第97話 記憶の中のパールセフォン-1-
元は街道であったのだろう荒れ果てた道を、長い外套を羽織った人影が駆け抜けてゆく。
魔界首都ロイゼンハウエルから遥か東、精霊界にも程近いこのあたりは、魔界でも辺境と呼ばれる場所にあたる。
朝方までは心地よいほどの快晴であったというのに、昼を過ぎたあたりから降りはじめた雨は、日が落ちる頃には雷まで伴う豪雨へと変化していた。
強い風によって吹き付けるようなこの豪雨では、羽織った外套もあまり役には立たない。上着どころか鎧の下に着込んだ服にまで水が滲み込み、レヒトは気持ち悪さに顔を顰めた。
「あーん、もう! だからさっき通った街で少し雨宿りしようって言ったのに! ねぇ、レヒト!」
外套の合わせ目を握り締め、豪雨の中を走る快が愚痴を零すと、少し遅れて走るシャウトが、言葉を掻き消してしまうほどの雷鳴に負けまいと大声を張り上げる。
「街ってありゃ廃墟だったじゃねぇか! あんなとこで野宿なんて冗談じゃねぇ! なぁ、レヒト!」
「……はは。まぁ、な……」
レヒトは言葉を濁した。ちなみに、ミオは先程からずっと我関せずを決め込んでいる。素晴らしい状況判断能力だと言えよう。
「仕方ないじゃない。あの黒い光が降り注いでから、魔界の街はほとんどが壊滅しちゃったんだから。……あ、シャウトってば、もしかしてこの間の……」
「んなわけねぇよ! おい、レヒトからもなんとか言ってくれ!」
「そうやって誤魔化すあたり怪しいなぁ。ね、レヒトもそう思うでしょ」
二人から外套の裾をぐぃと引かれ、軽く首が閉まる。
(……神様。いっそのこと二人に神罰でも与えてくださいませんか。少しはおとなしくなるでしょう……)
雨にも負けず、風にも負けず。ぎゃあぎゃあとうるさい二人の声を背後に聞きながら、レヒトが物騒なことを考えていると。
「あっ」
不意にミオが声をあげた。
とはいえ、別にレヒトの願いが通じて雷が落ちたわけではない。二人に雷が落ちれば、至近距離にいるレヒトも巻き添えである。それは正直、御免こうむりたい。
「どうした」
足をとめたミオに問いかければ、彼女はすっと指を差した。
「あれ……街、じゃありませんか?」
その指を追うように視線を動かせば、確かに。豪雨のせいで霞む視界の中、ぼんやりと浮かぶ街の影。
「……パールセフォン」
小さく呟いた快のほうへと視線を移したレヒトは、外套から覗く彼女の瞳に、一瞬、深い悲しみの色を見たような気がした。
「パールセフォン?」
聞き返したレヒトに目を向けて、快はこくりと頷いた。大きな蒼穹色の瞳の奥に映った悲しみの色は、もう見えない。
「あの街の名前だよ。パールセフォンはね、精霊界に最も近い魔界の街なんだ。……十年前に、住人は誰もいなくなってしまったけれどね」
そう言って、彼女は小さく息を吐く。
「少し、寄っていこうよ。雨宿りくらいはできると思うから」
「……そうだな」
レヒトは濡れた前髪を掻きあげた。
水を吸って重くなった衣服は身体に纏わり付き、余計に体力を消耗する。日が落ちるとともに気温もぐっと下がり、このままでは確実に風邪を引いてしまうだろう。
「快。精霊の森までは、まだかかりそうか?」
「うーん、そうだね。このまま休みなく走っても、今晩中には着かないと思うよ。道も悪いし、この豪雨だからね」
「……そうか。なら、今晩はあの街で休んでいくことにしよう」
レヒトがそう宣言すると同時に、どんよりとした重たい雲に覆われた空に稲光が走った。雨は弱まるどころか、ますますその勢いを増しているようだ。
「……こりゃあ、さすがにまずいな。この際、廃墟だろうが仕方ねぇか。とにかく、雨を凌げる場所を探そうぜ」
一行は進路をやや北に変え、雨の中に佇むパールセフォンの街へと走り出した。
廃墟を予想し、街の南門を潜った一行の目に飛び込んできたのは、ほとんど無傷な街並みだった。
街は十年もの間打ち捨てられていたらしいが、被害らしい被害といえば壁の一部や石畳に亀裂が走っているくらいのもので、街としての原型はとどめている。被害の大きかった魔界中央部からは距離があるため、この街は壊滅を免れたのだろうか。
パールセフォンは中央部に広場があり、その周囲をぐるりと家々が囲む、円形状の造りをした街だ。このような魔界の辺境にある街にしては、かなり大きく立派でもある。
この街をよく知るという快に導かれ、一行は街の西部を目指す。その途中、通りかかった街の中央広場で、レヒトは思わず足をとめた。
中央広場に安置された石碑。そこには、こう刻まれていたのだ。
――人間と精霊人。その絆が、未来永劫続くことを願って。
ここは、人間と精霊人――異なる種族が、ともに暮らした街だったのだ。
街の西側にある、一軒の小さな民家。生活の痕跡は見受けられないが、不思議と掃除は行き届いているようだ。
「……っ、くしゅん!」
家に入るなり、かなり控えめなくしゃみをしたのはミオである。それも、続けて三度ほど。
「おいおい……大丈夫か、嬢ちゃん」
「はい、大丈夫です」
最初の頃は、嬢ちゃん、と呼ばれる度に訂正していたミオだが、まるで応える様子のないシャウトに呆れ果てたのか、ついに諦めたらしい。シャウト曰く、信頼の証であるというあだ名呼び。唯一、名前で呼ばれているレヒトがその理由を尋ねれば、適当なのが思い付かなかった、とのことである。
「くしゃみ三度は美人の噂、っていうんだよ。……ちょっと待っててね。着替えと適当な布、持ってくるから」
そう言って、快は迷うことなく二階へ続く階段をあがっていった。
「美人の噂、だとさ。確かに嬢ちゃんは可愛い顔してるからな。こりゃあ引く手数多だろうな」
「え! そ、そんなことないですよ! わ、私は……そんな……」
もし、これが快であれば、彼女は慣れた様子でさらりとかわすのだろうが。ミオはあまり慣れていないのか、頬を赤く染めて目を伏せた。こういう真面目で純情な女の子をからかうのが大好きなのだ、このシャウトという男は。
案の定、シャウトはにやりと笑うと、目を伏せたままのミオに問いかける。
「嬢ちゃんには好きな男とか、いないのか」
「え……好きな人、は……ええっ!?」
弾かれたように顔をあげたミオが、また赤くなる。
「ははーん、その様子だといるんだな。嬢ちゃんの心を射止めた野郎の顔が見てみたいもんだ」
「そ、それはだめですよ! だって、だってそんな……わ、私……私は、その……あ、あぅあぅ……」
耳まで真っ赤になって、意味不明な言葉を発するミオ。シャウトはその様子をにやにや笑って見ている。
「あまりミオをからかうなよ、シャウト」
「わかった、わかった」
ミオは、十六歳になるという。シャウトが故郷に残してきた、大切な少女と同じ年頃なのだ。だから放っておけなかったり、ついついからかいたくなったりするのだろう。
「も、もう! からかわないでください!」
「はは、悪かったって」
屈み込み、シャウトはミオの頭を大きな手でそっと撫でる。どこか父親を思わせるその仕草に、ミオがすぅと瞳を細めた。彼女もまた、帰りを待っているだろう大切な人を思い出したのだろうか。
「しっかし、まずはこの服なんとかしねぇと気持ち悪……っくしょい!」
続けて二回のくしゃみをして、シャウトは鼻を啜った。
「シャウトは二回か」
「二回ですね」
顔を見あわせて頷く二人に、シャウトが怪訝な眼差しを送る。
「なに数えてんだ」
「いや。さっき快から、くしゃみ三回の時は美人の噂だって聞いたから、なんとなく……、っ!」
レヒトはくるりと背を向ける。
「……四回。あんたのくしゃみ、なんつーか猫みたいだな。男らしくないぞ」
「うるさいな、くしゃみに男らしいもなにもあるか」
「それも四回だぜ、四回。せめて二回くらいにしとけよ。俺様を見習って控えめに」
レヒトが言い返そうとすると、綺麗な布と四人分の着替え一式を抱えた快が二階から降りてきた。
「なんの話で盛り上がってるのかと思えばくしゃみ談義? もしかして、さっき僕が言ったから?」
レヒトが頷くと、やっぱりね、と快は笑った。
「姫。くしゃみ二回ってなんだ?」
「悪口」
「んなっ! ……兄貴か? 兄貴だな!? 絶対に兄貴だ!」
吠えているシャウトに視線を向けつつ、ドラゴン・リバティにいるであろうシュリークのほうがくしゃみをしているのではないかとレヒトは思った。
「本気にしちゃって。単なる言い伝えだよ、言い伝え」
快はくすくすと笑うと、男性用の着替えを二人分、レヒトに手渡した。
「はい、これが二人の分。レヒトにはちょっと大きくて、シャウトには少し小さいかなぁ。着られるとは思うんだけど」
「ありがとう。……と、聞いてもいいかな」
「なに?」
レヒトは頬を掻いた。
「……くしゃみ四回って、なんだと思う?」
「え。……そうだね、僕も三回までは聞いたことあるけど……」
快はしばらく悩んだ後、名案を思い付いた時のように指を鳴らした。
「風邪、かな」
そう言ってウィンクして見せる。それを聞いたレヒトとミオは、顔を見あわせて笑った。