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第1話 動き出す運命の歯車

 レヒトは走っていた。

 濃厚な死の匂いが未だ周囲を漂い、背筋にはなにかが這い回るような、嫌な感覚が張り付いている。限界を訴える身体を叱咤し、足を止めずに背後を窺えば、鬱蒼うっそうとした樹々に遮られ、光射さぬ森の陰に浮かぶ、一対の深紅あかが目に入った。

 もう、どれほど走り続けているだろうか。降り積もった落葉を蹴散らし、行く手を遮る蔓を掻き分け、地を這う樹の根を飛び越えて。

 汗ばんで肌に張り付くワインレッドの髪を鬱陶しげに払い除ける。痛みと疲労で悲鳴を上げる身体に鞭打ち、残された気力を振り絞って走り続けるも、体力は、すでに限界に達していた。膝が震えて足がもつれ、レヒトは何度もたたらを踏んだ。

 今のレヒトを突き動かしているのは、生きるものなら誰でも持っているだろう生への執着。それだけである。

 森の闇に浮かぶ深紅の光は、先程よりも、わずかながら近付いたようにも思える。頭をよぎった不吉な予感を振り払い、前方へと視線を戻したレヒトだが、後方へと注意を向け過ぎていたためか、すぐ足元に広がる、枯葉の下の泥濘ぬかるみに気付くのが遅れた。

 踏んだ枯葉ごと足を滑らせ、転倒しかけたレヒト目がけて、背後にそびえる大樹の陰から、小さな殺気が跳躍する。

 崩した体勢を、立て直す時間はなかった。仕方なしに、レヒトはむしろその勢いを利用するように、片足を軸として身体を反転させると、倒れ込むような形のまま、手にした長剣を振り上げた。

 ほとんど自棄に近い行動だったが、どうやら幸運の女神とやらは、まだレヒトのことを見放してはいなかったようだ。

 肉を裂く、相変わらず好きにはなれない感覚が腕を伝う。

 後ろ向きに倒れ込んだレヒトの足元に、断ち切られたそれが転がった。身体を断たれ、紅い液体を周囲にぶちまけながらも、小刻みに、幾度も痙攣を繰り返す。

 ――蛇。黒光りする硬い鱗に、血を思わせる紅い双眸。先程から、絶え間なくレヒトを襲う魔女の使い。

 身体を起こしたレヒトは、未だもがき続ける蛇の頭を叩き潰すと、即座に身を翻して走り出す。

 囲まれている。目には見えずとも、周囲から放たれる明瞭な殺気が、レヒトにそれを伝えていた。

 じりじりと狭まる包囲網を突破するため、レヒトは走りながらも慎重に気配を手繰り、自身を包囲する気配と気配の隙間を縫って逃げ続けているのだ。

 何度か危ない瞬間はあったものの、幸いにも、今のところはなんとか逃げ遂せていた。しかし、このままでは、いずれ確実に追い付かれる。むしろ、今までこうして逃げ続けられていることのほうが、余程――。

(……まさか)

 考えてみれば、レヒトを仕留めるチャンスなどはいくらでもあったはずなのだ。先程のことも、そうだろう。体勢を崩したあの瞬間、レヒトを襲ったのが蛇ではなかったら。気配はあった。攻撃できたはずだ。なのに、攻撃してこなかった。レヒトが走り出すまで、わざわざ待っていたようにさえ感じられた。

 さらに、この森で最初に見付かってから今まで、魔女は一度たりとレヒトの前に姿を見せてはいない。一定の距離を保ち、姿を見せずに気配だけを常に放ち続けている。まるで、レヒトに強烈な威圧感プレッシャーを与えるかのように。そして、わざとレヒトを逃がすように、巧みに穴を開けた包囲網。

 だとすれば、考えられることはただひとつ。

(追い込まれたか。……迂闊だった)

 レヒト小さく舌打ちした。気付くのがあまりに遅すぎた。しかし、その迂闊さをいまさら悔やんだところで、もう後戻りはできなかった。

 追われるままに走り続けていたレヒトの視界が唐突に開け、思わずその場に足を止める。森を抜けた先で途絶えた道――遥か眼下に広がる深い森。

 切り立った崖に逃げ道を断たれ、背後からは紅眼の魔女が迫る。

(万事休す……いや、まだだ)

 レヒトは深く息を吐き、腰に佩いた長剣を引き抜くと、森のほうへと向き直った。

 ここが、多少なりとも開けた場所であることは、レヒトにとっては有利でもあり、不利でもあった。

 足場の面ではレヒトに有利。レヒトの行動を妨げる倒木や泥濘が至る所にある森の中と違い、この固く乾いた大地ならば、安定した戦いが可能となる。

 視界の面ではレヒトに不利。そびえ立つ大樹や生い茂る草花といった障害物が一切ないため、それらを盾として身を守ることができない。

 つまり、この位置で紅眼の魔女の一撃を受けてしまえば、まず間違いなく無事ではすまない。

(……だが、おとなしくやられてやる気はないさ)

 腰を落として剣を構える。微かに聞こえる葉のざわめきは、風の悪戯か、あるいは森の中に潜む、魔なるものたちの足音だろうか。

 レヒトは静かにその時を待ち――音の消えたその刹那、黒い影が躍動した。

「はぁっ!」

 裂帛の気合とともに、森の茂みから飛び出した蛇を、一刀のもとに斬り捨てると、返す刃で別の一匹を上下に断ち割る。

 大樹の幹から飛来した蛇を、後ろに跳ぶことでかわし、着地と同時に剣を振るって頭を飛ばす。

 威嚇しながら近付いてきた別の蛇を斬り伏せ、懐に忍ばせた短剣を左手で放ち、さらに数匹の蛇を行動不能に陥れる。

 森の中に潜む紅眼の魔女は、まだ動く気配を見せない。

 紅眼の魔女さえ倒すことができれば、使い魔である蛇は消滅するはずだ。逆に言えば、魔女が存在する限り、その使い魔たる蛇は無限に現れるということになる。

 レヒトはすでに気力、体力ともに極限状態だ。長期戦になればなるほど、確実にレヒトは不利になる。

(迷っている時間はない。……こうなったら!)

 なおも近付く蛇を斬り倒しながら、崖を背にしていたレヒトは少しずつ前に出る。森の陰で妖しく蠢く紅眼の魔女を目指して。

 レヒトの動きを察知したのか、魔女の放つ気配が変わった。今までとは比較にならない、強烈な殺気。それと同時に、レヒトを取り囲む蛇が動いた。

 前方から跳び来た蛇をレヒトの剣が裂いた瞬間、剣を握った右腕に、背後から近付いていた別の蛇が絡み付く。

「!」

 蛇とは思えぬ力で絞め上げられ、レヒトの手から剣の柄が零れ落ちる。慌てて振り解こうと、周囲から意識を逸らしたレヒトの首に、別の蛇が巻き付いた。

「ぐぅっ……!」

 苦悶の表情を浮かべたまま、力が入らず震える右手で、首を絞める蛇を掴み、空いた左手で懐を探る。

 二匹の蛇は容赦なくレヒトの身体を絞め続け、さらに数匹の蛇がレヒトに迫る。

 絶体絶命――そんな言葉が脳裏に浮かぶ。だが、幸運の女神は、もう一度レヒトに微笑みかけてくれたらしい。懐を弄る左手が、目的のものを探り当てた。

(……よし!)

 レヒトが懐から取り出したのは、大人の指ほどの長さしかない、針のような細い短剣だった。幾重にも巻かれた布を噛み切り、鞘を投げ捨て、レヒトは渾身の力を込めて、紫色に輝く刃を、首に巻き付く蛇へと突き立てた。

 短剣を突き立てられた蛇は大きく仰け反り、レヒトから離れて大地をのたうつ。レヒトはすかさず、右腕に絡み付く蛇にも、手にした短剣を突き立てる。二匹の蛇は狂ったように暴れ回り、やがて紫色の泡を吹いて動かなくなった。

 レヒトが懐から探り当てたのは、猛毒を仕込んだ短剣だった。刃が触れ、わずかな傷を付けるだけで、人を殺すことのできる危険な代物。職業柄、レヒトは常にこういったものを携帯している。

 転がっていた長剣に飛び付いて拾い上げると、威嚇しながら後退する蛇を振り向きざまに斬り付ける。

 力の入らぬ一撃は蛇の鱗を浅く裂いただけだったが、痛みに暴れた蛇はそのまま崖下へと転落していった。しかし、レヒトを取り囲む他の蛇は、やや後退したものの、鎌首を擡げ、威嚇の姿勢を崩してはいない。

 剣を構えようと立ち上がったレヒトの身体から力が抜け、再びその場に膝を付く。背筋に張り付いた冷たい感覚と、今までになく間近に嗅いだ、強く濃厚な死の匂い。

(あぁ……冗談じゃ、ない……!)

 遠退きかける意識を、長剣の刃を握り締めることで呼び戻す。左の掌から溢れた紅い血と痛みとが、レヒトの意識を覚醒させた。剣を大地に突き、力が抜けてふらつく身体を預ける形で立ち上がる。

 ――その瞬間、レヒトの背後で殺気が弾けた。

(くそっ……!)

 気付き、振り仰いだ時にはもう遅い。

 鈍い衝撃がレヒトを襲った。

 とっさに飛び退いて威力を殺いだとはいえ、あまりの凄まじさに呼吸が止まり、意識が飛びそうになるが――なんとか耐えて、レヒトは手にした長剣を振り上げた。

 攻撃直後の隙を狙った、必殺の一撃。至近距離から放たれた、その斬撃をかわすことはまず不可能。

 だが――。

 反撃となるはずだった渾身の一撃は、濡れた硬い鱗に容易く弾かれ、その反動で、レヒトは大きく体勢を崩した。

 その機を逃さず、風の唸りさえ伴って、鞭を思わせる長く強靭な尾が撓る。

 大きく崩した体勢のままで、力を受け流すことなどできはしない。視界の端を、黒い残像が掠めた瞬間、レヒトの足は大地を離れ、身体は宙を舞っていた。

 まともに打ち据えられたらしい肋骨が嫌な音を立て、込み上げてくる熱い液体が咽喉を灼いて咥内に溢れた。歪んだ視界がぐらりと揺れる。その中に映り込んだ、妖しく光る深紅の双眸。

 消えゆく感覚、沈みゆく思考。刹那の時間が無限のごとく。深淵の底へと落ちゆきながら、自らの死を覚悟して。

 ――レヒトは意識を手放した。

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