした。暗くてよく見えなかったが、わずかに朱に染まる頬。
「……忘れろ」
「えー、嫌だよ。あんな疾風、滅多に見られないもの」
楽しげに笑う快に目をやって、疾風は小さく息を吐く。まんざら嫌そうでもなさそうに。
交わる視線が、甘く絡む。
「……少し、痩せたようだな」
快の頬に触れ、疾風は琥珀の瞳を細める。貴方のせいだよ、と返せば、疾風は咽喉の奥で笑った。
「……ずっと、俺を探していたのか。あの悪夢の夜から……十年もの間、お前は……」
「いつまでも過去に縋るなって……怒る?」
「……いや」
そうとだけ答えると、疾風は思案するように目を伏せた。
「……あれから……十年……」
すべてを失ったあの日。もう、随分と遠いことのように感じる。それでも、あの日――あの夜に感じた絶望は、快の心に癒えることのない深い爪痕を残していた。思い出すだけで、胸が押し潰されそうになるほどに。
悪夢に魘され、眠れなかった夜など数えきれない。それまで一滴も飲まなかった酒を浴びるように飲みはじめたのも、襲い来る悪夢から逃れるためだった。
「……不思議だね。貴方と過ごした時間のほうが、ずっと長いはずなのに。……たった独りの十年間は……長かったよ……」
幼い頃から、慣れていたはずなのに。孤独を抱いて、生きてきたのに。
いつからだろう。独りの寂しさに気付いてしまったのは。
「もう、僕のこと置いていかないで。……独りは、嫌だよ……!」
決して叶わぬ望みだと、わかっていても。そう願わずにはいられない。
それ以上のことは望まない。他にはなにもいらないのに。
――その願いが、叶うことはない。
「……快」
触れた指先を、頬から顎へと滑らせて。涙に濡れた顔を軽く上向かせる。
「……俺も、そのつもりでここへ来た。いまさらなにをと、お前は思うかもしれないが……」
もう一度だけ唇をあわせ、囁く。
「俺とともに来て欲しい、快。これからは、ずっと一緒にいよう。……永遠に」
鋭い琥珀の瞳の中、強い決意を滲ませて。その瞳の中に、快はレヒトの姿を見たような気がした。
「……優しいね」
「快?」
「……ありがとう、疾風。けどね、一緒には行けないよ……」
快は数歩、後ろへと退く。
まだ、手を伸ばせば届く距離だ。だが、その手が彼に届くことはない。二人の間に横たわる悲しい現実が――それを許してはくれないから。
「これは、きっと夢なんだ。僕の弱さが作り出してしまった優しい夢。……もう、目を覚まさなきゃね」
優しかった過去に縋り、ずっと現実から目を逸らしていた。それを、彼が叱ってくれた。
甘い夢の時間は終わりを告げたのだ。もう、目を覚まさなければ。
「僕は……もう……」
「……あの男か」
「え?」
聞き返す快に、疾風は琥珀の瞳を向けた。普段は鋭くも穏やかな光を湛える瞳に射抜かれ、身が竦む。彼にそんな冷たい眼差しを向けられたのははじめてだった。
「お前の心を縛るのは、あの男なんだな」
「……なにを、言ってるの……」
言葉の意味を掴めずに、快はそっと眉根を寄せる。
「俺とともにはいけないと、お前はそう言ったな」
「……言ったよ。だって、貴方は……」
続く言葉は、声にはならなかった。
「……俺の知るお前であれば、それでも俺とともに来ることを望んだはずだ。……あの男だろう。お前の心を縛っているのは」
「疾風……」
「俺はお前を連れてゆく。その障害となるのであれば、誰であろうと殺すだけだ。……誰にも邪魔は、させない」
静かな殺気を身に纏い、疾風が動く。動けずにいた快の横をすり抜け、疾風は真っ直ぐに歩いてゆく。
「! ……待って!」
快は疾風の手を掴む。振り返った疾風の瞳が、ほんのわずか、驚愕の色を湛えた。
自らの胸へと向けられた、快の銃口を映して。
「……本気とは思いたくないが?」
「そうだね。……僕もまさか昔の恋人に、銃を向けることになるとは思わなかった」
疾風が瞳を細める。快は無意識のうちに、掴んだ彼の腕を握り締めていた。
「……快、自分がなにをしているのかわかっているのか」
「わかんないよ、そんなの。……頭の中、ぐちゃぐちゃだもん……」
快は目を閉じて俯いた。
「……銃を下ろせ、快。俺にはお前と戦う理由はない」
「貴方にはなくても、僕にはあるの。……貴方が、僕の仲間を傷付けようとする限りは……この銃を下ろすわけにはいかないよ……」
俯いたままの快を見下ろして、疾風は小さく息を吐く。
「……変わったな、快。幼い頃のお前は、魔法の訓練さえ嫌がったというのに」
魔法が苦手な紅蓮に代わり、快に魔法を教えたのは疾風だった。基本的な魔法にすらてこずるような父親と異なり、快は魔法に関する優れた才を秘めていた。母親から受け継いだのだろう、幼い身体に宿る強大な魔力。
魔法が使えぬ者にはわからぬことだが、強大すぎる魔力というのは危険でもある。精神の均衡が破れれば暴走し、勝手に取り込まれては発露する精霊の力が、媒体となる本人すら巻き込んで周囲を襲う。精神の均衡を維持できる程度の大人となっても、強大な魔力を安定させるのは並大抵の苦労ではないのだ。それが不安定な心を持つ、幼い子供であればなおさらのこと。
疾風の危惧は現実のものとなった。彼が旅に出ている間に、快は抑え込んでいた感情を爆発させ――魔力の暴走を引き起こしていた。快が泣く度に精霊が荒れ狂い、風が暴走して周囲を切り刻んだ。誰もが快を恐れて距離を置き、快はさらに泣き叫んだ。
旅から戻った疾風は自らの魔力で周囲の精霊を抑え込み、なんとか快の暴走をとめると、そのまま快を連れて精霊界を飛び出した。それ以来、疾風は一度も精霊界の地を踏んでいない。
旅から旅への暮らしをしながら、疾風は魔法に関するありとあらゆる知識を掻き集めた。同時に快にも、魔力の抑え方と使い方とを教え込んだ。
快は師である疾風も舌を巻くほどの才を発揮し、難度の高い魔法も容易く使いこなして見せた。疾風に褒められるのが嬉しかったのか、快は次々と魔法を覚え――それでも、時折こう漏らすのだ。
この力が、誰かを傷付けてしまうのが怖い。快がそう呟く度に、疾風はこう言って慰めた。俺が必ず守るから、と。
「……そうかもね」
快は小さく呟いた。開かれた瞳が、揺れる。
「……貴方の言うとおり、僕は変わったかもしれない。あの頃の僕は、誰かを傷付けることで、自分が傷付くのが嫌だった。怯えた眼差しを向けられることが怖かった。……けど、今は違う」
ゆっくりと、快は顔をあげる。
「嫌なんだ。僕の弱さのせいで、誰かが犠牲になるのは……もう、嫌だよ……」
脳裏に蘇る仲間の笑顔。
シャウト、ミオ、レイヴン――そして。
(……レヒト……)
彼は優しくて、どんな時でも快を気遣ってくれた。そんな彼が見せた厳しさは、快にとって衝撃で。
けれど、そのおかげで、快はようやく気付くことができたのだ。過去に縋る自分の弱さと、ようやく向き合うことができたのだ。
「……たとえ貴方だろうと、僕の仲間を傷付けることは絶対に許さない。……僕が相手になるよ」
「倒せるのか、この俺を」
「……倒してみせる。僕は現実を生きてる。ようやく、それを認めることができたんだ。……レヒトが、それを思い出させてくれたから。……僕はもう、逃げない!」
溢れそうになる涙を、必死に堪え。震えそうになる腕に、ぎゅっと力を籠め。嗚咽を押し殺し、唇を噛み締めて。
「この手で、過去を断ち切る!」
真っ直ぐに疾風を見据えた快の瞳には、哀しくも美しい光が宿っていた。