無空
・着地せよという、ただ一言だけの命令。それを簡単だなどと思えたのはほんの一瞬だった。
なぜそんな簡単な命令を、最終試練に持ってきたのか。考えればすぐにでもわかることだ。
着地するまでに死なれては困るのである。
俺の力を強制的に引き出す試練だが おそらくクレシアさんは武術向きではないのだろう。
むしろ、魂の内部から溢れる未知の力を使って試練を召喚するのが領分といったところか。
俺のすぐ目の前に立っているその存在を見て、クレシアさんが俺に何を課そうとしているのかすぐにわかった。
「恐怖を超越……って事スカ。」
「読みがいいな。安心してくれジョー。 この試練は、これまで君を襲った三つの試練の中で、最も迅速に終結する。
こちらの時間軸で、という意味だがね……。」
こちらの時間軸の意味がわかった時、 すでに警戒は無意味な状態だった。
大きな黒い影の足元に立った俺は、そいつの持つ日本刀に突き刺された。 刃物で刺されたことはなかったが、 それはおそらく普通に 刺されたのとは違う感覚だった。
痛みを感じない。
その代わりにもっと死に直結して感じる、奇妙な感覚だった。肉を切って骨を断ち、血中に毒を流し込まれたかのよう。
毒はたちまち凍え、血管の中を流れる血潮を一滴残さず汚していく。
その毒の名は恐怖。
恐怖が鳥肌を立たせて全身を駆け巡りアポロンの効力で俺の中を駆け巡っていた勇気の力をかき消していく。
毒で満たされていく体は氷上のように固まり始め 徐々に俺が脳から発する信号を受け取らなくなる。
俺が完全に着地すると、クレシアさんが自分の杖を地面に突き立てた。俺とこの影を中心に、紫のドームが完成し外の音や匂いが完全に隔絶される。
「さぁ…… 君にこの男が殺せるかい?」
殺すところか歯向かうことすらできない。無理だったのだ。
少なくとも、俺が死ぬ前の元居た世界では。
零矢は、 この男は祖父の孫にして眷属だった。
実家が営んでいた武術道場。剣舞、拳法、弓道、棒術、蹴り技、呼吸法。
古来日本で武道と呼ばれていたあらゆるものを伝授するが、 常軌を逸した過酷さと、修行者に莫大な費用を請求することから、その門を叩くものは少なかった。
俺は祖父からあらゆるものを叩き込まれ、全てを犠牲にしてきたが、分家のエリートと言われたこの男にだけはどうしても勝てなかった。 周囲は俺に疎ましい顔を見せ、唯一の味方だった兄も 住む場所を分かたれてからは、徐々に心が廃れていった。
危機感を覚えて実家を出た後も、 この男に勝てなかった無力感と恐怖だけは心の奥底にずっと根付いていた。
あわよくば殺されるかもしれない。
あの孤独な稽古場で、何度それを味わったことか。
だが、徐々にそれは癒されていた。
この世界に来て、家族の、周りの人との温かみに触れてから、記憶から薄れ削ぎ落とされて言ったハズだった。
だが今、この術によって召喚されたように(原理はわからないが)少なくともあの人は俺の恐怖を掘り起こした。
つまり、俺は何も変わっていなかった。
マジックアイテムの力を高め、幾多の修羅場を乗り越え、 剣術の鍛錬をしたところで 結局そいつは根源的な恐怖として 俺の中に留まり続ける。
鍾乳洞の中で滴り落ちる水滴が何十年にも渡って水たまりを作るように。
一年に一ミリしか伸びない晶石が、何百年にも渡って石柱を作るように。
それは俺の心の中という洞窟で隠れ住み、 再び俺をむしばむ準備をしていたに過ぎなかったのかもしれない。
何と恐ろしく、何と哀れなことか……。
くそ!こいつはまだ、言葉なく、存在なくして俺を縛り付けるのかよ……!!
恐怖の重苦しい苦味が、怒りの痛みに変わった時。
外から徐々にクレシアさんの声が聞こえてきた。
《それだ!それでいいんだよジョー! その男が得しているのは君だけじゃないかもしれない。その男への恐怖が、本物の戦場で足をすくうこともあるかもしれない。
それが守るべき戦いだったらどうする?後ろに誰か、大切な人がいたらどうする?!
殺すことが罪だというのなら、この場合は例外だ。その男は幻影、君の恐怖そのものなのだから!さあ、胴を真っ二つにするか、心臓を一突きにしろ!》
そうだ殺せ!殺してしまえばいいんだ!こいつのせいで、俺は死ぬより辛い思いをしたんだから!
元々ボロボロだった心の上に、さらに体までボロボロにされたんだ! 恐怖の毒で身も心も蝕まれたんだから!
なのに
なぜ俺はこいつを刺さない?
なぜこいつの心臓をつかない?
なぜこいつの首を切り落とさない?
なぜ俺はこいつを殺せない?
零矢によくにた、この歪で恐ろしい影を、なぜ俺は両断できないのだ。
「そんなの決まってんだろ。」
心の中で誰かが叫んだ。これは誰だ?零矢の影でも、 クレシアさんでもない。 わかりきったことを子供に教えるような、少し自嘲気味の声。これは俺自身だ。
「ベルにあんな顔させたじゃねえか。俺が昔誰かを殺しちまった時に。」
そうだ。なんで今まで忘れていたんだろう。
あの時やむなく殺してしまったあの放火魔の顔を、俺はどうしても忘れられなかった。
そのせいで大きく心を病み、ベルに一度救われた。あんな小さな身体に、俺みたいなどうしようもない奴の罪を、一緒に背負うとまで言ってくれた。
「またベルに、 心配をかけるのか?」
いやだ。
「 またベルに、あんな顔をさせる気か?」
いやだ。
「 またベルの涙を流させるのか?」
いやだ!!!
「オレは……オレは……!!」
《どうしたジョーくん!!早く殺すんだ!》
剣を突き刺したまま動かない零矢の影。俺は、今まさしく自分の心臓を貫いているその剣に手をかけた。
「お前が…… 俺の恐怖そのものだって言うなら……!!」
おぞましい毒の流れる感触と一緒に、それが体内のアポロの魔力で燃焼され、殺菌されていくのを感じる。
「オレはお前を受け入れるよ。」
俺がそう呟いた瞬間、影の顔にはついていなかったはずの瞳孔が現れ、 目を見開いた。
涙を流し、全身をピクピクと震わせたそいつは、震えを徐々に激しくさせ、 ガラスの彫像をハンマーで砕いたようにバラリと音を立てて崩れた。
影が崩れると同時にドームも解除され、部屋の隅の方ではクレシアさんが 驚いた顔をして立っていた。
斬り殺せという指示に逆らったことで、多少なりお叱りが来ると思っていた。
だが帰ってきたのは予想外のリアクションだった。
目を見開いたまま拍手をし、こちらに一歩一歩ゆっくりと近づいてくる。
「おめでとう、ジョー・ロングライド。君が初めての……100点満点だよ。」




