「恋は雨上がりのように」の物語的限界
「恋は雨上がりのように」という漫画・アニメがある。この作品には、今の社会の限界が明瞭に露出していると思うので、取り上げようと思う。
といっても、別にこの作品ないし作者の事が嫌いなわけではない。個人的な話であるが、作者は神聖かまってちゃんファンで、自分も神聖かまってちゃん好きであるし、作中には文学を志すキャラクターも出てきて、何かと嗜好が合う…と勝手に思っているので、個人的には作者にシンパシーを持つ。が、その評価と作品評価は分けているので、別で考える。
「恋は雨上がりのように」がどういう作品かと言うと、女子高生の「あきら」が、ファミレスの店長「近藤」を好きになる。近藤は四十五歳のおじさんなので、この年齢ギャップが問題になる。「あきら」は陸上競技をやっていたが、怪我をきっかけに、陸上を諦める。が、内心では諦めきれていない。それに照応するように、近藤の方も小説(文学)に対するくすぶった思いを抱いている。
この作品で問題になるのは、あきらの店長への「好き」という気持ちであるが、物語的にはこれをどう処理するのかが問題になる。以下、ネタバレする。
最初に、自分は「この社会の限界」が作品に現れていると言った。それはどういう事か。この漫画(アニメの方)を見ていたある友人が、こんな事を言っていた。「自分にもワンチャンあると思って見れる」 彼は三十過ぎている男であるので、若い女との恋愛に「ワンチャン」も「ツーチャン」も期待しているわけである。金をたっぷり持っていればもっとチャンスがあるだろう。
問題は、「恋愛」というものが、「甘くてふわふわしたお菓子みたいな気持ち良いものだよね」という、バレンタインデーの企業CMくらいの観念でしか、作品内で取り扱う事ができないというところにある。同じ様に、「陸上」「文学」というものも、大衆社会の常識の範囲内でしか取り扱えていない。つまり、「頑張って努力して、達成しよう」というアレである。
「恋は雨上がりのように」のラストはどうなっているか。あきらは店長に思いを打ち明けるが、店長は完全に拒絶する事もなくぼやぼやする。最終的には、決定的に失恋するのでもなく、恋が叶うわけでもなく、あきらは陸上に戻り、店長は小説執筆に戻る。ふわっとした着地だ。
もし自分だったらどんなラストにするか、考えてみたが、一番、読者的に納得しそうな失恋エンドだろう。つまりは、あきらの報われぬ恋というのは、若気の至りであるし、十代の頃に、大人の男に少し惚れてみたというエピソードであり、失恋に終わらなければならない。女子になった事がないのでわからないのだが、女性であれば、学生時代に年上の先生になんとなく好意を寄せたものの、別になにするのでもなく学生時代を過ごしたという人は結構いるのではないか。つまりは、そんな風に「青春の淡い恋愛」は、「失恋」によって終わるという風にすると、良い感じで終わる。
具体的には、店長を別の女と再婚させる。(元妻とよりを戻すでもいい) こうすると、店長は若干嫌な奴という成分が出てくるが、いたした方ない。大人は大人の女性と付き合い、結婚し、あきらは自分がまだ子供みたいなもんだと悟り、学校に戻る。こうするのが、一番普通のエンドかと思う。
ただ、こういうエンドにするだけでも、この作品のふわふわした気持ちの良い雰囲気は多少破れてしまう。この雰囲気自体がこの社会の限界でもあると思っているのだが、もう少し終わり方の話を続けよう。
さて、そんな風な失恋エンドが一番、普通の終わり方だと思うが、もう一つ想像したのが「駆け落ちエンド」だ。店長がファミレスをやめ、あきらは高校をやめ、周囲から轟々たる非難を受けて、それでも、店長はあきらと、(連れ子も一緒に)駆け落ちする。
こうなると、世間的にも非難されるのだろうが、世間などというのはどっちにしろその程度のものなのでどうでもいいと思っている。自分の立場からすれば、「意志」というものをいかに現していくのかという話である。
あきらが店長を「好き!」、年の差があっても「好き!」という、その意志は、作中ではなんだかぼやかされて終わってしまった。恋愛というのは、企業CMの中でもディズニーランドの中でも大衆幻想の中でも、あったかくて気持ち良いものとしてあるのだが、この作品もまたそんな雰囲気の中で終わってしまった。
もし、この恋愛が成就し、女子高生とおじさんの恋愛という事で、同級生からは誹謗され、いじめられ、店長の方でもそんな噂が広がり、もはやファミレスの店長であり続ける事はできない…そうなって、二人は思い切って駆け落ちするとする。そうすると、彼らに現実の厳しさがやってくる。さっきまで、恋愛という甘いお菓子を貪っていたものが、苦い現実と向き合う事になる。現実の酷薄さと人の冷たい目線が彼らに突き刺さる。
しかし、それでも、貫くのであれば、恋愛ーー意志というものを貫くべきであった。もちろん、こんなものは貫かない方が利口である。その方が普通であるが、普通ではない、現実の厳しさを知っていて尚そこに飛び込むから、あきらの意志の強さ(店長の意志の強さ)が示されるのだと思う。それによって始めて、個というか、主体性が現れる。現実の厳しさ、くだらなさを知ってもなおそれを突き破ろうとするから、そこで始めて、恋愛という単なる性欲の代替品が、高貴なものとなって現れてくる。
そこまで描けば、この漫画のあたたかい雰囲気や、作中のキャラクターの性格の良さというのは破れてしまう。それと同時に、エンタメ作品に自分達の幻想を読み込みたいファンの支持も失うだろう。それでも、そこまで踏み込まないと、結局の所、ぼんやりした世の常識に溶かし込まれて終わってしまう。つまりは、そういう作品だったという事だ。
こんな風に書くのはルール違反というか、この作品に期待しすぎだろう、という声もあるだろう。それはそうだが、自分としては最初の設定がかなり突飛だったので、ラストに期待したのだった。それが、ぼんやりしたまま終わってしまった。恋愛というのはこの社会では、遊園地のアトラクションのようなものとして取り扱われており、「恋は雨上がりのように」でも、キャラクターは、ぼんやり甘い幻想の中にいたまま終わった。
作品は、この社会の「努力して成功する」とか「人を愛するって素晴らしい」とかいう幻想に沿ったものとして現れた。それ以上のものではなかった。ここで作者の抱えている限界は、大衆社会の限界であるし、商業的なものの限界でもあろうと思う。自分としては限界を破ったものを見たい。限界を破るものを作るには、現実の厳しさから目を逸らさない視点が必要だ。この社会にあたたかく迎え入れられたいと作者が願う時、やはり作品も迎合的なものとして現れる。作品が限界を越える為には、作者も同様に限界を越えねばならない。