2話 二度とない沈黙
なんでだろう、葉山の手を握った俺の心臓はこの静寂に包まれた校舎の中で、一際鳴り響いていた。
氷のようなとても冷たく、その冷たいという感覚が全身に伝わるような掌。その掌は脈打つ体温を感じさせないくらいだった。
まるで葉山の孤独と不安が手から、俺に対して流しこんできたかのように。
俺は自分自身を制御できなくなっていた。
俺が我に返ったのは、手を握ってから5分後のことだった。その間の5分間、俺と葉山は一言も話さずずっと手を握っていた。
沈黙の後、葉山は下を向きコンクリートを見ながらぽつりぽつりと語り出した。
「あのね...潮見くん。実は...」
俺は葉山の話を聞いたあと、急に右手を握ったことを 謝った。
「急に変な真似をしてごめん...」
「あまりにも寒そうにしてたからつい...」
「本当に?」
「本当にだよ。」
「俺の嘘はこんな簡単にバレてしまうのか...」同時にそう思った。
俺は葉山に対して勝手な真似をした謝罪と同時に「なぜ自分はこんなことをしたんだろう?」と疑問に思った。
「俺はもう葉山に対してこの気持ちに嘘はつけないのか?」そう思った。
そんな俺を見て葉山は口を開いた。
「大丈夫だよ。暖かくしてなかった私が悪いんだし。」
葉山は笑顔でそういった。前俺にみせた泣き顔を上書きしたいかのように思えた。
その後葉山は、右手を擦った。
今はもう12月、季節は冬、今はもう夜の20時、あたりはもう真っ暗。
こんな日の葉山の笑顔は、いつもより数倍眩しく見えた。
「あーもうこんな時間。もう帰らないと。」
「じゃあね。また明日!」
葉山は小走りで家路に着いた。
ここで彼女を呼び止めることができるのは俺だけなのに何も出来なかった。
俺はそんな葉山の後ろ姿を見てなんだかまた心臓の鼓動が止まらなかった。それに加えて体も少し重く感じた。
「ただいま。」
「あんた何時だと思ってるの!早めにご飯食べないと冷めちゃうわよ。」
「はーい...」
俺は早急に着替えをし、席に着いた。父さんはもうご飯を食べ始めている。
「こんな夜遅い時間までどこに行ってたんだ?」
「友達と話しながら帰ってたら、思いのほか盛り上がっちゃって遅くなっただけだよ。」
父さんの質問に答える際、声が少し甲高くなってしまった。
「そうか...」
それ以上父さんは何も聞いてこなかった。
その後、嘘をついた罪悪感から、ご飯の味は全く感じなかった。
何分間経っただろう。家族にほとんどはもう晩御飯を食べ終わり、母さんはお片付けを始めた。
皿やコップを水道で洗う音、いつも以上にそれらの音が自分の身体に響いているような感じがした。
俺はそのことから自分が、この平和なリビングの風景から浮いているような感覚に思えた。
「焦らなくてもいいよ。自分のペースで食べなさいよ。」
あまり食べられてない俺に対して母さんが気遣ってくれた。そんな母さんに俺は申し訳なく思えた。
ご飯を食べ終わり風呂までの自由時間、俺は特に何もするわけでもなくソファに座り、ぼーっとしていた。今日のことがあったからだ。
風呂に入っているときでも、髪を乾かしているときでも、歯を磨いているときでも、なかなか今日のことが頭から離れてくれなかった。
寝る時間になり部屋に戻り、ドアを閉める。いつもなら必ずドアの鍵をかけるかはずなのに、今日に限っては無意識に鍵をかけなかった。
部屋に入った瞬間、全身の力が抜け、ベッドに倒れ込んだ。自分の右の掌が温かいはずなのに、 まるで氷の破片が残っているかのように、葉山の掌の感覚が少し残っていた。
「もうこんな時間か...」 俺は目を閉じた。
そこから意識は自動的に、葉山が言ったことが鮮明に蘇ってきた。
錆びた鉄骨、湿った空気、虫や鳥ひとつ声がしない閑散とした中で二人で手を握っている。
俺から葉山の手を握ったら、最初は少し抵抗しているかのように思えたがその抵抗は時間とともに少しずつ小さくなっていった。
葉山は足元の薄濡れたコンクリートを見ながら、俺に語った。
「私が私自身を決めたことは一度もないんだ。」
「親は私がテストで全教科95点以上じゃなければ、鬼の形相で怒る、全部親の体面のためにやってるんだ。」
「みんな私のことを『なんでも出来る』なんて言ってくれる。けどその言葉はかえって私自身の仮面をセメントで固めて行っているような気がして仕方ないの。」
「もう誰も壊さないようにね...」
「私は、私自身を削って、この葉山燈子という優等生を作り上げた。だから、時々、自分自身が本当に生きているのか分からなくなる。」
「誰かと『完璧な関係』を築くことが、もう無理なの。誰にも、この疲れた私を見せたくない。」
俺はただ何も余計なことを言わず、ただ『うん』といいながら真剣に葉山の話を聞いていた。
自分の劣等感や焦燥を、葉山のこの孤独が肯定してくれたような変な感覚に襲われた。
「俺は彼女の何者でもない。ただのクラスメイトなんだ。ただ俺だけが彼女の抱えている問題を知ることで『俺だけが特別』という優越感に浸らしてくれる。」
優越感や純粋な共感といったお互い違う意味を持つような気持ちが、俺の心の中でぐちゃぐちゃになってよく分からなくなってしまった。
葉山は俺の手を離してこう言った。
「このことは絶対誰にも言わないでね。親しい人にも。」
「二人だけのことにしてほしいから。」
「当たり前だ。」と俺は心の中で思った。
葉山は優等生の自分の姿を守りたいだろうし、俺もそんな葉山を壊す義理はない。
このことから俺は二人の間に「絶対的な秘密の鎖」がかけられたことを認識した。
俺は目を開けた。天井の木目が見える。不意に強く右手を握りしめるが、まだ葉山の冷たい手の幻影が残っていた。
「もう友達には戻れないかもしれない。」俺はそう強く思った。『秘密の共犯者』になったからである。
「明日から、彼女の『偽りの笑顔』が消えないように俺が影で支える」そう考えた。
こうして俺の劣等感と葉山の孤独が結びついた、危うい関係が始まった。
「もうこんな時間だ。」
ふと時計に目をやると、もう23時を回っていた。
「明日、葉山は俺にどんな顔を見せるだろうか?いつもの眩しい笑顔か、それとも今日起きたことを無かったことにするのか。」
そうして俺もそういう葉山に対して「友達を演じなければならない。」と悟った。
しかし葉山の表情が疲れとかで少しでも違っていたら、 「『俺だけにはわかるサイン』を送るべきか?」
そういうことが俺の頭によぎった。
「葉山と2人きりになったとき、もし会話を求められたら、何を話すべきか。」
俺は頭の中で、シミュレーションをした。
ただ明日が不安だという気持ちは何も変わらなかった。そう簡単に気持ちが変わらないというのは、自分が一番分かっていた。
そう感じながらも、どうしても明日のことが不安になってしまう。
俺はふとベッドから起き上がって、明日着ていく制服を準備した。「『ソワソワしている』というのはこのことを言うのだろう」と思った。
葉山のようにシワひとつ無い完璧な状態に仕上げようと思ったが、少し時間が経ったとき、ふとこの行為が馬鹿らしく思えた。
「俺は優等生ではない。ただのクラスメイトだ。」
この言葉を自分に言い聞かせた。
ただこれだけは守る必要がある。
彼女の優等生という仮面を俺自ら破ろうとはしてはいけない。葉山が助けを求めてくるまで、俺はただの影としてそこにいる。
俺の孤独も一緒に埋まるこの場所を俺が壊していはいけない。
ふと窓の外を見た。辺りは真っ暗であかりがついてる家は一つもない。
理久はその暗闇という名の静寂の中で悟った。
明日から、今まで一度も経験したことがない生活が始まると。




