[第1話:ピアノの音]
それは、昼休みのことだった。
「そーいえば藍璃ってさァ、・・・スキな人いるの?」
昼休みが始まって、一番最初に夏実が言った言葉がそれだった。藍璃はいきなり聞かれたので、少し反応が遅れた。
「え?い・・・いきなりなによ・・・?夏実?」
そして藍璃は顔を上げて、さっきまで予定帳を書いていた手を止める。
「だから・・・藍璃には、いないの?スキな人って。」
そう聞いた夏実は、藍璃から少し目をそらす。藍璃は予定帳をすぐに書き終え、ペンをおいた後に口を開いた。
「え・・・そ、そりゃぁ・・・いるよ。いるに決まってんじゃん。夏実にもスキな人いるんでしょ?教えてよー」
藍璃は、夏実にそう聞いた。逆に質問されて夏実は少し戸惑う。
「え・・・ウ・・・ウチもスキな人いるケドさ・・・まず、藍璃から教えてッ!」
と困ったように夏実が言うと、藍璃は少し笑って、
「んー・・・分かったよ。教える。・・・でも、誰にも言わないでよ?もし誰かに言ったら、夏実のスキな人もみんなに言っちゃうからねぇー!」
と言った。夏実はギクッとするが、「え?あぁ・・・うん。」とうなずく。藍璃は、
「・・・えっと、4組にいる咲斗だよ。」
と、あっさり教えてしまった。夏実は少し驚き、
「え?マジで?以外なんだけどー!藍璃のことだから、拓武のことがスキなのかと思った!」
と言う。藍璃は夏実の言ったことがありえない、という顔をした。
「拓武ー?マジでアリエンティーなんだけど!うるさいじゃーん!」
「え?・・・まぁ、確かにそうだけど。・・・っていうか、咲斗に告白とかしないの?」
夏実はそう藍璃に言った。藍璃は少し赤くなった。予想通りの藍璃の反応を見て夏実は笑う。
「な・・・なに?笑わないでよ・・・!」
そう、藍璃が少し怒ったように言った。夏実は笑うのをやめず、からかうように夏実にこう言った。
「告白する勇気、ないんだぁ?」
ビクッとする藍璃。図星なのだ。
「なに?文句あんの?できるワケないでしょ!告白なんて・・・」
藍璃はこう言って、不機嫌そうに口をとがらせた。夏実は笑いをとめ、
「怒んないでよー!ゴメンってばぁー!」
そう言っていると。
「夏実ィー!今日、ウチらが図書室の当番だから行かなきゃでしょぉー?早くー!」
とクラスメイトの鈴が夏実を呼んだ。夏実はすっかり忘れていたらしく慌てて、
「ヤバイ!忘れてたー!ゴメン藍璃!そーゆーことだから、ウチ行くねー!」
と走り去っていってしまった。話し相手の夏実が行ってしまった。藍璃はヒマになったので音楽室へ向かった。
藍璃は小さい頃からずっとピアノを習っていて、もう10年にもなる。ピアノが大好きなのだ。ピアノは練習すればどんな曲だって弾けるし、弾けるととても楽しいから。
そう考えた藍璃の音楽室に向かう足が速くなっていた。はやく、ピアノを弾きたい!角を曲がる。壁の掲示板には、掲示委員会が作った画用紙の貼り絵が飾ってあった。また角を曲がると、音楽室前の廊下に来た。すると。
急に藍璃の足が止まった。音がする。また今日もピアノの音が、する。
藍璃よりも先に誰かがピアノを弾いていた。
〜また、今日も。〜
藍璃が音楽室に来ると、いつも誰かがピアノを使っていた。誰が弾いているのか見てみたかったが、知らないセンパイだったりしたらなんかイヤなのでいつもあきらめて帰っていた。
でも、今日は。見ようと思った。誰が弾いているんだろう?藍璃は少し勇気を出して、音楽室のドアに近付いた。そしてドキドキしながら、誰が弾いているのか見てみた。その瞬間。え?藍璃はとても驚いた。藍璃の口がポカーンと開く。どうして?・・・なんとピアノを弾いていたのは・・・同じクラスの男子・小野沢 連、だった。
なんでアイツが弾いてるの?っていうか連ってピアノ弾けるの?予想外すぎるよ!だって今ピアノを弾いている連ってクラスで全然目立たないヤツなんだもん。ピアノが弾ける、なんて聞いたこともなかったし。
そう思いながら、藍璃はドアを開けた。ドアの開く音がしても、連はまだピアノを弾き続けていた。藍璃は静かに連に近づいた。連は目だけを動かして夏実を見た。だがすぐに連の目は、ピアノを弾いている自分の指先に戻った。
藍璃は連の弾く曲を聴いていた。この曲、あたしが今練習してる曲だ・・・
連の弾く曲を聴いていると、曲が終わった。藍璃はハッとして連が曲を弾き終えた後、話しかけた。
「連って、ピアノ弾けるんだぁー。知らなかったよ!」
連は話しかけられたのに驚き、藍璃を見つめた。だがすぐに目を逸らしピアノの鍵盤を見てしまい、その言葉にはなにも反応しなかった。無視かよ!と藍璃は少し口をとがらせた。つまらなくなって音楽室を出ようとすると。
「この曲、知ってる?」
連は、音楽室を出ようとする藍璃を引き止めるようにそう聞いた。藍璃はさっきまで何も言わなかった連がイキナリ話しかけてきたので、驚いて足を止めた。連は藍璃をじっと見つめていた。藍璃はその目に引き戻されるように音楽室に戻った。なんか、不思議なカンジがした。
そういえば同じクラスなのに一度も話したことがないな、とその時藍璃は思った。
そして藍璃は連の近くへ行き、質問に自信満々に答えた。
「知ってるよ!ショパンの幻想即興曲の即興曲変イ長調でしょ!だってあたし、今練習してるんだよ!」
藍璃は目を輝かせた。藍璃は、とてもうれしかった。藍璃のようにピアノを弾ける子に会ったことがなかったから。それが、うれしかった。
「ねぇ!他になんか弾ける曲ってある?」
藍璃はわくわくして聞いた。すると連は何も言わず頷いてピアノに向かい合い、深呼吸をしてから静かに鍵盤へ指を運んだ。連ってあんまり話さないんだなぁと思っていると、流れる音。キレイに、言い表せないほどに流れる。・・・この曲は・・・藍璃が今度弾きたいなと思っていた曲だった。
「月光の第3楽章・・・だよね?」
そうピアノを弾いている連に藍璃は聞いた。すると連は演奏を続けているのに鍵盤から視線を離し、藍璃をまっすぐに見つめた。鍵盤から目を離したりして間違えないのかな、藍璃と思った。でも連は一音も間違えなかった。
少しして連は鍵盤に視線を戻し、
「そうだよ。藍璃も月光の第3楽章・・・弾ける?」
と藍璃に聞いた。 「藍璃」。 そう呼ばれて少しドキッとした。
「えっと、月光の第3楽章は、次に弾こうと思ってるんだ!だから・・・まだ弾けない。あ!第1楽章と第2楽章は弾けるけど・・・!」
と、藍璃は答えた。連はピアノを弾く手をとめた。連は藍璃の方へ体を向け、口を開いた。
「じゃあ藍璃・・・幻想即興曲、今やってんでしょ?ちょっと弾いてみてよ。」
また、名前を呼ばれてドキッとした。
「え・・・上手く弾けないよ?」
と藍璃は困ったように言った。連は頷いて、ピアノのイスを離れた。藍璃はそのイスに座り、深呼吸をしてから鍵盤に指をおいた。そしてその鍵盤を静かに押した。連と違ってはっきりとした強い音。最初は弱く。この音は、ペダルを使って・・・1オクターブ上からおりてくる。間違えずに弾くことができた。このまま、このまま・・・
しばらく藍璃の演奏を近くのイスに座って聴いていた連は、
「やっぱり上手いな・・・」
と言った。連はピアノを弾いている藍璃を、じっと見つめている。視線に気づいた藍璃は、少し緊張した。
やっとあと1ページ!ってくらいのところまで弾いた藍璃。そういえば手首が少し痛くなってきた・・・。あと、3小節くらい。静かに、最後の音を出すために、指で鍵盤を沈めた。鍵盤から指を離して、音を切る。膝に手を置くと・・・息が少し切れていた。疲れた。息を整えるために深呼吸をしていると連が立ち上がり、藍璃に少し近付いて言った。
「上手く弾けてるじゃん。」
そう、連は笑っていった。笑った連を見て、藍璃はまたドキッとした。
「そ・・・そうかな?連の方が上手かったよ・・・!」
藍璃は連から目を逸らした。連はクスッと笑って、
「月光の第3楽章、練習してみる?藍璃なら、できると思うんだけど。」
弾きたい!藍璃はガタッと立ち上がった。勢いよく立ち上がったので、イスがガターンと音をたてて倒れた。でも連は、それに驚きもせず微笑んでいた。藍璃は目を輝かせて言った。
「弾きたいよッ!っていうか絶対弾く!」
連は微笑んだまま頷き、
「分かった。でも今日は楽譜持ってないし・・・。明日オレが楽譜もってくるから・・・明日から、練習しよう?」
と言われ、藍璃は大きく頷いた。そして自分がイスを倒していたことに気づいて、イスを元に戻した。そして連にそのイスに座らせた。
「な・・・何?」
連はイスに座って、少し不思議そうに藍璃に言った。夏実は何も言わず、近くのイスに座って連をじっと見つめた。藍璃はうれしそうに聞いた。
「連は子犬のワルツ、弾ける?」
そう聞かれて、連は小さく頷いた。「へーぇ」と藍璃は言った。
「弾いて。いいから・・・。連の、聴きたい。」
藍璃がそう言うと、連はまたなにも言わず頷いた。連は鍵盤へ指を置く前に、深呼吸をした。そして。右手が「ラ」の「♭」を押して。流れる。流れる。途中から左手がはいって・・・。連のピアノは、聴いていているとその曲の場面がたくさん浮かんでくる。目を閉じると、ほら・・・子犬のワルツの場面。子犬が、走り回ってる。広い、広い、草原を。自分のシッポを追いかけて。まわる、まわる。くるくる、くるくる・・・。楽しい。楽しい!藍璃はいつの間にか微笑んでいた。連の、「演奏」がスキ。連の「ピアノ」が、大スキ・・・!
連は、鍵盤から目を離した。鍵盤から離れた連の目は・・・連の演奏を目を閉じて聴いていて、楽しそうに微笑む夏実の姿があった。連は、藍璃を見つめた。すると、胸の鼓動がはやくなった。
・・・・・・
急にピアノの音が消えた。
「連?」
藍璃は閉じていた目を開けて、連を見つめる。連は鍵盤から指を離した。
「ど・・・どーしたの?いきなり・・・なんでやめちゃうの?まだ曲の途中でしょ?」
連は、何も答えない。そして、うつむいて・・・何も言わず、ただ静かに・・・
藍璃は口をとがらせた。イスにもたれかかって・・・。しばらくの間、2人は話しをなかった。
音楽室からは音がしなくなった。する音といったら、時計の音だけ。うるさいほどに響く時計の音。ずっと、その音だけ。
・・・次の瞬間。
2人は同じタイミングで顔を上げた。というか、おどろいて飛びあった。5時間目の予鈴の音だった。それでも連はまたうつむき、動くことはなかった。藍璃はため息をついた。そして立ち上がって、連の隣に立つ。
「・・・早く行かないと、5時間目始まるよ!行こっ!連!」
連がゆっくりと顔をあげると。
「ぅ・・・わッ・・・!」
藍璃が連の腕を引っ張った。連は引っ張られた勢いでよろけながら立ち上がった。そのまま藍璃は連の腕をぐいぐいと引っ張っていき、音楽室のドアを開け、早足で廊下を歩く。連は角を曲がるたびに「うわっ」と小さく叫んだ。
「じゃあ・・・明日から、昼休みに・・・音楽室で、待ってる。」
藍璃がそう言ったのは、教室のドアが見えた時だった。そして藍璃は急に連の腕を放した。連は腕を放され、大きくよろけた。よろけた連に気づきもせず、藍璃は教室に入った。連はよろけた方の足と反対の足でバランスをとって体勢を整える。そして連はゆっくりと教室に入った。
連は自分の席である、窓側の一番後ろの席に座った。まわりのクラスメイトは、それぞれの話に夢中で連に気づかなかった。
その後数学科担当の教師・野木が教室に入ってきたのと同時に、ザワザワとしていた教室が静まる。そしてチャイムが鳴った。
『明日から、昼休みに・・・音楽室で、待ってる。』
連は、藍璃がさっき言った言葉を思い出していた。そして、とてもうれしく思った。・・・音楽室で、待ってる・・・か。連の胸の鼓動がはやくなっている。それはさっき音楽室から走って教室に戻ってきたせいなのか、それとも・・・
連は開け放された教室の窓から空を見つめた。その窓からは心地よく、涼しい風が入ってきた。静かに、やさしく。
それは連の熱くなった頬を冷まそうとしているようだった。