攫って閉じ込めた女の復讐は甘美だった
ある日、顔と気性を気に入った女がいたので、攫って閉じ込めて飼うことにした。
終わりのないこの吸血鬼としての生の、ほんの瞬きの間の、慰め程度にはなるだろうと思ったのだ。
その女の、苛烈なところを好んでいた。
いついかなるときも炎のような目でこちらを睨み据えてくるところが微笑ましかった。
屋敷から出られないように催眠をかけたから、基本的には好きなようにさせていた。躍起になって吸血鬼を殺す方法を吸血鬼の屋敷で探す姿が愚かで愛らしかった。
いつまで経っても懐かない猫だった。どれほど撫でてやっても、愛してやっても、手ずから餌付けてみても。女の瞳は常に爛々と怒りに燃えていた。ぱちりぱちりと火の粉が舞って、ああ、うつくしいなと見るたびに目を細めた。俺を許さないままでいるためならば、どんな苦痛も恥辱も耐えてみせると獣のように吠え立てていた。
そんな女の意思を愛でていたから、戯れに術をかけることはあれど、その心を壊さないよう気を付けた。閨で受け止め切れない悦楽に溺れながら、それでも不快と憎悪と殺意が蕩けた目の奥であかあかと燃えているのを口付けを交わしながら特等席で眺めるのは格別だった。
いつだって。女の目は美しかった。
目映く、烈しく、いっそこちらの視界を焼き尽くすような。どれほどの暗闇でも、煌々と照らし出してしまうような。炎の瞳。憎しみの赤。
はじめは女のやわい首筋から行っていた吸血も、手首、腕、内腿と、気分で変えつつも必ず女の目を見ていられる場所からするようになった。女はいつでも最善の状態で逃げ出せるようにと最初から食事を拒否することはしなかったので、食事の内容が変わったということはない。けれどなぜか、日に日に女の血はより甘く、より芳しくなっていった。
そして人間からすればそれなりの年月を過ごし。俺はいつの間にか女を愛するようになっていた。
日の光の下に戻り、自由に生きてほしいと思うようになっていた。
だから術を解いて告げたのだ。
「死ぬ気で逃げろ、二度もおまえを逃がせない」
けれど女はあの日と変わらぬ燃えるような目でまた俺を睨み据えた。
眷属にはしていなくとも、俺の術を浴び、血を吸われ続けた女はいまだ若く美しかった。
「あなたのそれは、かわいいからと野生の生き物を捕まえて、さんざん都合よく躾けて、人間の匂いを付けて森に帰れなくしておいて、飽きたのをそれらしく可哀想だからと誤魔化したに過ぎない」
どん、と。俺からすれば弱い弱い力で突き飛ばされる。甘んじて受け入れてやることにする。
俺をいつも無理矢理ふたりで使っているベッドへ押し倒した女は、馬乗りになると覆い被さってきた。目の前で恋しくうつくしい眼がまた鮮烈に燃えていた。
女の艶やかな長い髪がカーテンのように落ちて、俺の視界は女だけで満たされる。いい景色だと思った。
「舐めるのも大概にしてよ。どこまで馬鹿にすれば気が済むの。こけにしてくれて。あなたは結局私を下等だと思ってるのよ。対等だなんて欠片だって考えちゃいない」
そうだろうか、と考える。そうかもしれない、と納得する。だってどうしたって、俺は化け物で、こいつは人間なのだ。愛したところで、対等であるはずがなかった。
俺の思考を読んだのだろう。女はそれは綺麗な微笑みを浮かべた。いつの頃からか、女は俺の考えを言い当てるようになっていた。俺はこの女の泣かせ方くらいしか知らないのに。何をすれば笑うのかすら分からない。だから、なぜ女が今笑っているのかも理解できなかった。
「――復讐してあげる。あなたが一番最初に欲しいと思った私は絶対にあげない。あなたが殺した。あなたのせい」
歌うように。艶やかに。女は告げる。
「ちょっとずつあなたを好きになってあげる。あなたが愛でた、絶対にあなたを許さない私を殺していくの。すっかりあなたに篭絡されて、盲目的にあなたを愛し信じ崇拝するような、私じゃない私だけをあなたの手元に残してあげる。生かすも殺すも好きにすればいい。今までそうしてきたように。もう私に帰る場所なんてなくなるほどの歳月をここで過ごさせたように」
どれほどの時間が経っていたのか。俺は把握していなかった。ただ、間に合うと思っていた。喜ぶと考えていた。太陽の下へ帰れること。俺なんて振り返りさえせずに、飛び出していくのだろうと想像していた。けれど、そうか。
こいつが、こんなにも透明な笑みを浮かべるほどに。帰る場所なんてないと言い切るほどに。俺はお前を閉じ込めていたのか。
もう、なにひとつ、間に合わないのか。
「だけどもう、ぜんぶ、ゆるしてあげる。だって愛しているのだもの。愛しい人。恋しいあなた。捨てるだなんて言わないで。傍にいさせて。お願いだから」
とろり、と。瞳が蜜のように甘く揺れる。ちゅ、と音を立てて、術を使っていない状態で初めて、女からのキスが唇に降ってきた。そのまま、ぺろりと甘えるように、媚びるように上唇を小さな舌で撫でられる。
そうしてようやく、もう取り返しはつかないのだと知った。
がばりと起き上がって上にいた女を引き倒す。きゃらきゃらと楽しげに笑いながら無抵抗に受け入れられ、数百年ぶりに冷や汗が背中を伝う感覚がした。顎を掴んで瞳を覗き込めば、恥じらうように頬を染めて睫毛を伏せる。こちらを見ろと命じれば、おずおずと俺の機嫌を伺うように視線を合わせてきた。
炎は。
どれほど奥深く探っても。
もうどこにも、見当たらなかった。
かの美しい炎はもはやどこにもないのだと、あの瞬間、この女が己ごと焼き尽くし、燃え尽きたのだと思い知る。
ここにあるのは抜け殻だけ。俺への復讐のためだけに残された空虚な愛を嘯く器だけ。二度とあの輝きを目にすることはない。
愛しげに俺の名を呼び微笑む女を前に、力が抜ける。
欲しかったのは。手放してやりたかったのは。こんな燃え殻ではなかった。
要らぬのならば捨てればいい。そうしようとしていたところだったのだから。この屋敷から出て行かせる理由が変わっても、結果は同じこと。
ああ、それでも、それでも。俺の愛した炎がもうどこにもなくても。かつて炎を宿していた、愛を囁いてくる器を壊そうとは思えない。
だって愛していたのだ。愛されたかった。だからこれがこの女の復讐のための睦言だとしても。愚かしくも舞い上がる心が確かにあった。もうどこにも俺の愛した炎はいないのに。これは消し炭でしかないのに。
「大好きよ」
こんな言葉で浮かれる俺は脆弱で愚鈍で、とんだ恥さらしだった。
美しい炎が恋しい。俺が惹かれてやまなかったのはあの鮮烈な色だった。
「俺も、愛してる」
そう囁きながら今度は俺から唇を寄せる。初めて拒否をされず喜んで受け入れられた口付けは、甘美で空虚だった。ああお前は、本当に、俺が愛するに足る女だった。こんな手ぬるい地獄のような復讐があったのか。
俺はこれから、この女の寿命が尽きるまできっと、この抜け殻の中にあの炎を探し続けながら、抜け殻の囁く薄っぺらな愛に一喜一憂し続けるのだろう。本当に心から欲したものは与えられず、けれど忘れることも諦めることも、この抜け殻がある限りできはしないのだ。
いつか、もしかすれば、欲に負けて眷属にすらするかもしれない。そうしたならば、俺の渇きは永劫続くこととなる。ああ、ああ。大した女だ。
お前は本当に美しくて賢くて烈しい女だったなと。女の抜け殻を抱きすくめながら俺は鳥籠の鍵をそっと閉め直した。