#8
「今日は本当に楽しかった!じゃあまた明日学校で会いましょう!!」
好奇心を持ち始めた子供。例えば4、5才くらい。そんな子どもを相手に、たった二時間で疲れ果ててしまった。
あぁ、子育てはこれ以上に大変なんだなぁ……。
遠くに暮れる夕陽を眺める。
ゆっくりと視線を横に流すとこころさん。いや、戦友とも言うべき人と目が合った。なんて冗談をいう余裕がやっと生まれてきた。
静かに僕らはうなずきあった。きっとこころさんも同じ様な思いでいてくれている。
右太ももの、ぐっしょりとした不快感。
ほのかに香るメロンソーダの甘い匂い。
僕の脳裏に、お疲れ会と呼ぶには心労のひどい、エミィのわがまま会を想起した。
◇
「じゃあ、これが食べてみたい!あとこれとそれとあれとどれと……そのピザも!!」
メニューに目を釘付けにして、店員にあれこれと注文する彼女の姿はさながら、動物園のパンフレットに心踊らせる子どものようである。いわく、日本のファミレスは人生で初めてらしい。
「あれ全部飲んでいいの!?行ってくる私!!」
エミィはふと顔を上げたかと思えば、メニューを机に叩きつけ、ドリンクバーコーナーへと走り去っていってしまった。
「……。……あとドリンクバー3つお願いします。こころさんはなに食べる……??」
「えっと……これで……」
こころさんは小さめのオムライスを指差した。
「じゃあ、以上でお願いします」
かしこまりましたと言い残し、慣れているのだろう、店員はすたすたとキッチンへ歩いていった。
「はぁ……」
置かれていった注文レシートに目を通し、思わずため息が漏れる。
その数にして六品とミニオムライス。三人で食べるには到底多すぎる。エミィもこころさんも、見るからに大食いという感じはない。もちろん僕もそも自信はまるで無い。
「お待たせ!!」
バーン!!と大きな音を立て、並々液体が注がれた3つのコップをテーブルに叩きつけた。
その液体はシュワシュワと泡をたててつつ、その全てがどす黒く灰色がかっていた。
「なにこれ……?」
"それら"から少し距離はあったものの、ものすごい異臭が感じ取れた。
「なにって全部よ!飲めるものは飲まないと損じゃない!!」
どうだまいったかといわんばかりに自信げに鼻をならす彼女から、少しの悪意も感じられない、実際彼女自身の分まで、三つのコップ全てが、見事に均等な灰色をしている。
「ほら、飲んでみて!私ブレンドよ!」
ずいとテーブルのそれをすっと僕らの方へ押して寄せた。一層臭いがきつくなる。ひっ、とこころさんの小さな悲鳴が隣から聞こえた。
ちらりとエミィの顔を見る。
依然好奇心旺盛な顔で目を輝かせ、感想を待ちわびているようだ。
ええい、ままよ……!
そう心を決め、目を瞑ろうとした瞬間。視界の端で一気にそれを嚥下する勇者の姿が映った。
優しさとは、こう言うところで死因となるのだろう。こころさんのその性格から、断ることも中途半端に残すことも頭に思い浮かばなかったのだ。
こころさんはそれをごくごくと半分ほど飲み干した所で、ぴたりと動きが止まり、ゆっくり、ゆっくりとコップを口から離した。
「独特な味ですね、おいしいと思います!でも空くんはここに詳しいので、もっと美味しい飲み物を用意してくれますよ!」
ふふふ、と余裕そうな笑みを浮かべるこころさんはとても頼もしく見えた。が。ぴくぴくと頬はひきつり、体は小刻みに震えている。
あぁなんて献身的な子なのだろう。自分を犠牲にしてまでコップの中身の交換をなるべく傷つかないように伝えている。
ありがとうこころさんと、心の中で感謝を述べつつ僕は一度飲もうとしたそれを机に置き直した。
「そ、そうだね!うん、任せて!」
僕は三つのコップを手に持ち、立ち上がった。一つは、彼女の功績で、半分もない。
「どこにいくんですか?」
こころさんが低く、確かにそう言った。
「え、僕が新しいの入れてくるんじゃ……?」
「それ、捨てる気なんですか?」
その目は暗く、ちょうど灰色に濁っていた。
ゆっくりと腕を掴まれ、しかし予想だにしない怪力でもう一度席に戻される。
「そうよ、二杯目はソラに頼むけど、まずはそれ飲んでからよ。じゃあいただきます!」
エミィはコップを一つ手に取り、なんの躊躇いもなくひと口飲んだ。
瞬間、表情が固まり、静かにゆっくりとテーブルにコップを置いた。
「プロに任そうかしらね、ソラ、お願い。今すぐ」
その転身は早かった。
「了解」
まったくしょうがないなともう一度立ち上がろうとしたが、またもガシッと右手が捕まれ、そこで動作が止まる。
「空くん?」
にこりと笑うこころさんの表情からは一切の感情が読み取れなかった。エミィでさえ飲むことをもう強いていないと言うのに、飲み物一つでこうも人を変えてしまうのだろうか。
僕はまだ一ミリたりとも減っていないコップを手に取り、口元に近づけた。
異臭の原因はどうやら、酸味を感じさせるオレンジと、科学甘味料の特徴的な臭いが混ざった上に香るトマトの臭いだった。
思考を巡らせれば巡らせるほど、気分が悪くなる。
決心し、ひと口ごくりと喉へと流し込んだ。
粉にむりやり炭酸を反応させたような爽快感の全くない泡が口内に広がり、たった一口でも口の中は異臭で埋め尽くされた。
灰色の原因はブラックコーヒーだったのだろう。泡の一つ一つに苦味が絡まっており、後味は不快感たっぷりの烏龍オレンジ。トニックウォーター微炭酸だ。
コップを口から離そうとした。
が、捕まれた右手が強くギュッと握られる。
こころさんの瞳は未だ薄白く濁り、自分と等量を嚥下させようとコップの角度は固定されてしまった。
浮かぶ涙を堪え、それでもこころさんほどまでとはいかなかったが、三割ほど飲み干した。
するとパッと右手が解放され、こころさんはにこりと笑った。
「私はレモンティーでお願いしますね」
「私もそれでお願い。苦いのは嫌」
何事もなかったかのように僕は静かに席を立ち、ドリンクバーコーナーへと向かった。
案の定、先ほどまで頭に浮かんでいたフレーバーがずらりと並んでいる。後味が記憶となって蘇る。むせあがる吐き気を抑え、メロンソーダとレモンティー2つ入れて、僕はテーブルへと引き返した。
しかしテーブルにこころさんの姿はなく、エミィだけが座っていた。
「こころさんは?」
テーブルにコップを置きつつ、僕は聞いた。
「急いでトイレに行ったわよ。テスト中行けなかったものね」
原因は多分他にあるだろう。と言葉を飲み込んで、ここにいない勇者の背中を夢想した。ありがとう、君の事は忘れない。
その間に店員が僕たちのテーブルに料理を運んできた。
見たことのない三段構造の豪華なカートで。
「お待たせしました」
店員が慣れた手つきでテーブルに料理を並べる。
四人掛けの席は今にも料理で溢れそうだった。
「わぁ!美味しそう!」
しかしそんなことは一切気にもせず、エミィはまた目を輝かせ始める。
その時丁度、こころさんが戻ってきて、やっと食事が始まることとなった。こころさんは机の上を見て、やや苦笑いを浮かべた。
・・・
初めはかなりの勢いで食べていたエミィだったが、一皿目のパスタを半分ほど食べたところで動作が鈍くなっていった。
残りにハンバーグが丸々二種二皿とピザ二種二皿そのうち半分、パスタ半分が残った。
こころさんはオムライスを自分のペースでパクパクと無理なく、美味しそうに食べていた。まるで他の料理など意に介していないようだった。
どうせこうなることもわかっていので、自分の料理は頼まず。エミィの残飯を喰らっていた。
僕はハンバーグを一つ平らげた所で、十分な満足感を覚えた。
「……も、もうお腹いっぱいだわ!」
自分が頼んだ品のたった一つすら食べきらず、とうとうパスタさえ完食にはいたらなかった。
現在ピザに苦闘する僕には役が重すぎる、どうにかしてくれとこころさんに視線を送った。
するとこころさんは渋々フォークを手に取り、残ったパスタを食べ始めてくれた。
感情の起伏無く、黙々と料理を食べ進める中で、一つトラブルが起きた。
トラブルと言えば何度も起きていたが、暇になったエミィが呼び出しボタンで遊ぶくらいなんかはもうトラブルのうちには入らない。
味の濃い料理が続く中で、メロンソーダだけが口内のしつこさを打ち消してくれるオアシスだった。
「それ、美味しそうね」
僕のメロンソーダを指差し、エミィは言った。
「入れてこようか?」
「いいわよ、ちょっと頂戴?」
何も考えず、渡そうとした僕の頭に、ミキさんの言葉が浮かんだ。
僕は渡そうとしたその手をぴたりと止める。
この年にもなって気にすることでも無いのだろうが、それでもエミィに対してこれ以上ややこしさを与えるような真似はしたく無い。
「さっさとくれない……?」
「新しいの入れてくるよ……!」
そう僕が言い終わらなくうちに、エミィが僕の持っていたコップをつかんだ。
ぐぐぐと、コップはどっちの方へも動こうとしない。
どうやらエミィも離すつもりは無いらしい。
「わ、私の飲みますか?」
横で丁度同じものを飲んでいたこころさんがエミィに持ちかける。
が、そんなこころさんに一瞥もせず、吐き捨てるようにエミィは言う。
「いい、ありがとう。でも今になって昨日フラれたのが腹立ってきて……!」
一層力が込められ、コップにかかる圧力のバランスが崩れた。
「あ。」「あ!?」
均衡を失ったコップに残された道は中身をぶちまけるほかなかった。
不運にも、幸運にも、コップの決めた倒れる先は僕の方だった。
しかし僕は急な出来事に対応できず、もろに下腹部にそれを受けてしまった。
「うわ!」
急いで立ちあがり、少しでも被害を抑えようとした頃にはもう手遅れで、僕のズボンには大きなシミが広がっていた。
「わわ、大丈夫ですか!?」
こころさんが付属の布巾で拭いてくれたが、焼け石に水。半ば諦めて僕は席についた。
「ご、ごめんなさい……」
意外にもエミィは珍しく肩をすぼませ、申し訳無さそうにした。
「いいよ、しょうがない。新しいの入れてくるよ」
しかし、エミィは一向に顔をあげようとしない。
「本当に、反省してる……」
耳まで真っ赤にして、今にも泣き出しそうな雰囲気だった。そんな反応されるとは夢にも思わなかった。
「いいっていいって。大丈夫!」
急なギャップに僕は焦った。普段憎たらしい奴が急に塩らしくなるとこうも歯車が狂ってしまうのか。
こうも感情の起伏をぶつけられてしまうと、どう対応すれば良いのかわからなくなる。
「エミィさん!プリン来ましたよ!」
こころさんは努めて明るく、横の彼女の肩を叩いて指差した。
机の端で、ささやかにその存在を主張するそれは、今この空間において唯一の甘味であり、本当に美味しそうに見えた。
そしてそれはエミィにとってもそうであったらしい。
「……食べる」
「どうぞ!」
スプーンと皿をこころさんから受け取り、一口一口小さくそれを切り分けて口に運んだ。
「……美味しい」
そんなこんなで、今では彼女の機嫌は随分と持ち直してくれたようだ。プリンをちまちまと小さく食べるエミィは、黙ってさえいれば、美人と謳われるのも納得だった。黙っていれば、黙ってさえいれば彼女は完璧だ。
デザート食べ終わって急に、エミィは伝票を持って立ち上がった。
「私が奢ってあげるね、先出といて!!」
スキップ混じりにレジまで向かう姿はさながら、好きな動物のぬいぐるみを買ってもらう子どものようであった。
「騒がしい人だね……後でお礼言わなきゃ、行こっか」
と、いまだ席に座っているこころさんに声をかけたが、耳まで届かず、返事は返ってこなかった。僕は、そういえばと胸が締め付けられ、恐る恐る机の上の料理を一望した。
が、そのどれもが姿形さえ無かった。今では全て綺麗に食べられている。
その偉業の中心で、こころさんは一つ軽く息をついた。
「ふぅ」
言葉を失って、僕はその場を少しも動けない。
こころさんはそんな僕をチラリと見ると、自分の唇の前で人差し指を立てた。
「内緒ですよ、普段はこんなに食べないんですから。……メロンソーダでお願いします」
そう言いながら、空いたコップを僕へと手渡した。約六人前強の料理は、ほとんど全て、彼女一人により平らげられた事実に、まだ僕は思考が追いついていない。
「……着痩せするタイプ?」
ふと口からでた言葉で、僕は思い切り頬をつねられた。
・・・
そして今に至る。夕陽がとても綺麗だ。
さっきのこころさんへの狼藉はすぐに謝っておいた。
気にしてないよと笑ってくれたお陰で、僕はまだ募る疑問を口にしようとしてやめた。ほっぺたはまだ痛んだ。
「今日は疲れたね」
「子どもがいるのってあんな感じなのかなぁ…」
「ずいぶん大きな娘だったね」
軽い冗談を言い合いながら駅まで僕らは歩いた。
「じゃあまた明日ね、ばいばい」
「うん、ばいばい!」
またこの三人で、疲れたとか楽しかったとか関係なく、同じファミレスで笑い合えたら、ばいばいを言い合えたら。
合格発表の日はいつだったか、それが叶うかが決まる日が来てしまう。
どうか、僕らをあの高校へ。