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二つの影の歩み

作者: 江戸前餡子

 彼女の顔は、まるで全女性の理想を寄せ集めた彫刻のようだった。滑らかな曲線、完璧な対称性。だが、作り物だからこそ、その美しさはどこか現実離れしていて、触れると冷たい石像のような錯覚を覚える。汗ばむ掌で彼女の手を握りながら、ふとそんなことを考える。


「お面、被ってて暑くないんですか?」


僕の声は、湿気を帯びた夏の空気に溶け、すぐに消えた。


「HAHAHA! ダイジョブダヨ!」


 彼女の声は、まるで風鈴のように軽やかで、セミの大合唱をかき分けて響く。辺りは熱波に揺らめき、アスファルトから立ち上る陽炎が視界を歪ませる。人々は呪文のように「暑い、暑い」と繰り返し、汗と苛立ちを地面に滴らせている。なのに、彼女はまるで季節を無視するかのように、厚手のマフラーで首をぐるぐる巻きにし、肌を一ミリも見せない重装備だ。まるでシベリアの吹雪にでも挑むかのようなその姿に、思わず目を細める。


 僕の手は彼女に握られ、まるで滝のように汗が流れ落ちる。指の間を滑る汗が、地面に小さな水溜まりを作るほどだ。体内の水分がどんどん失われ、頭がくらくらしてくる。


「いつもそんな暑そうな服ですけど、夏服とか持ってないんですか?」


 彼女は瞬きをしない――いや、できない――その顔を、ポリポリと人差し指で掻いた。作り物の表面が擦れる、かすかな音が耳に届く。「モテナイ、ソモソモキレナイヨ」と、彼女はカラカラと笑う。その笑い声は、まるで乾いた砂漠の風のようで、どこか寂しさを帯びていた。


 彼女、クラリティーと出会ったのは、今年の春のことだった。桜の花びらが舞う路地裏で、道を尋ねられたのがきっかけだ。あの時、彼女の声は風に乗り、僕の耳にそっと届いた。


「今日もいい天気ですね」


 彼女の表情は決して変わらない。だが、陽光が彼女の顔に落ちる角度や、木々の影が揺れる具合で、不思議と喜怒哀楽が浮かび上がる。まるで能面が光と影で物語を語るように、彼女の心が見える気がした。


「コノゴロ、セイヨウノヨウカイノ、BAD NEWS ヨクキクネ」

「そうですね。僕ら陰陽師も、日本の妖怪とは勝手が違うから、対処に頭を悩ませてます」


 最近、西洋の妖怪の名前が、良くない意味で耳に入ってくる。といっても、事件の大半はどこか滑稽だ。ドラキュラが若い女性のジュースを盗んで飲み干したり、マーメイドが水族館の魚を勝手に食べたり、砂男が砂浜に潜んで女性の水着を脱がせて持ち去ったり。そんな小さな騒ぎの中で、ひときわ不穏なのが、有名な陰陽師や総理大臣が行方不明になる事件だ。


「コウヘイノイエ、ユウメイナオンミョウジ、キヲツケロ」


 彼女の声に、わずかな重さが混じる。私の家――大豊家は、陰陽師界の御三家の一つだ。同じ御三家の星家と松井家は、すでに全員が忽然と姿を消している。世間では、いつ大豊家が消えるのかと、まるで賭けでもするように囁かれている。


「僕は陰陽師なんて辞めたい。消えられるなら、消えたいよ」


 声が震えた。陰陽師は死ぬまで陰陽師だ。国から毎月大金が振り込まれる代わりに、親が陰陽師なら子も強制的にその道を歩まされる。臆病な私は、この仕事に向いていない。妖怪と対峙するたび、心臓が縮こまり、冷や汗が背中を伝う。プログラマーや事務員の平凡な生活を、どれだけ夢見てきたことか。


 苦笑いを浮かべる私に、彼女は「キエタラタイヘン、ミンナキヅカナイ、カナシイ」と、力強く背中を叩いた。パンッと鳴る音が、セミの声に重なる。彼女はまた大きく笑う。一緒にいると、僕の方が透明人間になったような、ふわっとした感覚に襲われる。


「クラリティーさんに気付いてもらえれば、僕にはそれで十分ですよ」

「HAHAHA! コウヘイ、ウレシイコトイウネ!」


 彼女とのデートは、いつも特別なことをするわけじゃない。人気のない裏道を歩き、古びた喫茶店でコーヒーを飲み、観光地の喧騒を避けて川沿いの小道をぶらつく。夕暮れが空を茜色に染めるまで、他愛もない話で笑い合う。それだけで、灰色の日常に鮮やかな色が滲む。彼女の声は、まるで絵の具のように、僕の心に新しい風景を描き出すのだ。



「ただいま」


 玄関の引き戸をガラリと開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でる。家の中は静かだ。靴を脱ごうと屈んだ瞬間、視界の隅で何かが動いた。見上げると、父が仁王立ちしている。背筋が凍る。薄暗い廊下の奥からは、母が物陰に隠れ、大きな画用紙を掲げてメッセージを伝える。《帰ってくるのをまだかまだかと待ってたのよ》。その文字は、まるで私の心臓を締め付ける鎖のようだ。


 父は苦手だ。威圧的な眼光、への字に曲がった口元。そこから吐き出されるのは、いつも小言ばかりだ。


「な、なに……父さん」


 声が上擦る。父は猫背の私をギロリと見下ろし、鼻を鳴らした。


「最近、お前から妖怪の臭いがするな」


 その言葉に、心臓がドクンと跳ねる。父の声は低く、まるで地響きのように私の足元を揺さぶる。


「ついて来い」


 父の背中を追い、畳の軋む音を聞きながら彼の部屋へ向かう。障子がスッと開く音が、妙に大きく響く。


「妖怪なんて関わりないよ」


 僕の弁明は、父の冷たい視線に弾かれる。


「なら、なぜ妖力が身体にまとわりついている? 説明してみろ」


 そんなこと、知らなかった。


「相当長く一緒にいなけりゃ、こんな濃い臭いはつかねえだろ?」


 そんなこと、気づかなかった。


「陰陽師が妖力をまとうのは、裏切りの証だ。いくら落ちこぼれのお前でも、それは知ってるはずだ」

「ごめんなさい、でも……」

「知らなかった、気づかなかったで済むと思うのか? 大豊家の顔に泥を塗る気か?」


 父の声が、雷鳴のように部屋を震わせる。僕は背中を丸め、畳に視線を落とす。父の舌打ちが耳を刺し、突然、頭に鋭い痛みが走った。ガツン。父の足が私の頭を蹴り飛ばす。床に倒れ、頬が冷たい畳に擦れる。


「俺は見てるからな」


 父はそれだけ言い残し、部屋を出ていく。障子が閉まる音が、まるで僕の心を閉ざすように響いた。


「早く会いたいよ……」



「Hey! コウヘイ、キョウハゲンキナイネ」


 クラリティーの声が、朝の陽光に弾ける。だが、僕の心は鉛のように重い。


「ごめん、ちょっとね」


 彼女からは妖力なんて感じられない。なのに、なぜ僕の身体に妖力が? 頭の中をぐるぐると疑問が駆け巡り、彼女の言葉は右の耳から左へ、霧のように抜けていく。


「ゲンキナイコウヘイハ、トウメイミタイダネ」

「はは、確かに。クラリティーさんみたいになれたら――」


 「そしたら父さんも笑顔になるのかな」そう呟きかけた瞬間、ポケットのスマホが震えた。メールだ。父からの一文。


《今すぐ帰って来い》


 昨夜の父の言葉が、頬の痛みと共に蘇る。「俺はいつも見てるからな」


 まさか。


 背筋に冷たいものが走る。次の瞬間、肩の辺りで空気が揺れ、黒い影がスッと現れた。カラスだ。父の使い魔。ギョッと目を見開く僕を嘲笑うように、カアッと一声鳴き、羽を広げて飛び去る。


「脅しじゃなかったのか……」


 僕は立ち止まり、彼女の手をそっと離した。汗で濡れた手の平が、冷たく空気に触れる。


「コウヘイ? ドシタ?」

「嫌な予感がする。クラリティーさん、これから僕と会わない方がいいかもしれない。もし姿を見られたら……」


 その先を言うのが怖かった。彼女を傷つけたくない。なのに、肝心な時に言葉が出てこない自分が情けなくて、奥歯をギリッと噛み締める。


「スガタミエナケレバイイコト、ダヨネ? HAHAHA! ダイジョブ、ワタシ、コレカラモ、コウヘイトイッショダカラ」


 彼女の言葉は、まるで風に舞う羽のように軽やかだ。不思議と心が温まり、頬を伝う涙を乱暴に拭う。口角が自然と上がる。


「その言葉、信じるからね」



 家に着いた時、空には薄らと星が瞬いていた。玄関の引き戸を開けると、ひんやりとした空気が鼻腔をくすぐる。ホッと息をつくが、すぐに異様な静けさに気がつく。


「誰もいないの?」


 靴を脱ぎ、廊下に一歩踏み出す。ミシッ、木の床が軋む音が、沈黙に吸い込まれる。もう一歩進もうとした瞬間、空気がピリッと引き締まる。陰陽術の気配だ。背筋を冷たい刃が撫でるような感覚。身体が動かない。金縛りだ。いつ陰を踏まれた? どこに隠れていた?


「それはこっちの台詞だ、バカ息子。」


 父の声が背後から響く。闇に溶けるような低い声。


「俺は見損なったぞ、そこまで馬鹿だとはな。妖術の臭いは、妖怪の血に含まれる成分から発せられる。確かに気づかないかもしれない。だが、ある妖怪だけは、血がないから妖術の臭いを隠せる。だから低級な陰陽師や、鈍感なお前は気づかないんだ」

「クラリティーさんは妖怪なんかじゃない!」


 叫ぼうとしたが、口が動かない。父の足音が近づき、耳元で囁く。


「今宵、お前の《透明人間》を封印しに行く――」


 ゾッとするような冷たい声。


「お前は破門だ、面汚しめ」


 パチン。父が手を鳴らすと、視界が歪み、身体が宙に浮く感覚。次の瞬間、僕は見知らぬ路上に立っていた。アスファルトの匂い、遠くで鳴る車のクラクション。辺りを見回すと、背後からけたたましい笑い声が響く。


「ハッハッハ! 本当に破門されやがったな! ヨッ、お前の鬼親父の兄貴だ。話には聞いてるだろ? 落ちこぼれ同士、これから仲良くやろうぜ、透明人間と付き合った色男さん♪」


 隼也(しゅんや)おじさんが、陽気に肩を叩いてくる。どうやらここは沖縄らしい。戻る気力もなく、僕はおじさんと暮らすことにした。だが、故郷の岐阜に戻るのは、そう遠い話ではなかった。


 父が行方不明になったという知らせが届いたのだ。死体は見つからず、葬送用の棺には父の写真が貼られていた。相変わらずの無愛想な顔。


「少し散歩してくるよ、母さん」


 世間を騒がせた行方不明事件は、父を最後にピタリと止んだ。陰陽師の間では、海外からの戦略では? と囁かれているが、そんなことはどうでもいい。私の心を占めるのは、ただ一つ。


「クラリティーさんは元気かな」


 彼女のことを考えるたび、胸が締め付けられる。公園のベンチに腰を下ろし、青い空を見上げる。と、突然、ゴウッと突風が吹き、マフラーが顔に絡みつき、視界が遮られる。


 慌ててマフラーを手に取ると、見覚えのある模様。息を呑む。辺りを見回すが、誰もいない。マフラーを広げると、短い髪の毛と、乾いた血の跡が目に入る。


「これからもそばにいるって言ったくせに……心配してたんだから」


 マフラーを首に巻くと、懐かしいあの温もりがじんわりと広がり、自然と口角が上がった。


「僕は……僕だけは気づいてるから」


 それからというもの、私の影はいつも二つになった。そして、片方の手だけ、なぜか汗が滲むようになった。


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