〔2〕
「クラウス・ハイネマン氏が、病院から姿を消したそうだ」
ロウ本部長が溜息まじりに告げると、テーブルを両手で叩きカレンが勢いよく立ち上がった。
「ハイネマンが、犯人に違いないわ! アイツは『スリーピング・エッグ』で、ニコラス・ハルトマンと同一人物なのよ。何らかの方法で、五十年近く姿を変えずにいられたんだわ!」
カレンが狙われたからには、安全な場所で話し合う方がいいとストレイカーが提案し、三人は地階にある取調室に移動した。ここならば窓もなく、人の出入りも少ない。
「ハイネマンが『スリーピング・エッグ』なら、なぜ擁護派のオッドマン夫妻を殺したのでしょう? 施設で預かっている『スリーピング・エッグ』の子ども達が、関係あるのかもしれません」
カレンがテーブルを叩く直前に、コーヒーの入った紙コップを持ち上げたストレイカーがスマートに足を組み直す。熱いコーヒーをひっくり返せば面白かったのに、そのタイミングの良さが気にくわない。
だがストレイカーの言葉にカレンも、同じ考えを抱いていた。
ハイネマンは何らかの目的で、子供を利用しているのではないだろうか。だとすれば、アリシアを取り戻そうとするかもしれない。
「アリシアを、『T・アイズ』本部に移送しましょう。彼女の安全を考えれば、我々で保護するのが一番いい」
ロウ本部長に向けて、ストレイカーが言葉と共に意味ありげな視線を送った。訝しんだカレンはすぐに、企みに気が付く。
「まさか……アリシアを囮にして、ハイネマンを誘い出すつもりじゃないでしょうね?」
端正なロウ本部長の顔が、苦々しげに歪んだ。しかしストレイカーは、眉一つ動かさない。
「許さないわよ、私は! 絶対に、認めるものですかっ! 私はアリシアに約束したわ、もう二度と怖い目に遭わせたりしない、私が守ってみせるって!」
「心配はいりません、僕をはじめ『T・アイズ』のスタッフが万全の警戒態勢で守ります」
ストレイカーを睨み付け、カレンは拳を握りしめた。この自信に満ちた言葉は、いったいどこから出てくるのだろう?
「『T・アイズ』には、アメリカ軍特殊部隊並みの戦力があるのかしら? 専門の研究機関だからって、所詮は民間委託団体じゃない。ここは警察がアリシアを保護して、ハイネマンを追うべきです。そもそもストレイカーは何者なんですか? 本部長は信頼しろと仰いますが、私にはストレイカーの言葉を信じることが出来ません!」
「ストレイカー君とは、『TIDE』が初めて関わった事件で一緒に仕事をした」
重く静かなロウ本部長の言葉に、カレンは目を見張った。明らかに不自然な事実に、気が付いたからだ。
「『TIDE』が設立されて初めての事件は、今から五年も前です。いくらなんでも十歳やそこらの子供が……それとも、からかっていらっしゃるんですか?」
カレンの思考は混乱し、疲労感が押し寄せる。まるで、謎かけをされているようだ。
叫び出しそうになるのを、頭を抱えることで抑え込むと涙が出そうになった。悔し涙か、弱気の涙か、自分でもわからない。
「ロウ本部長、カレンには偽りなき真実を」
カレンの様子を黙って見ていたストレイカーが、飲みかけのコーヒーを置き立ち上がった。
すると、ロウ本部長の顔色が変わる。
「しかし……君達のことは、上層部でも特秘事項だ」
「信頼関係なくして、一緒には戦えない……どうか顔を上げてください、カレン・コール刑事」
ゆっくりと顔を上げたカレンの前で、エメラルド色の瞳が優しく微笑む。
「あなたが愛用する『H&K P7M13』で、僕を撃ってください」
言葉の意味を理解できず、カレンは呆然とストレイカーを見つめた。そして、嫌々をするように首を振る。
いったい何を、させるつもりなのだろう?
もうこれ以上、神経が耐えられそうになかった。
しかし意志に反してカレンの手は腰のホルスターから愛用の銃を抜き取り、一メートルほど離れたストレイカーの眉間に狙いを定めた。
「なぜ……? 手が、思い通りにならない!」
セーフティであるグリップ前方のスクウイズ・コッカーに、力が込められていく。必死の抵抗むなしく、指は引き金にかけられた。
「いやあぁっ!」
次の瞬間、狭い取調室に銃声が轟いた。
途端に身体の自由を取り戻し、カレンは床にくずおれる。
得体の知れない恐怖で骨がバラバラになるほど身体が震え、床についた両手で支えても止める事が出来なかった。
堰を切った感情に止めどなく涙が落ち、目の前が真っ白になった。
人を撃った、しかも自分ではどうすることも出来なかった。
空虚な視線を泳がせカレンは、血を流し倒れ伏すストレイカーを探した。しかし目に入ったものは、何事もない様子で立つ少年の姿だった。
夢を、見ているのだろうか?
眉間を打ち抜く紙一重の差で、銃弾が宙に浮いている。
ストレイカーは人差し指と中指で銃弾を挟み、カレンに差し出した。手のひらで受け取った九ミリ口径の弾は、撃ち出されたときの熱を帯びているはずが、氷のように冷たい。
「手荒なやり方は、謝罪します。でも、これくらいやらないと信じてもらえそうにないので。僕は『ハイパー』でも『ビースト』でもない第三の『スリーピング・エッグ』……『バード』と呼ばれる人種なのです」
少しだけ翳りを映し、エメラルド色の瞳が微笑んだ。
「『バード』……?」
熱に浮かされたように呟くカレンの肩に、ストレイカーが優しく手を置く。
触れられた部分から流れ込んでくる、穏やかな暖かさ。いつも間にか、震えは止まっていた。
身体を支えられ椅子に座り直すと、カレンはロウ本部長に疑問を込めた視線をなげる。
ロウ本部長は厳しい表情で頷くことで、ストレイカーの言葉が真実だと応えた。そして明かされたストレイカーの過去は、カレンの想像を絶するものだった。
「僕は十四歳で昏睡に陥り、目が覚めたときは八十年の歳月が経っていました。その後『T・アイズ』に保護され身体面と生活面のリハビリで三年を費やし、調査官として働くのは五年になります。ロウ本部長には、僕が担当した最初の事件でお世話になりました」
「八十年間も、眠り続けていたというの?」
目覚めたとき、八十年の歳月が経っていた……。両親、友人、あらゆる者達が年をとり、あるいは亡くなっていただろう。
その事実を知ったストレイカーの心情は、想像に難くない。
孤独と喪失感に耐え現在に至るまで、どれだけの苦労があったのか。カレンは愕然として、ストレイカーを見つめた。
「でも今の話だと、実生活では二十二歳のはずよ? どう見ても……」
「僕の場合、覚醒してからの成長が遅いようです。だから眠っていた時間も長かったのかも知れません」
苦笑するストレイカーは、やはり幼さの残る十五・六歳の少年に見えた。
だが今までの言動や身に纏った寂寥感、人間業とは思えない身体能力が少し理解できた気がする。
不思議なことに『ハイパー』や『ビースト』に対峙したとき感じる緊張感は覚えず、むしろ初めて出会った時に感じた親近感の理由が、いま解った。
妹を失ったカレンの傷と、似たものがあったからだろう。
「『スリーピング・エッグ』と戦うには、警察の力だけでは太刀打ちできない。解っていたけど、認めたくなかった。『T・アイズ』を信用するわけじゃない……あなたを信用するわ」
カレンの精一杯の虚勢を、ストレイカーは笑って受け止めた。