#9
そんな、いつの日かの楽しい思い出とは打って変わって、僕の心は暗く沈んでいた。
今日は合格発表の日。今から三十分後、合否が決まる。いや、合否は既にもう決まっている。
「うぅ……」
駅、構内。二階男子トイレ。
奥から二番目の個室で、腹痛と戦う男。僕。
わかっている。
もうかれこれ数分近く籠っているものの、何の成果が無いのは、この腹痛が心因性のものだからだ。
これ以上ここにいても意味なんて無いだろう。
しかし、いざ電車に乗ってしまいまた、腹痛の波に飲まれてしまったら……。
もう身体中が嫌な汗でびしょびしょだった。
受験の時はここまで緊張しなかったものの、今日は諸々のプレッシャーがかかってしまい、僕の心はそれに耐えきれず、腹痛を呼び起こしてしまっている。
頭の中で、漏らすか遅刻かを天秤にかけていたところで、そんな思考は一人の女性らしき甲高い叫び声に掻き消された。
「や、離せ……!!」
男子トイレの外だ。
切羽詰まった悲鳴に僕は慌てて立上がり、ズボンをあげ、個室から飛び出し、そのままトイレを抜けた。
どこかで見た覚えのある少女が、一人のおじさんとどうやらもめあってるようだった。少女は腕を掴まれ、必死にもがいている。
少女がこちらに気づいたようだ。向けられる眼差しからは"助けて"と言われているような気がした。
考えるより先に体が動いていた。
「ず、ずいぶん待たせたね!!ほら行こ!?」
オッサンから少女の右手をひったくり、半ば強引に少女と一緒にその場から逃げ出した。
もう大丈夫だろう。
随分トイレから離れたところで、僕は立ち止まり、息も絶え絶え振り返った。
「……だ、大丈……ぶ??」
がしかし、ここまで全力で走ったことなど何ヵ月振りか、オッサンでさも鼻で笑うほど無様な持久力を晒してしまうこととなった。
「ほんまありがとう!助かったわ!めちゃくちゃ怖かったわぁ」
羞恥心に暮れ、また嫌な思い出が増えてしまった等と言うマイナスな思考は、少女の煌めくような笑顔に吹き飛ばされる。
僕はひとまず呼吸を整え、返事をするまでにたっぷり数十秒置いた。
「……どう……いたしまして……」
なんの造作も無いことだよ。
なんて気の利いた事も言えず屈託のない笑顔にただ、うろたえるしかなかった。
そんな僕をお構いなしに、僕が聞くよりも先に、彼女がああなってしまった経緯を元気よく話始めた。
「今日ばり緊張しててなー、ほらだって。合否発表やん?君もそうやろ?」
少女は僕の手中にある円義波高校のパンフレットをちらりと見た。
「めっちゃお腹痛くてな。あ、今はもう大丈夫やで。んで焦りに焦ってぶつかってん!謝っても全然許してくれへんしさ」
悩みなどない!と言わんばかりに豪快に笑いながら話す彼女を見てると、僕もなんだか元気が湧いてくる。
彼女はハッと気がついたように腕時計を見る。
「あかんあかん!遅れてまうわ!君も遅れんようにな!!」
さっき、僕に連れられて走っていた時の数倍の速さで彼女はホームの方へと駆けていった。
彼女は受験の時に居た。さっきので会うのは三度目だ。向こうはどうやらこっちのことを覚えてくれていたらしい。エミィの件で注目を集めていたからだろうか。