第98話 記憶の中のパールセフォン-2-
「へぇ……あんた、意外と着痩せするんだな」
借りている民家の二階にある二部屋を、男女に別れて使うことになり、レヒトとシャウトは部屋へと移動し、冷えた身体を温めようと暖炉に火を入れた。
鎧を外し、中に着ていた服を脱いだレヒトに視線を向け、シャウトがそう声をかけてきたのである。
レヒトは小さく苦笑した。
「俺も戦いを生業とする者だ。細くはないさ」
部屋にあった姿見に、レヒトは身体を映してみた。
レヒトは決して華奢ではない。彼が細く見えてしまうのは、もちろんシャウトの言うように着痩せして見えるということもあるのだろうが、なにより並んで立つ男がシャウトだからというのが大きい。
同じ男として悔しい気もするが、こればかりはどうしようもない。生まれ持った体格というものだ。
「身体、傷だらけだな」
「仕方ないさ。戦いに従事する以上は」
胸、背中、両腕。衣服に隠されていたレヒトの身体に存在する、たくさんの傷痕。露出されている上半身だけでなく、下半身にも、目立つ傷痕が幾つも残っている。痕が残らないような怪我など、それこそ数えきれないほどに。
「……誰かを守るような戦いじゃ、余計に傷も増えるわな」
傷痕を眺めながらシャウトが言う。
レヒトにとって、戦いとは攻めるものではない。守るものだ。襲い来る相手を倒すという点では変わらないが、戦い方はまるで異なる。
これが攻めの戦いであれば、レヒトが考えるべきことはふたつだけだ。いかにして敵を倒すか、いかにして自分が生き残るか。このふたつだけでいい。だが、レヒトの戦いはそうではない。守りの戦いをするレヒトには、なにより優先させなければならないことがある。
主たる者を、守り抜くこと。そのためならば、己の身など厭わない。それが、レヒトの戦い方だ。
身体の傷を追うように動いていたシャウトの視線が、レヒトの腹部でとまる。
右脇腹に走る、真新しい傷痕。竜谷でシャウトと対峙した時、自ら差し貫いたものだ。すっかり塞がり、痛みも違和感もないのだが、この傷痕は一生、消えることはないだろう。
「……悪いことしちまったな、俺様のせいでよ」
レヒトは首を横に振った。
「気にするなよ。俺が勝手にやったことなんだから」
「そうは言ってもな、そりゃ気にするなってほうが無理だろ。あんたはそのせいで生死の境を彷徨ったんだぜ」
俺様のせいで、とシャウトはもう一度言った。レヒトはしばし思案する。
「……そう言えば、シャウト。快が随分と悩んでいたぞ。自分の不注意で、あんたに怪我させたって」
シャウトは虚を突かれたように、幾度か瞬きを繰り返した。
「怪我……って、翼のあれか? あれは姫のせいじゃねぇって言ったのにな。あれは俺様が勝手に……ああ」
レヒトの言わんとしたことを理解したらしく、シャウトが小さく苦笑する。レヒトは頷いて言葉を続けた。
「そう。俺が勝手にやったこと。だからあんたが気にする必要はないんだ」
「……ありがとよ、レヒト。姫にも、もう一回ちゃんと言っとくぜ。気にする必要はねぇぞってな」
自らの肩に手を触れながらシャウトが笑う。レヒトも笑い返して、寝台代わりの長椅子に腰かけた。
窓の外から聞こえる雨音が、言葉が途切れ、静かになった部屋の中にそっと響く。少しは、弱まっただろうか。
(……レイヴン)
微かな雨音を聞きながら、レヒトはレイヴンのことを思い出していた。今、どこにいるのか。なにをしているのか。
これまでにも、何度か魔物と遭遇した。魔物が現れるということは、レイヴン――『CHILD』が無事であるということだ。苦しんでいる人々には申し訳ないと思いつつも、魔物と遭遇すると、どこか安堵する自分がいる。
レイヴンの中に封じられていた存在――それがなんであるかを知った今でも、レヒトはレイヴンを救いたいと思っている。それが本当に正しいことなのかどうか、どれほど悩んでも、答えが見つかることはなかったが。
(……それでも、俺はレイヴンを……無邪気なあの子供を……)
――救ってやりたい。その想いに突き動かされるように、レヒトは先を急いでいた。感情と理性とに翻弄され、心は迷い、焦りだけが強くなる。
(……焦ってどうにかなるもんじゃないって、わかっているのにな)
レヒトは小さく息を吐き、沈み込む気を紛らわせようと長椅子から立ち上がる。部屋の壁一面を占拠している本棚に近付くと、なんとなしに見渡した。
わずかな隙間もないほど詰め込まれた本の数々。かなり古いものから比較的新しそうなものまで並べられているが、特に分類された様子もない。とにかく手当たり次第、隙間があれば突っ込んだ、という感じだ。この部屋の主はどうやら、それほど几帳面な性格ではなかったらしい。レヒトはなんとなく、そのうち一冊を手に取った。
ヘヴンに生きる種族について書かれた本らしい。種族の分類、そして歴史などが、仔細に渡って書き記されている。
どうやら部屋を埋め尽くすこの本は、誰かに読ませるという目的で書かれたものではなく、著者の研究の成果を纏めたものらしかった。お世辞にも丁寧に書かれているとは言えず、書かれた文字を二重線で消し、その上から新たに書き込まれたりもしている。他の本も幾つか開いてみたが、筆跡はすべて同じであった。この部屋の主が著したものだろうか。
ぱらぱらと捲っていたレヒトは、とある一文に興味を惹かれて手をとめた。
『――魔法学分類上は精霊族、竜族だが、能力の面で見るならば、自然干渉系魔法を使う精霊人、肉体変化系魔法を使う魔精霊、および竜族とするのが正しいのではないかとする考えがある。しかし、それは間違いだ。なぜなら――』
その後に続く文章は、滲んでしまって読み取ることができない。以前、レイヴンがこれと同じような話をしてくれたことがあるのだが、どうしても思い出せなかった。
「……シャウト」
「ん? どうした?」
快に渡された布で濡れた髪を乾かしていたシャウトが、レヒトの声に反応して顔をあげた。
「……竜族と魔精霊は、同じ系統の魔法を使うんだろう? どうして同じ種族として扱われないんだ?」
魔法に関して無知なレヒトの問いかけに、シャウトは目を丸くした。
「ど、どうしたレヒト。いきなり妙なこと聞いて」
少しばかり憮然としながらも、レヒトは開いたままの本を指差した。
「この本に書いてあるんだよ。……答えになってる肝心な部分が、潰れてしまって読めないんだ」
「そういうことか。どれ、見せてみな」
頭に布を載せたまま近付いてきたシャウトに本を手渡し、レヒトは問題の箇所を差し示す。シャウトが文字を追うことで、しばし流れる沈黙。ややあって、シャウトは感嘆の息を吐いた。
「……これはなんつーか、驚いたな。この著者は相当、魔法や精霊に関する深い知識を持ってたんだろう」
「そんなに凄いのか」
そういったことに詳しくないレヒトには、まるでわからない。
「ああ。……さて、あんたの質問に答えると、魔精霊と竜族の使う魔法はまったくの別物だ。確かに見た感じでは似てるように感じるかもしれないが、実際には大きく異なる。魔精霊は精霊を取り込み、解放することで一時的に能力を高める。これが一般に能力解放と言われる状態で、これによって原型に近い動物の姿へと変化する。竜族は逆だ。自らの力を抑えることで、身体に流れ込む精霊の力を制限し、竜族としての本来の姿から人間の姿へと変化させている」
「ええと……もともと竜族は、あの大きな竜の姿をしているってこと、か?」
「そういうことだ。ずっと昔――俺様が生まれたばかりの頃は、竜族も本来の姿で生活してたらしいぜ。ところがある時、事件が起きて……それ以来、竜族は本来の姿を隠すようになったんだとさ。俺様は覚えてねぇから、これは兄貴から聞いた話だがな」
その言葉に、レヒトはドラゴン・リバティでシュリークより聞いた、痛ましい過去の事件を思い出した。覚えていないとはいっても、自身の両親が、その事件によって心ない人間たちに命を奪われたことは知っているだろう。
レヒトはこれ以上、その話題には触れないことにした。
「そうか。……ありがとう、なんとなくだがわかった気がする。要するに、精霊人と魔精霊は、もともと人間と大差ない外見をしていて……竜族は本来の姿を変化させることで、人間に近い外見になっている……」
「著者の言わんとしたこととは違うが、まあ間違いじゃない」
シャウトはそう言って笑った。
「……しっかし、この著者は何者だろうな。そんなことまで知ってるなんざ。竜族ならともかくとして、これを書いたのは精霊人だぞ」
「どうして精霊人だとわかるんだ?」
首を傾げるレヒトに、シャウトは開いたままの本を指で軽く叩いた。
「文字に癖がある。今でこそ、ほとんどの種族が同じ言葉を使ってるが、昔はそうじゃなかった。話す言葉は同じでも、文字に記すとなると、それが顕著に表れる。……これは人間が使う文字だが、精霊人の文字の癖が抜けきってねぇ」
なんとなく感じた読みづらさは、文字に残る癖のせいだったのだろう。
「よっぽど研究熱心だったんだろうな。……待てよ、そういえば」
「シャウト?」
「……兄貴の友人に、精霊人がいた。珍しいと思ったんだ、あの兄貴に。俺様はあんまり興味もなかったから、直接会ったこともねぇし、よくは知らねぇんだが……十年前、精霊狩りの犠牲になったって話は聞いた」
その言葉が、レヒトの胸に引っかかった。まさか、とレヒトは首を振る。
手にした本を戻そうとすると、間に挟まれていたのだろう、折り畳まれた一枚の紙がひらりと舞った。すっかり色褪せ、端が擦り切れてぼろぼろになったそれを、レヒトはそっと拾いあげ――。
「!」
レヒトは言葉を失った。
「どうした、レヒト。……それは?」
レヒトが手にした紙を覗き込んだシャウトが、氷色の瞳をすぅと細めた。
それは、一枚の肖像画。肖像画というよりは、腕に覚えのある者がさらさらと描いた似顔絵、とでも表現すべきものかもしれない。色褪せてしまった古いものではあったが、そこに描かれているのは、どちらも二人の知る人物だった。
「……姫」
悪戯っぽい笑顔で、隣に立つ男に腕を絡ませているのは、快。そして、その隣で微笑む男は――。
「琥珀の……」
「……天界で会った奴か」
「ああ。その前に、俺は真魔界でも会っている。……そうか、あの時……」
あの時、なぜ彼が魔物に襲われた自分たちを助けるような真似をしたのか、レヒトはずっとわからずにいた。だが、ここにきてようやくその謎が解けた。彼はレヒトたちを助けたわけではない。快を助けたのだ。
「……だとすれば、なぜ?」
レヒトは目を閉じた。混乱している。考えれば考えるほど、答えが逃げて行くような気がした。