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第二話

 それは一週間前の出来事だった。

 大きな事件も事故もなくただ平穏で平凡な日常を過ごしていた僕を、非凡で非日常に限りなく近い何かに引きずり込んだきっかけ。



 華やかな街明かりが輝く世界。行き交う人ごみにまぎれて、その中に溶け込む。誰も自分の存在を疑問に思わない、平和ボケした光景にうんざりとした溜め息をつきながら辺りを見渡す。頬を染めて笑い合う男女。微笑を交わす親子。獲物はいないかと目をぎらぎらさせた男。楽しげに電話をする女。

 いつ見ても変わらない、変わる事のない景色。微かな失望を胸の内に潜め、目を上空にやった。空は濃紺に染められており、雲に隠れて星ひとつ見えない。それを見てどうしてか、鼻の奥にツンとした刺激が走る。

 ――その時。


「あ……」


 しまった、と苦渋くじゅうに満ちた声が耳に入った。胸部にわずかな衝撃を受けた事に気付き、彷徨さまよわせていた目を向ける。

 道端に転がる帽子に目を奪われ、いで目に入ったのは絹糸のような髪。ネオンに照らされるそれは、少女の腰ほどにまで伸ばされている。怯えたような二つの紅玉こうぎょく。長いまつげで縁取られた瞳。

 全身が粟立あわだつ感覚。呼吸するのを一瞬忘れ、目前のありえない現状に目を見開いた。


 この少女を、僕は知っている。


 日宮ひのみや千歳。自分と同じ学校に通う、同い年の同級生だ。――だが、僕が彼女を知っている理由は、それだけじゃない。


 一年前――世界屈指のエリートが集まるピアノコンクールで、まだ無名だった彼女が他の追随を許さぬ勢いで一位の座をさらったのが全ての始まりだった。

 ピアノだけに収まらず、テニスやフィギュア、弓道など様々な舞台に現れては勝利と栄光を手にしていく。その姿に世間が注目し始め、メディアは彼女を大々的に取り上げた。

 それだけでも充分に目立つ要素なのだが、日宮千歳には更なる要素があったのだ。


 全国でも有数の成績を修め、加えて人目を惹く容姿。スラリとした長身は、モデル体系とでも言った方がいいのだろう。世間で公表しているプロフィールにはイギリスの血を持っているらしく、それで目が紅いのだと。


 頭脳明晰な上に多才を持ち合わせ、更には無表情と言えども絶世と言える美貌を持つ彼女を、国民的アイドルと言っても過言ではない。


 だから、こんな街中で堂々と顔を晒すのは自爆行為にも等しい訳であって――。


 周りのざわめきを敏感に聞きとり、僕の脳内ではみっつの選択肢が突きつけられていた。


 その1、知らないふりをして立ち去る。

 その2、サインを求めてみる。

 その3、帽子を拾ってあげる。


 いや、2はダメだろう、空気的にさ。1もなあ……今更知らないふりは出来ないだろう。何せぶつかってるんだし。3もなあ……。どれも微妙な選択肢ばっかりだよ。


 ざわめきが段々と色めきたってくるのを肌で感じ取りながら、どうするべきか考えようとした所――。


 手首を掴まれ、体が人ごみと反対方向に引っ張られる。


「――はぃっ?」

「いいから走れ。私についてこい」


 騒がしくなった人ごみの声を背にして、現状を理解しようと頑張ってみた。うん、とりあえずは今の状況を整理しよう。

 日宮千歳は、僕の手首を掴んで前を走っている。驚くべき速さについていくのが精一杯である事は目をつぶろう。うん。


 はっきり言って現状に理解が追いつけない頭でぼうっと考えていると、突然前を走っている彼女が急停止し、こちらを向いた。いきなり止まられてもこっちはそう簡単に出来ない。ぶつかるか、と思ったのだが日宮千歳が手を出して受け止めてくれたのでセーフ。ありがとう、と息切れまじりに呟くと、別に、という言葉が返ってきた。

 首を回して辺りを見れば、現在地は路地裏であるようだ。人は見当たらず、僕たち二人だけ。友人に見つかったらマズいだろうなー、と思いつつ、ぼそぼそと紡がれる彼女の声に意識を集中させる。


「お前……同じ学校だよな? 向坂さきさか先輩――いや、しお先輩の弟だろう?」

「え、あ、まあ、そうだけど」


 一体どうしたのだろう。って言うか普段着なのに、よく僕が同じ学校って分かりましたね。日宮千歳は全学年の生徒の顔を覚えているのだろうか。すげぇ。マジで尊敬します。


「……何を思っているのかは知らないが、お前の事を知っているのは友人経路だ」

「あ、そうなんだ。……って、僕、顔に出てた?」

「……なんで知っているんだろう、と顔に書いてあった」


 呆れたような溜め息を吐き出し、それよりも、と彼女は僕を見た。


「……いつまで抱き付いているつもりだ」

「え? ……あ、うわわっ」


 ごめん、と慌てて離れれば冷め切った目で見られた。怖い。


「す、すみませぇん……」

「……まあいい。受け止めたのは私だ。今回の事でお前に非はないだろう」

「ど、どうも……」

「ん。それと聞きたいのだが、この辺でどこか身を隠せる所はないか?」


 首を傾げられ、つられてこっちも首を傾げてしまった。何やらコントっぽくなってしまった雰囲気の中、少しの間を空けて答える。


「この辺で?」

「ああ。今、ちょっとマスコミ連中に追われていて……。この時間だとまだ家の前にいるだろうから、どこかで時間を潰してから帰りたいんだ」

「はあ……なるほど」


 有名人も大変である。下手すれば、プライベートまでをもなくしてしまうのだろうから。その中には勿論彼女も含まれている。

 

 右手の腕時計を見、思い当たる場所を脳裏で思い浮かべる。時間は……まだ大丈夫か。よし。


「日宮さん」

「む? 何だ?」

「とりあえず、僕の従兄がやっている店に行こうか。今の時間なら準備中で誰もいないよ」

「……いいのか?」

「うん」


 申し訳なさそうな声音に、苦笑が漏れる。あの人なら、快く受け入れてくれるだろう。その様子が簡単に想像出来る事を苦々しく思いながら、自分が被っていたキャップを彼女に差し出す。


「これは……?」

「さっき、帽子落としてから。目立たないようにしてたのかなーっと思ってさ」

「い、いいの……か?」

「いいよ。僕のでよかったら、だけど」

「あ、ありがとう」


 戸惑ったような目が、こちらチラチラと窺っている。遠慮がちな手にキャップを乗せ、微笑んで見せると彼女は顔を背けた。


 この瞬間、僕は日宮千歳が自分と同じ十六歳の少女である事に気付いたのだ。





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