〔2〕
事務所の看板は、つい見落としてしまうほど小さく質素なものだった。
市警本部を出てダウンタウンにある『ベスト・パートナー』事務所が入った雑居ビルに着く頃には、頭上の冬空はネオンの光を反射する薄灰色になっていた。
一階がドラッグストア、二階が古着屋、目的の事務所はどうやら三階にあるらしい。
ビル壁に貼られた『ベスト・パートナー事務所3F』というプレートを頼りに、カレンは外に作り付けられたスチール製の階段を上った。
この事件の捜査からリタを外してもらうように頼むと、ベトナムの血が混じった細面の本部長ゲイリー・ロウは、深い皺が刻まれながらも整った顔を複雑に歪めた。
だがリタの事情を理解し、申し出を受け入れてくれたのだった。
ただし単独では動かず、『T・アイズ』のストレイカーと行動することが条件である。
渋々了解したものの、多少はストレイカーと渡り合える情報が欲しい。そこでカレンは、足がかりになりそうな『ベスト・パートナー』を訪ねることにしたのだ。
三階の踊り場にたどり着くと、壁に頑丈そうな木製ドアがあった。ドアの上には、古びたビルに不釣り合いなほど性能の良さそうな防犯カメラが備えられている。
「こんにちは。こちらのサイトを見たので、詳しいお話を聞かせてもらいたいのですが」
インターホンに話しかけながら、カレンは防犯カメラに微笑みかけた。
「今日の相談時間はお終いなんですけどねぇ……電話でご予約の上、出直していただけますか?」
返答が早いところをみると、階段を上ってくる時点で既に視認されていたのだろう。監視カメラには気付かなかったが、随分と用心深いようだ。
「ニューヨーク市警のカレン・コール刑事です。内密に聞きたいことがあるんだけど……それとも仲間と一緒に、出直した方がいいかしら?」
受話器を取り落とす騒々しい音がしてすぐに、バタバタと駆けつける足音が近付きドアが開いた。
「こっ、これはどうも失礼しました。当方は、警察に通報されるようなことは何も……」
ドア向こうに姿を現したのは、くたびれた灰色のスーツを着た小柄な男だった。小心者なのか、せわしなく視線を泳がせカレンをまともに見ようとはしない。
男に案内され、ドアから続く肩幅ほどの通路を抜けると広いフロアに出た。一組の応接セットと高性能らしきPCが備えられた事務机、ファイルが積み上げられた棚。
個人経営のナーサリー(保育施設)を想像していたカレンは、殺風景な事務所に驚きを隠せなかった。確かに『アンチ・エッグ』のテロを警戒するならば、団体の窓口は簡素な方が安全であろう。
「あのぉ、それで……どういったご用件でしょう? あいにく責任者は不在でして、よろしければ後日こちらから御連絡差し上げますが」
サイトに載っていた代表者名は、ニコラス・ハルトマンという名だった。いずれ会わなければならないが、今日のところはこの小男で用が足りるだろう。
「正直に話してくれれば、私がここに来なかったことにしてもいいわ。大丈夫よ、この事務所にとって、それほど重要な情報じゃないから」
微笑むカレンに、小男は安心した表情になる。
「里親に、『スリーピング・エッグ』を斡旋してるわね? その子達は、どんな経緯で『ベスト・パートナー』に来たのか知りたいわ。里親の情報と、スポンサーになってる人物もよ」
だがカレンの要求を聞いた途端、小男はビクリと飛び上がり真っ青になった。
「そ、そ、それは申し上げられません! 情報は極秘扱いです、然るべき機関を通じて情報提供を求めてください」
「その立派なコンピュータの中にあるデータを、コピーさせてもらえればいいの。直接事件に関わっていないから、団体にもあなたにも迷惑は掛けないわ。然るべき機関から情報を要求されたら、あなたの職場が無くなるかもしれないわよ?」
法に触れる悪事を働いている証拠はないが、カレンははったりを掛けてみた。すると小男の鼻がヒクヒクと動き、頬から長いヒゲがピンピンと飛び出す。
「あなた……『ビースト』だったのねっ!」
さながらその姿は、ネズミ男といったところか。カレンが銃に手を伸ばすとネズミ男はまた飛び上がり、慌てて両手を挙げ後ずさった。しかも飛び上がった高さは、一度目よりも高い。
「勘弁してくださいよぅ、刑事さん。私が『ビースト』だって事は、事務所に隠しているんです。『アンチ・エッグ』テロの危険はあるけど時給は良いし、あまり人に会わないからこんなに都合の良い職場はないんです。そのデータのことですけど……本当にボスに内緒にしてくれるなら……」
「約束するわ」
カレンの差し出したメモリスティックを、ネズミ男は事務所のコンピューターに接続させた。