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1話 友達という名の優しさ

昨日の夜から、葉山燈子のことばかり考えていた。当然、ほとんど眠れていない。


スマホで時間を確認すれば、まだ朝の六時だった。学校に行くまで、あと一時間半もある。


これだけ時間があるのに、どうしようもない。頭の中で、雨の日のあの葉山の顔、誰も見ていない場所で見せた、孤独と不安に満ちた素顔が、勝手に再生を繰り返している。


そんなこんなでぼーっとしていて、ふと時計を見たら7時を回っていた。 


俺は早急に洗面台で顔を洗い、制服に着替えた。 

それで、俺は大人しくリビングに向かった。母さんが朝ご飯をもう作ってくれていた。 


俺は茶碗を持ち、箸をつけた。しかし、数口食べたところで、意識はもう、昨日の雨の日、渡り廊下で見た葉山燈子に戻ってしまう。


そんな俺を見かねてなのか、父さんが静かにニュースから目を離し、俺の目をじっと見た。


「理久、何かあったのか?」


普段、俺のことに口出ししない父さんからの問いかけに、思わず箸が止まる。


「なんでもないよ」


父さんは少し困ったような顔で、「そうか……」と小さな声で言った。


その時、母さんの声が響いた。「もうこんな時間! 理久、学校に行く時間よ!」

俺は早急に家を出た。太陽が昇り、雲一つない快晴。俺は目を擦りながら歩き出した。


数分ほど経ったとき、後ろから「おはよう」という声がした。振り返って見ると葉山だった。


「どうしたの?そんな髪の毛ボサボサで目なんか擦っちゃって。なにかあったの?」


言えるわけが無い。俺の頭の中がお前のことでいっぱいだなんて。こんな優等生の葉山に惨めな姿を見せられない。


「いや〜昨日、夜遅くまでゲームしちゃって寝不足で。」

俺は自分なりに誤魔化した。


葉山は屈託なく尋ねた。「どんなゲームをやってる

の?」

「最後に魔王を倒すロールプレイングゲームだよ」

「へぇ〜。私、ゲームとかあまりしたことないんだよね。うち親が厳しくてさ、小さい頃から習い事ばっかりで。自分の時間なんて全然なくて」

「そりゃあそうだ」俺は心の中で思った。


成績優秀で、スポーツも万能。おまけに誰にでも分け隔てなく優しくて、美人だなんて。その「完璧」は、彼女が「自分」を犠牲にして築いたものなん

だと本気で思った。


校舎が視界に入ったとき、葉山が楽しそうに提案した。「もう時間もないし、校門まで走ろっか」


最悪だ。俺は高校に入ってから一度もまともに運動をしていない。体力なんて、ゼロに等しい。


「それはちょっと……俺、体力ないし」

俺が言い終わる間もなく、葉山は振り返りもせず、あっという間に走り出した。


「待ってくれ……葉山!」

俺は喉が枯れるくらいの勢いで必死に走った。そんな俺を、葉山は校門の手前で嫌な顔一つせず待っていてくれた。


息を切らした俺に、葉山はいつもの笑顔で言った。「今日は私の勝ちね!」

俺は葉山が本当の太陽のように思えた。

俺の気持ちなんて知らずに、葉山はいつも完璧に明るい。


その後、俺と葉山はなんとか朝のホームルームに間に合い、午後の授業までいつも通りを演じきった。


キーン、コーン、カーン、コーン。 最後の授業が終わり、帰りのホームルームが始まった。


「さて、もうすぐ期末だ。自習室で勉強してから帰るか」俺はそう思いながら帰る準備をしていた。


帰りのホームルームが終わるとすぐ、俺は自習室へ向かった。その途中、昇降口の陰で、葉山が同級生から告白を受けているのを見た。


「……まあ、葉山だしな」

俺はそう心の中で呟き、すぐに自習室へと足を向けた。


自習中も、頭の片隅で葉山の告白のことがちらつく。だが、俺は力ずくでそれを押し殺し、問題集に集中した。


自習が終わったのは十八時半頃。すでに学校には誰もおらず、冷えた階段を降りる自分の足音だけが、空っぽの空間に響いていた。


誰もいない下駄箱で靴を履いて帰ろうとしていると、後ろから男性の声がした。


振り返ると先生だった。


「放課後すぐに言おうと思ったんだが、今日お前、少し変じゃなかったか。気のせいならいいんだが。」

俺の顔をじっと見ながら心配そうな顔で言った。


「気のせいですよ。心配してくれてありがとうございます。」


先生はほっとした顔で、戻って行った。


先生との会話を切り上げ、昇降口に向かう。


「どうしたも何も、お前今日一日少し変じゃなかったか?」

担任の声が頭の中で何度も再生される。やはり、葉山のことで頭がいっぱいの俺は、いつもの冷静さを失っていたらしい。


「なんでもない」と嘘をついたが、父さんに続き、先生にまで異変を指摘されると、自分の内側にある葉山への感情が、もう「俺だけの秘密」ではいられなくなっているように感じて、胸が締め付けられた。


時刻は十九時近い。

誰もいない昇降口で自分の下駄箱を開け、靴を履く。周囲の静けさが、耳の奥でキンキンと鳴っているように感じた。


ふと、葉山の下駄箱の方に目をやる。

ーー開いていた。

通常、葉山は誰よりも早く帰る。告白を受けるようなデリケートな日であれば、なおさらさっさと学校を出て、人目を避けるはずだ。


なのに、彼女の扉は、まるで「中に人がいる」と訴えるかのように、わずかに開いたままになっている。

「まさか、まだいるのか?」

俺はそう頭で考えたが、すぐに打ち消した。もうこの時間だ。電気はほとんど消えているし、先生も帰った。いるはずがない。


「いや、いるはずがない、じゃないだろう。俺が気にするべきことじゃない」


そう言い聞かせた瞬間、俺の頭の中に、今朝の葉山の声が再生された。「うち親が厳しくてさ、自分の時間なんて全然なくて」


告白の返事をどうするか、親にどう説明するか。完璧であろうとする彼女にとって、この放課後の静かな時間こそが、唯一、自分の感情と向き合える「自分の時間」なのかもしれない。


俺の足は、いつの間にか昇降口を出て、西側の旧校舎へと向かっていた。


旧校舎の裏手、誰も使わない美術室の非常階段。その手前から、わずかな蛍光灯の光が漏れていた。その光は、葉山がいた「あの雨の日の渡り廊下」の光と同じ、人目を避ける場所でしか存在しない、特別な光のように見えた。


呼吸を整え、俺は階段を登り始めた。

そして、踊り場の影。


葉山はそこにいた。体育座りをして、膝に顔を埋めている。当然、いつもの完璧な笑顔の「殻」は、どこにもない。


彼女の表情は、暗くてよく見えない。ただ、背中がわずかに震えていることから、彼女が極度の緊張か、あるいは悲しみの中にいることが伝わってきた。

「葉山……?」

俺は震える声で呼びかけた。

葉山はハッと顔を上げた。その目は大きく見開かれていたが、いつものようにすぐに「大丈夫」の笑顔を作ろうとはしなかった。


そこにいたのは、ただの、弱くて孤独な、一人の女子高生だった。


沈黙が落ちる。時計の針の音すら聞こえそうな静寂だった。


彼女は、何かを言おうと口を開きかけたが、声にならなかった。代わりに、彼女の顔が、子供のようにぐしゃりと歪んだ。


「泣いている? 告白のせいか? それとも、自分の孤独に耐えられなくなって」


俺の理性は、「すぐにここを離れろ。彼女の尊厳をこれ以上傷つけるな」と叫んでいた。だが、俺の足は動かない。俺の視線は、膝からわずかに滑り落ちた彼女の右手に釘付けになっていた。


その手は、まるで助けを求めるように、虚空をさまよっていた。


俺は無意識に、一歩近づいた。そして、その手が再び膝に戻る前に、俺の右手を差し出した。

葉山は、その冷たい指先で、俺の制服の袖を、力なく掴んだ。


氷のような冷たさだった。

彼女は、まだ何も言わない。ただ、理久の袖を掴んだまま、顔を伏せている。

「この手は、俺に何を求めている?」

理久の頭の中が高速で回転する。


これは助けか?

いや、違う。これは「これ以上近づかないで」という警告だ。


彼女の泣き顔を知ってしまった俺を、彼女の安全な「殻」の外に置こうとする防衛本能だ。


しかし、そんな理屈など、どうでもよかった。

俺は、葉山の掴んだ手を、今度は自分の温かい手で、そっと包み込んだ。


瞬間、葉山の体が小さく震えた。彼女は顔を上げ、濡れた瞳で俺を直視した。そこには、笑顔も、拒絶も、何もない。あるのは、ただの混乱と、極度の弱さだけだった。


「そうだ。俺の行動は、彼女の必死に守る殻を、今、不当に打ち破っている」

「こんな優しさは、彼女をより一層、孤独に突き落とすかもしれない」


俺の心の中に、「友達」という名の重い鎖が、再び巻き付こうとする。この手を離せば、明日からまた、安全な友達に戻れる。


しかし、葉山の氷のような手の冷たさが、俺の理性を焼き切った。


「……葉山」

俺は、告白の言葉ではない、ただ彼女の名前を呼んだ。

「もう、友達ではいられない」

俺は、葉山の手を包み込んだまま、ただ静かに、夜の闇の中で、彼女の素の孤独を見つめ続けた。


その冷たい手を離す勇気は、俺には、もう残っていなかった。


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