第93話 花の少女-2-
「うーん、よく食べたね。もうなんにも入らないよ」
部屋に設えられた柔らかな寝台に腰かけて、幸せそうに快が言うと、同意の声があちこちからあがる。
「絶品でしたね、あのお料理」
「だな。なんか久しぶりに美味いもん食った、って感じだぜ。こんな状況で美味い飯にありつけるとは思わなかったからな」
部屋の片隅で武具の手入れをするミオと、寝台に寝転んだシャウトの言葉に、レヒトは小さく苦笑する。
「大袈裟だな……と言いたいとこだが、確かに美味しかった。こうして野宿も避けられたことだし、幸運だったな」
食事を終えたレヒト一行を、リヒャルトは客室に案内してくれた。ピュリア城も黒い光に穿たれて、決して軽微とは言えない被害を受けたらしく、無事だった客間が幾らもないことをリヒャルトは何度も詫びた。その上で一行が案内されたのは、そこそこの広さがある大部屋だった。部屋の壁側には隣の部屋へと通じる扉があり、その扉を挟むような格好で二台ずつ設えられた寝台、中央には洒落たテーブルと長椅子。造りから見るに、おそらく客人というよりは、その護衛や使用人に宛がう部屋なのだ。リヒャルトが何度も申し訳ないと言っていたのはそのためだったのだろう。とはいえ、レヒト一行の中にそんなことを気にする者はなく、野宿を避け温かい部屋で横になれることを、一行は素直に喜んだ。
城の内部も破損が酷く、危険だからなるべく出歩かないで欲しいと言い残して、リヒャルトは早々に部屋を出て行った。どうやら、彼がこの城の雑務を一手に担っているようである。
(若いのに大変だな。……若いといえば、ミーツェお嬢さんも……)
レヒトがこの街を訪れたのは、レイヴンとともに旅に出る五年前だ。旅のはじまりから数えて一年と少し経っているはずなので、ミーツェと出会ったのはおよそ六年前ということになる。
(……となると、ミーツェお嬢さんは十七歳か)
聞くところによると、ミオが十六歳だということだ。レヒトの記憶の中ではまだ幼さの残るミーツェも、ミオと同じくらいになっているのだろう。
「綺麗になってるだろうな……」
「なにがだ?」
隣の寝台に寝転んだシャウトに問いかけられ、レヒトははっと我に返った。思わず斜め向かいの寝台に腰かける快の顔を窺うが、彼女はミオとなにやら談笑しており、こちらに気付いた様子はない。
レヒトはそっと胸を撫で下ろした。
「なんでもないさ」
そう答えて、レヒトは窓の外へと視線を向けた。ここからだと、城の中庭がよく見える。
(……あの中庭だ。ミーツェお嬢さんに会ったのは……)
懐かしい記憶。ラグネスとはぐれて中庭をうろうろとしていたレヒトに、ミーツェは優しく声をかけてくれたのだ。大輪の花に囲まれて、美しく微笑んでいた花の少女。もう少女とは言えぬ、大人の女性としての階段を上っているのだろうミーツェを想う。
気付けばレヒトは立ち上がり、扉へと向かって歩き出していた。
「レヒトさん。どこか行かれるんですか?」
それに気付いたらしいミオに声をかけられ、レヒトは少し気まずげに笑った。やましい思いがあるわけではないが、秘密の逢瀬に心惹かれたのも事実なのだ。もう一度会えるという保証など、どこにもないというのに。
「少し外を歩いてくるよ。あの中庭に行くだけだから」
窓の向こうを指差してレヒトは答える。快とシャウトはきょとん、とした様子だが、レヒトの隠れた趣味を知っているミオはくすりと笑った。
「わかりました。あとで、私も行ってみます」
レヒトは頷き、宛がわれた部屋を後にした。
ピュリア城の中庭は広大だ。地方領主の城にしては、特に広い部類に入るだろう。ピュリア地方にしか咲かないというミーツェの花を中心に、繊細かつ色鮮やかな花々が咲き乱れるこの中庭は、他の領主や権力者などにも愛好者が多く、ピュリア城に来賓が途切れることはなかったという。
ラグネスも例外でなく、数年に一度はこのピュリア城を訪れては咲き乱れる花々を楽しんでいたらしい。レヒトがともにここを訪れた六年前、病気で臥せっていた前領主の見舞いに行くというラグネスと別れ、一人この中庭を散策しているうち、案の定というかなんというか、やはり迷子になってしまったのだ。広大な中庭に人の姿を見付けられず、途方に暮れていたレヒトの前に、彼女は姿を現した。
はじめ、レヒトは花の少女だと思ったのだ。冗談でも比喩でもなく、本当に。柔らかな花弁のようにふんわりと広がるドレスに身を包み、咲き誇る大輪の花に負けぬほどの可憐な美貌。呆気にとられて茫然と佇むレヒトに対し、彼女は冗談めかしてこう言ったのだ。
『花盗人の方ですの?』
それに対して、レヒトは悪戯っぽくこう答えた。
『ええ。貴女を盗んでみたくなりました、花のお嬢さん』
今思えば随分と恥ずかしい台詞だが、その時は不思議と言葉になったのだ。レヒトの言葉を聞いた彼女はくすくすと笑い、レヒトを午後のティータイムに招いてくれた。ラグネスが戻るまでのわずかな時間、レヒトは彼女の正体を知らぬままに話をした。そして帰り際、彼女は微笑んで言ったのだ。
『花盗人の方。この地を守護する私は、貴方の指に手折られるわけにはまいりませんけれど。よろしければ、またいらしてくださいまし』
そこでようやく、レヒトは花の少女の正体を知ったのだった。
「……懐かしいな」
中庭を歩きながら、レヒトは小さく呟いた。
あの頃のピュリア城は美しく、クリスティーヌの至宝などと謳われることもあったほどだが、レヒトの記憶に残るその面影は、もはやどこにも残ってはいなかった。
無残にも枯れ果て、からからに乾いて地に落ちた花弁。萎れた葉が悲しく風に揺れ、剪定されずに伸び放題となっている細い蔦。
これがあの美しいピュリア城なのかと、レヒトは少し悲しくなった。
迷路のような造りの広大な中庭を、黙々と歩き続けていたレヒトが足をとめたのは、中庭のちょうど中心あたり。枯れた蔦に覆われたフェンスで区切られた秘密の花園。ここは限られた者しか立ち入ることを許されない場所だと、迷い込んだレヒトを見てミーツェは笑った。彼女がレヒトを花盗人と表現したのもそれゆえだったのだろう。
レヒトはフェンスの向こうに目をやった。夜の闇が落ちた中庭は真っ暗で、向こう側を見ることはかなわなかったが、確かにこのフェンスの向こうで、レヒトはミーツェとティータイムを楽しんだのだ。ほんのわずかな時間だったが、とても楽しかったのを覚えている。ミーツェに乞われるままに、レヒトは自分の知る外の世界を語って聞かせた。身体が弱く、あまり外出できなかったというミーツェにとって、外から迷い込んだ花盗人は珍しかったのだろう。
レヒトもまた、同じようにこの不思議な邂逅を喜んでいた。
ミーツェに出会った六年前は、レヒトに秘められた不思議な力の存在が明らかとなった頃だった。ある夜、執務を終えたラグネスが飲もうとしていた紅茶に、レヒトは小さな違和感を覚えた。理由もはっきりしないままに、ラグネスからカップを奪い取ると、レヒトは一気に飲み干した。咽喉が焼けるような感覚とともに意識を手放し、目覚めた時にはそれから十日が経過していた。レヒトが感じた違和感は、毒によるものだったらしい。救護室の寝台の上で尋問され、レヒトは真実を話すべきか迷った。信じてもらえないだろうと思ったからだ。しかし逡巡の末、レヒトは結局、ありのままをラグネスに伝えた。ラグネスも酷く驚いたようだったが、最終的にはレヒトのことを信じてくれたのだ。その後も、ラグネスの命が狙われる度に、レヒトは予感めいたものを感じるようになった。ラグネスに言われて参加した模擬演習にて、レヒトの卓越した戦闘技術も明らかとなり、庭師の真似事をしていたレヒトは、正式にラグネスの護衛として任命されたのだ。
そこまではよかった。ところがラグネスに拾われた当初から、妻も娶らず子もなさずにいたラグネスの隠し子ではないか、と陰口を叩かれていたレヒトへの風当たりは、それをきっかけとしてさらに強くなった。無遠慮に投げかけられる視線に辟易し、当時のレヒトは軽い人間不信に陥っていたのだ。
そんな時に出会ったミーツェは、レヒトの周囲にいた人々とはまるで異なっていた。外見もさることながら、ミーツェは内面も美しかったのだ。話が弾み、ついうっかりと自らの能力を話してしまい、後悔するレヒトに向かって、彼女はふわりと微笑んでこう言った。
『それはきっと、貴方が大切な方を守れるよう、神様がお与えくださった力なのですわ』
その一言はレヒトにとって衝撃で、同時にどれほどの救いとなったのか。あれから六年の歳月が流れた今でも言葉にできない。ただ、その一言で、今まで胸を締め付けていた鎖がふっと解けたような気がしたのだ。
「……ミーツェお嬢さん」
恩人、などと言ったら大袈裟だと笑われるかもしれないが。しかし、レヒトにとって、彼女との出会いは運命であり、今こうしていられるのも彼女のおかげと言っても過言ではないのだ。
レヒトはフェンスに近付いた。鍵がかかっているため開きそうにはないが、この程度の高さであれば越えられる。
「……よし」
フェンスに手をかけて乗り越え、レヒトは秘密の花園へと降り立った。