第8話 はじまりの終わり-2-
「……ヒト……レヒト!」
「ん……」
開いた目に最初に飛び込んで来たのは、心配そうに顔を覗き込むレイヴンの姿。
「……ここ、は」
言いながら周囲へと視線を移して、レヒトは自身が寝台に寝かされていることに気付いた。
「天界城の救護室だ」
レヒトの問いに答えたのは、レイヴンではなかった。身体は起こさず、首だけを動かして声の主へと顔を向ける。
「……レイ様……」
「おぅ、大丈夫かよ。急にぶっ倒れたってんで、心配したんだぜ」
「……倒れた?」
「そうだよ。レヒトってば空間転移装置でこっちに来た後、いきなり倒れちゃったんだよ。ずっとうなされてたし……」
レイヴンの言葉から察するに、やはり現実ではなかったようだ。となると、思い起こされるのはあの妙な夢。先程のよくわからない幻覚のようなもので見た白髪の男は、妙な夢でレヒトが自己投影していた男によく似ていた。
(……あれは、なんだったんだ……)
レヒトが額に手をやると、心配そうに眉根を寄せたレイヴンが覗き込んでくる。
「ねぇ、まだ具合悪いの? 大丈夫?」
「もう大丈夫さ。心配かけたみたいだな」
そう言って起き上がり、まだ心配そうに見上げるレイヴンの頭に手を置けば、安堵したのか、その顔にようやく笑みが戻る。
「失礼するよ」
聞き覚えのある声が響いたのは、ちょうどそんな時だった。扉のほうへと視線を移せば、そこには。
「ラグネス様」
扉を背にして立っていたのは、優しく穏やかな眼差しの中年男性、ラグネス=クリスティーヌ。レイの実兄にしてレヒトの主、どこか茫洋とした雰囲気を持つが、癖者揃いの魔界評議会で議長を務めるだけあり、相当の切れ者である。
「やぁ、レヒト。急に倒れたと聞いて心配したよ。具合はいいのかい?」
「ご心配をおかけして申し訳ありません、もう大丈夫ですので」
レヒトが答えると、ラグネスはやんわりと微笑んだ。
「そういえばさ、昨日の夜も変な夢見たって言ってたじゃん。つかれてるんじゃないの?」
「ああ……」
軽くレイに視線を向けつつ、レヒトは続ける。
「……確かにつかれてはいるな。いろんな意味で」
レヒトの視線に気付いたらしいレイが、片眉を器用に跳ねあげた。
「……あんだよ、その目は」
「いいえ、なんでもございません」
涼やかに返せば、むっとしたような表情を見せる。
「お前、いい性格してやがるぜ」
「レイ様ほどでは」
「はっはっは! 違いねぇ!」
レヒトが言葉を返すと、レイは一瞬きょとんとした表情を見せ、豪快に笑った。人を小馬鹿にしたような普段の笑い方とは打って変わって、やんちゃな悪戯少年のような、どこか憎めない、人好きのする笑顔だった。
「研究所に行かせるために、森の中を通らせたらしいね。……魔物の目撃情報も増えていたから大変だったろう」
「おかげで酷い目に遭いました」
ラグネスの言葉にレヒトが頷くと、レイは唇の端を持ち上げた。
「けどさ、レイさん。なんでわざわざあんな森の中を通らせたりしたの?」
レイヴンが助けてあげなきゃ死んじゃってたとこだよ、と続けると、レイはさも当然とばかりに言い放った。
「そのほうが面白そうだからに決まってんだろ」
さすがに固まった三人を見渡して、レイは腕を組み、冗談だと笑った。それから少しばかり真剣な表情を作ると、レイヴンに目を向けて言葉を続ける。
「こいつを真っ直ぐ研究所に向かわせたら、お前はなんの興味も示さなかっただろ。どうせ森の中をうろついてんだろうと思ったからな。研究所に辿り着くより先に出会うことに賭けて、森のほうを通らせたんだよ」
「ぅ……それは……」
「もとはといえば、お前が俺の要請を無視しまくったのが原因だからな。ちったぁ反省しろ」
言葉に詰まったレイヴンの額を軽く小突く。唇を尖らせるレイヴンを見て、レイはわずかに苦笑した。
「それとは別に、兄上が信頼を置くお前の実力と……例の噂を確かめてみたかったってのもある。お前が持つ不思議な力とやらの真相をな」
そう言って、レイは蒼穹を思わせる目を細めた。
レヒトが言葉を発するよりも早く、救護室の扉が叩かれる。失礼致します、と声がしてから扉が開かれ、現れたのは黒髪の男性。レヒトが初めてレイと顔を合わせた際にも傍に控えていた――レイの世話役兼補佐官を務めるトゥールである。
「レイ様、魔界評議会議員の皆様方が、会議室にお集まりになられました」
「わかった、すぐに向かう。俺がジジィどもの相手してる間に、必要なもんは用意しとけよ」
「お任せください」
トゥールは一礼し、受けた命令を果たすために救護室を出て行った。それを見届け、レイも立ち上がる。
「さて、と。ジジィどもの醜い顔なんざ見たくもねぇが……行くしかねぇな」
あまりに悲壮な声音で言うものだから、ラグネスにレイヴン、ついでにレヒトも吹き出した。
「気持ちはわかるが、いい加減に覚悟を決めたらどうだい」
「嫌なもんは嫌だ。俺の美意識が破壊される」
「まったく、変なところで子供のようだね。ほら、待たされた議員たちが騒ぎ出す前に行くよ」
嫌そうなレイを先頭に、一行は会議室へと向かう。
レヒトはラグネスの後に続きながら、先程の妙な体験を思い出していた。あれは、一体なんだったのだろうか。どれほど考えても、その答えが見つかることはない。レイヴンあたりに話してみたら、なにか興味深い話をしてくれそうな気もしたが、話す機会を掴み損ねて言い出せないままになってしまった。
(……どうせ夢かなにかだろう。昨日の夜、妙な夢を見たから……きっと、そのせいだ)
レヒトはそう結論付け、この出来事については忘れることにした。
「……ここだ」
先頭を進むレイが足をとめ、一行を振り返る。
「魔界評議会のジジィどもが中で待ってる。……んじゃ、そういうことだからよ!」
そう言うなり、身を翻して逃げ出そうとしたレイの首根っこを、ラグネスが引っ掴む。
「どこに行く気だい、レイ。君がいないと始まらないだろう」
「放せよ、兄上! 俺は嫌だぞ! 嫌だぁーっ!」
まるで駄々っ子である。レヒトが唖然としていると、会議室の扉が開いた。両開きの重厚な造りの扉を押し開け、顔を覗かせたのは、よく言えば威厳のある、悪く言えば偉そうな態度のおっさんだった。
「なにをしておるのだ、騒々しい! ここをどこと心得ておるか!」
言っておくが、この城の主はレイである。おっさんが偉そうに言うことではないだろうとレヒトは思った。
「うるせぇのはどっちだよ、クソジジィが」
ぽつりと、レヒトの背後にいるレイが呟いた。おっさんの視線が声のした方向――要するにレヒトへと向けられ、しかも運の悪いことに、レヒトはおっさんとばっちり目を合わせてしまった。
「なんだと!?」
どうやらこのおっさん、今の台詞をレヒトのものだと誤解したようである。
「貴様、なんだその態度は!」
思い切り詰め寄られ、レヒトは引き攣った表情のまま身を仰け反らせる。
「お、俺はそんなこと……」
「うるせぇな……大声で喚きやがって、やかましいんだよ」
またしても背後で不吉な声が響く。微妙に面白がるような響きが含まれているのは気のせいだろうか。
「き、貴様! 私を愚弄するのか!」
おっさんの眉がつり上がる。レヒトは泣きたい気分になった
「まあまあ、ガドレイン卿。私の護衛をあまり困らせないでおくれよ」
助け舟を出したのは、未だレイの襟首を引っ掴んだままのラグネスだった。
ガドレイン卿、と呼ばれたおっさんは、ラグネスの姿を捉えると、わずかに驚いたようだが、尊大な様子で鼻を鳴らした。
「これはクリスティーヌ卿……。彼は貴方の護衛でしたか。ということは、例の不思議な力とやらを持つという……しかし、腕のほうはともかくとして、あまり躾がされているようには見えませんなぁ」
ラグネスはなにも言い返さず、相変わらずのおっとりとした笑みを浮かべていた。
「うわぁ、失礼なおじさん。しかも誰が言ってるのかもわかんないみたいだし、馬鹿だね」
と、今度はまた別の場所から声がした。
「な、なんだこの子供は! 私を侮辱する気か!?」
哀れなことに、ガドレイン卿は目の前の子供が誰であるかを知らないようである。
「……この人、ほんとに馬鹿だね」
「き、貴様! 子供とはいえ容赦はせぬぞ!」
怒り狂ったガドレイン卿が、腰に佩いた剣に手を伸ばすのを捉え、レヒトはとっさに彼の背後に回ってその手を掴む。動きは完全に素人、こんな相手に剣を抜く必要はない。
「なにをするか!」
「……もう、そのあたりで。斬ってしまっては後悔なさると思いますが」
「そうそう。いい加減にしろよ」
同意の声はラグネスの傍――レヒトが移動したので、その姿はガドレイン卿からも見えるようになっただろう。まだ怒りの収まらない様子のガドレイン卿がそちらに視線を移し――。
「貴様、誰に向かってその口を……!」
そう言いかけた彼の顔色が、面白いほどに見る見るうちに蒼くなる。その視線が向けられている人物――レイ=クリスティーヌといえば、未だラグネスに襟首を掴まれたままという、あまり格好のよくない体勢ではあったのだが。
「……誰がなんだって、ガドレイン卿?」
レイの冷たい眼差しを受け、ガドレイン卿はひぃっと情けない悲鳴をあげた。
「レイ=クリスティーヌ様!?」
「おうよ。ついでに言っとくと、さっきから喋ってたのは俺だ。なんか、ずいぶんといろいろ言われた気がするんだがなぁ……俺の気のせいか?」
「き、気のせいですとも! わ、私がレイ=クリスティーヌ様を侮辱することなどありません!」
可哀想なほどに恐縮しているガドレイン卿を見て、レヒトは少し気の毒に思った。
「うーん、なんか可哀想になってきたよ。レイさん、そのくらいにしといてあげれば?」
レイヴンもレヒトと同じ思いだったようだ。その言葉に、ガドレイン卿は感激するような眼差しを送る。調子のいいことだ。
「……ま、レイヴンがそう言うなら」
「レイヴン!? それは、ひょっとするとレイヴン=カトレーヌ教授のことですか!?」
皆まで言わせず、今度はレイに詰め寄るガドレイン卿。レイはやはり引き攣った表情で、あぁ、と頷く。
「そうですか、そうですか! そうとは知らずに失礼を! ささ、カトレーヌ教授。皆が待っております!」
そういって、ガドレイン卿はそそくさとレイヴンを連れて会議室へと消えてゆく。
閉められた扉の前に残されたレヒト一行は、思わず顔を見合わせた。
「やれやれ、まったく調子のいいことだぜ。……いい加減に放せよ、兄上」
レイがジト目でラグネスを見上げる。それに対して、ラグネスはにこやかな笑みを返した。
「……レイ。君が悪戯好きなのは知っているけどね、レヒトまで巻き込むものじゃないよ」
「あ、あれはあんたが放さねぇから……!」
どことなく怯えたようなレイに、しかしラグネスはあくまでもおっとりした笑みを崩すことなく告げる。
「言い訳無用。悪い子にはお仕置きだ」
「!? や、やめろって……ふっ、はははは! 放せぇーっ!」
「……俺、先に行きますね」
ラグネスとレイを残し、レヒトはレイヴンのいる会議室に向かった。会議室の分厚い扉が閉まっていたことと、他に人がいなかったことを、幸運に思いながら。