〔1〕
ニューヨーク市警本部のあるロウワー・マンハッタン地区よりさらに南、マンハッタン島最南端にあるバッテリーパークから、『自由の女神像』のあるリバティ島やエリス島行きのフェリーが発着している。
『自由の女神像』を見学するため、船着き場の桟橋にひしめく様々な国籍の観光客。その様子を眺めるカレンは、居心地の良いサロンで優雅にお茶を飲んでいた。
公園の一角を占めた私有地、『T・アイズ』本部行き水上バスの待機所である。
洗練された美しいデザインの建物で、ゆるい曲面を描く一枚ガラスの壁からハドソン川越しにリバティ島が一望できた。サービスで供される菓子類や飲み物も一流の品で、静かに流れるクラッシックに浸りながら何時間でも過ごしていたい場所だ。
「『スリーピング・エッグ』発生の、確定的要素は未だ不明です」
束の間、緊張感から解放されていたカレンは、ストレイカーの言葉で我に返った。
「『T・アイズ』の研究成果で解っていることは?」
カレンの斜向かいに座るストレイカーは、苦笑しながらテーブルの上に置かれているチョコレートを一つ口に放り込んだ。
ベルギー製の高級チョコレートだが、好んでつまむ様子を見ると甘い物が好きらしい。
思い返せばアリシアに飴細工を渡したのも、ストレイカーの嗜好が関連していたのかもしれなかった。
ようやくロジャー・ストレイカーという人間が解ってきたカレンは、つい口元がほころぶ。
「何か?」
「いいえ、何でもないわ」
訝るようにストレイカーは眉を寄せたが、重要なことを話すつもりらしく真顔に戻った。
「『スリーピング・エッグ』は、進化の形態とも退化の現象とも言われてきました。識者の中には、高みを極めた人間に与えられるゲシュタルトだと論じる者もいます。しかし研究により解ったことは、DNAレベルで因子を持つ人間が全世界人口の半数以上存在し、強い因子を持つ人間同志から子供が生まれた場合に発症する率が高いということでした。その因子は太古より人間に与えられた適応の種……メタモルフォーゼは必然であり、いづれかの種だけが未来に生き残るのではないかと考えられています。『スリーピング・エッグ』の発症率は年々加速し低年齢化しているため、十年後には八割の新生児が『スリーピング・エッグ』になると予測されているのです」
「それはつまり……全人類が『スリーピング・エッグ』になる日が、近いと言うこと?」
ストレイカーの過去を知ってから、カレンは大抵のことでは驚くまいと心構えをしていた。
しかし、これほどの事実が明らかになるとは思ってもいなかったのだ。
ストレイカーは表情を変えず、カレンの反応を覗っている。カレンは遠のきそうになる意識を無理に引き戻し、平静を装った。
「『ハイパー』と『ビースト』の割合は? それに『バード』は具体的に彼等と、どこが違うの?」
かすれた声を、ようやくカレンは絞り出す。
「『ハイパー』と『ビースト』の発生率は同じですが、『ハイパー』の方が短命です。特異な能力が脳に負荷をかけるらしく、覚醒から数年で死ぬケースが多い。反対に『ビースト』の身体能力は驚異的で、かなりの重傷を負ってもすぐに回復できる。ハイネマンの場合は意識して回復を遅らせ、捜査の流れを探っていたのでしょう。『バード』の発生率は、まだ解っていません。なにしろ『T・アイズ』が把握しているのは、僕を含め七人しかいないからです。変身はしませんが『ビースト』と同じ身体能力を持ち、個体別に特異な力を有します。成長が遅いのは、適応のため時間を掛けていると考えられます。また『バード』は『ハイパー』と『ビースト』両方の因子を持つので、どちらにも同族に思われるようです」
ストレイカーの視線が、少し離れた席でオレンジジュースを飲んでいるアリシアに向けられた。
アリシアに、その可能性があると言うことなのか?
付き添いに来てアリシアの隣に座っていたリタが、子猫のバスケットを抱え立ち上がった。捜査からは外したが、警護と見送りには来たいと言ったのでロウ本部長が許可したのだ。
「子猫ちゃんのオモチャや携帯用トイレを、車の中において来ちゃったわ。そろそろお迎えが来る時間でしょう? 取ってくるわね」
「ええ、気を付けて」
にこやかに手を振りリタがフロア出口に向かうと、ドア前に立つ二人の『T・アイズ』スタッフが道をあけた。
双方とも、がっしりとした体躯で厳つい顔付きの男である。スーツ姿ではあるが、武器を携帯しているのが見て取れた。
「警備に自信があるようだけど、『T・アイズ』は私設軍隊を持っているのかしら?」
カレンの問いに、ストレイカーは悪戯っぽく笑う。
「『T・アイズ』には大きく別れて研究部・調査部・保安部があります。しかし保安部は何カ国かの軍部が介入していて、『T・アイズ』の動向を監視しているんですよ」
「……ああ、そう。なるほどね」
言われてみれば、納得の出来る話だった。
多くの『スリーピング・エッグ』を保護し、その研究に精通し、得体の知れない力を持つ『バード』をも有する組織である。監視されて、当然だろう。
もしも『T・アイズ』が悪意ある目的を持って動けば、向かうところ敵なしだ。
カレンは天井まで届く一枚ガラスの窓から、ハドソン川を見渡した。
かつて一八九二年から一九五四年までの間、希望を胸に多くの国からやってきた移民たちがアメリカ入国前に手続きと身体検査のため立ち寄った『エリス島』。
数年前まで旧移民局が博物館となって残っていたのだが、マンハッタン島に移築されてしまい跡地に『T・アイズ』本部が建てられた。
その景観は、まさしく翼を広げた白鳥に似た荘厳かつ優美な建造物であるが、考え方によっては難攻不落の要塞にも思える。直射日光が眩しくないよう屈折率を考慮したフィルムが貼られた窓越しでも、川の中程に建つ白亜の城はひときわ輝いて見えた。
白い水飛沫をたて、なめらかな流線型を描くティアドロップ型のジェットバスがカレンの目の前を横切った。
『T・アイズ』本部からの迎えが来たのだ。
ところがジェットバスは、急に方向を変えると真っ直ぐにサロン目掛け直進してきた。そして公園水際の防波堤に乗り上げ、大きく跳ね上がる。
鯨の腹のような、巨大な黒い影が眼前に迫りサロンに悲鳴がこだました。
だが突如その動きが止まり、無数の閃光が影を引き裂く。
鼓膜を裂く爆音、窓ガラスが粉々に砕け雨のように降り注いだ。
「アリシアァーっ!」
テーブルを盾にガラス片を除け、カレンはアリシアを呼んだ。
炎上するジェットバスから黒煙が上がり、視界が悪い。
方向に見当をつけ、助けに飛び出そうとした時だった。
炎と黒煙の中から、アリシアを抱いたストレイカーが現れた。二人とも、傷一つ負っていない。
「敵も派手な演出をしてくれるなぁ……窓ガラスの強度を上げるように、申請しておいたほうがいいかな?」
「アリシアを怖い目に遭わせないって言ったじゃない、嘘つきっ!」
思い切り殴りつけたい衝動を、カレンはぐっと堪えた。
ストレイカーがアリシアを抱いていなければ、只では済まさないところだ。
「バスの様子がおかしいと感じたとき、アリシアを眠らせました。ちょっとした催眠術なので心配はいりません、キーワードで目覚めます。バスを衝突させ、混乱に乗じてアリシアを奪うつもりだったのでしょう……。ここは危険です、安全が確保できるまで地下のシェルターに避難したほうがいい。案内します」
その時、ガラスの砕け散った窓から一陣の風が舞い込み黒煙を払った。
見るとストレイカーの足下には、数体の『ビースト』が倒れているではないか。あの短い間に素早くアリシアの意識を奪い護りながら、襲いかかる『ビースト』を倒したというのか?
もしやバスが衝突前に爆発したのも、ストレイカーの力かも知れない。
カレンの背に、初めて悪寒が走った。
熱風に煽られた亜麻色の髪の下、炎を映すエメラルド色の瞳を怪しく輝かせる少年の横顔は、人間を超越した美しさだ。
『怪物』の二文字が、脳裏をかすめる。
「そんな目で、僕を見ないでください。ところで待ち人がようやく姿を現しました、アリシアを頼みます」
畏怖の視線を笑顔でかわし、ストレイカーはアリシアをカレンの腕に預けた。
穏やかに眠るアリシアを抱き取り、誰のことかと出入り口に目を向けるとリタ・ショーンの姿がある。
「ああリタ、無事だったのね。早くここから避難しましょう、ストレイカーが安全なところに案内してくれるわ」
しかしストレイカーは、今までに無い厳しい表情でカレンの前に立ち塞がった。
「残念ながら避難していただくのはカレン……あなたとアリシアだけです」
「えっ?」
カレンが意味を問う前に、歩み寄って来たリタが自ら敵意を示す。
「アリシアを渡しなさい、カレン……出来ればあなたを殺したくないわ」
「リタ、いったい何を言うの?」
困ったように微笑んだリタは、爆風の衝撃で気を失い倒れているサロンスタッフの女性を指さした。
「しまったっ!」
ストレイカーが叫ぶと同時に、女性の身体は黒い霧となる。そして床には、人型をした黒い痕跡……。
「まさか……リタ、あなたが『ハイパー』?」
衝撃に、頭が混乱した。