第99話 錯綜する想い-1-
普段であれば気にもならないだろう雨音が、今夜はやけに耳についた。
未だやむ気配もなく、降り続く雨。長椅子に横たわったまま、妙に冴えた頭で、レヒトは一人、ぼんやりと物思いに耽っていた。
眠ってしまいたいと思う時に限って、睡魔は襲ってこなかった。身体は、疲れているはずなのに。
頭に浮かぶのは、あの肖像画のことばかりだ。
精霊狩りの犠牲になって死んだという、快の恋人。鋭い琥珀色の瞳と硬い金色の髪が、どこか猛禽類を思わせる――名は確か、疾風と言ったか。
奥の寝台で眠るシャウトを起こさぬように、レヒトはそっと身を起こすと、机に置かれたランプを手に取り、部屋の隅の本棚へと向かった。あの肖像画は、見付けた時と同じように、折り畳んで本の間に挟んでおいた。ランプの仄暗い明かりを頼りに、レヒトはその本を見付け出す。
目的の本を引き出すと、その隣に並べられていた本が棚から滑り、大きな音を立てて床に落ちた。慌ててシャウトのほうを振り返るが、彼は熟睡しているらしく、起きてくる気配はない。
レヒトは安堵の息を吐き、落ちた本を拾いあげる。
題名が消えて読めぬその分厚い本を、レヒトはぱらぱらと捲った。それは今まで見たどの本よりも汚れていて、著者が何度もこの本を開き、その都度、新たな書き込みをしたのだろうことを思わせた。
(……蘇生、と……媒体……どんな研究をしていたんだ……)
決して乱雑に書いたわけではないだろうに、書き殴られたようにも見える独特の筆跡。それが、本の半ばほどで途切れていた。その後はずっと、白紙の頁が続く。
「……これは」
レヒトは思わず声に出していた。
開いた本の最後の頁――今度ばかりは、震える指先で本当に書き殴ったのだろう、乱雑に並ぶその言葉。
目を閉じて、レヒトは小さく首を振った。
本を閉じて棚へと戻し、もう一冊の間に挟まれた肖像画をそっと手に取る。
描かれた二人は、幸せそうに笑っていた。もう戻ることのない、幸せだった過去の時間。やがて訪れる悲劇を、肖像画の中、笑う恋人たちはまだ、知る由もない。
「……君は、すべてを知っているのか?」
手にした肖像画に語りかけるも、答えは返ってこなかった。
部屋を出たレヒトは、階下から漏れるわずかな明かりに気が付いた。音を立てないように階段を下りれば。
「……快?」
レヒトに背を向ける形で椅子に腰かけていた快が、驚いたように振り返った。
「どうしたの、レヒト」
微笑んで見せるその顔に、影が落ちたように見えるのは――背にした蝋燭のせいだけではないだろう。
「……なんとなく、寝付けなくてな。君は?」
「うーん、僕も似たようなものかな。……いろんなこと、思い出しちゃってね」
レヒトに向けられた快の眼差し。だが、その瞳はレヒトを映してはいない。レヒトを通して、過去をともにした男の姿を見ているのだ。
あの肖像画の中で微笑む快も、そして今、レヒトの目の前で微笑む快も、レヒトのことを見ていない。彼女が見ているのは、彼女が求めているのは――レヒトではないのだ。
なぜだろう。たったそれだけのことなのに、なぜか無性に腹が立った。
「なにか飲む?」
「……いや」
短く答え、レヒトは快に歩み寄る。レヒトから目を背けた快は、テーブルに置かれた小さな蝋燭台に手を伸ばして、積もった誇りをそっと拭った。
「あんまり戻って来れないからね。すぐ埃が溜まっちゃって」
快は時折、どこか寂しげに微笑んで見せる。他人を拒絶する、美しい微笑。
「……ここに住んでいたんだな」
「まあね。……もう、十年も前の話だよ」
「……恋人と?」
快はなにも答えない。しかし、わずかに細められた瞳が、レヒトの言葉を肯定する。
寂しそうな、快の横顔。レヒトの心に、暗い感情が渦巻いた。
「……君は、俺に言ったな。人を探して旅をしていると。……もう、いないんだろう。君の探している人は」
断言するようにレヒトが言えば、快の顔から微笑みが消えた。
「そんなこと……」
「俺がそう聞いたのは精霊王様からさ」
君と一緒に精霊界まで行った時に、とレヒトは言葉を続ける。
「君の探している人――疾風という人は、十年前の精霊狩りで犠牲になったと聞いた」
「……そう。パパってば、そんなこと言ったんだ……」
小さく呟き、目を閉じる。
「確かに、ね。僕と疾風は精霊狩りにあった。この街で……」
そう言いかけ、快は首を横に振った。十年前、自身と恋人の身を襲った悲劇が、その脳裏に蘇ったのだろうか。
「……けどね、それは間違い。だって、レヒトも見たでしょう」
レヒトを映す快の瞳――底すら見えぬ悲しみの色。
「彼は……疾風は生きてた。死んでなんか……いなかったんだよ」
「……快。君は……本当は……」
「嫌! 聞きたくない!」
「聞くんだ、快!」
耳を塞ごうとした快の両手を掴み、レヒトは声を荒げる。
レヒトは突き動かされていた。自分でも理解できない、暗く冷たい感情に。
「過去を嘆かず、未来へ進めと言っていたのは君だろう!」
俯き、顔を背けた快が、唇を噛み締めたのがわかった。
「快……どうして現実を見ようとしない。君は知っているはずだ。彼はもう、この世には……」
「やめて!」
レヒトの言葉を遮って。顔をあげた快の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。真っ直ぐにレヒトを見据える、濡れた瞳の鋭さに、レヒトは言葉を失った。
「貴方になにがわかるっていうの!? なにも知らないくせに……わかったようなこと言わないでよ!」
「……快、聞いてくれ。俺は……」
「もう嫌! 放してよ!」
掴んでいた手を振り解かれる。
――抑えられなくなった感情が、一気に溢れ出すのをレヒトは感じた。
「……いつまでも」
快に振り解かれた手を、レヒトはぎゅっと握り締める。
「いつまでも、死んだ人のことを想い続けていたって、仕方ないだろう!」
快が目を見開き、息を呑んだ。
それと同時に、頬に感じた衝撃。
叩かれたのだと、レヒトがようやく理解した時には、彼女の姿は消えていた。
「……、……」
よろよろと椅子に腰を落とし、レヒトは両手で顔を覆う。
「……最低だ。俺は……なんてことを……」
レヒトの心を支配していた冷たく暗い感情は消え失せ、代わりに湧きあがるのは、激しい後悔と自己嫌悪。
開け放たれた扉から、強い雨が吹き込んでくる。未だやむことのない雨の中、飛び出して行った快。
――いまさらになって、叩かれた頬が酷く痛んだ。