逆らうこの身の行き着く先は
生暖かい風が黒い影の落ちるアスファルトの上を馴れ馴れしく這うとき、俺は駅近くの駐輪場へと足を運んでいた。一日以上放置された自転車には警告として札が貼られるのだが、故意か偶然か見逃されることもしばしばだ。ちらほらと注意を促す札が貼られる自転車が散在する中で、俺の自転車はといえば数十分前に止めてから一つも変わらぬ姿であった。無造作にかごに投げ入れていた荷物もそのままだ。
長いこと雨に降られているせいだろう、すっかり錆びついている俺の自転車は今更誰かに盗まれる心配はない。おまけにそのかごには防水用の袋に覆われた私物が入っている。自転車に鍵をかけたのですっかり止めた気になり、俺はかごにいれた荷物を出すのをすっかり忘れていたのだった。一度目的地まで電車で向かったのだが、あと少しというところで持ち物に不足があることに気付いた。溜息をつくよりも早く、こうして引き返してきた次第だ。かごにある荷物を手に取ろうとしたとき、ふと金属の擦れる音がした。
「女ものの鍵……」
俺の自転車のかごには持ち主不明の鍵が入っていた。もはや使いすぎて防水の効果をなしていないような、雨滴を含んで湿った防水袋の上に、その鍵はごく自然に置いてあった。このようなことは今までで初めてだ。朝方は隙間なく埋まるこの駐輪場も、夜が近づくにつれ次第に平らな地の顔を覗かせる。学生の帰宅ラッシュが大方過ぎたこの時間帯では俺のサイドに並んでいたはずの自転車はなくなっていた。このキーホルダーの持ち主は恐らく、俺の近くに止めていた人間だろう。
俺は目的の荷物を小脇に抱え、出所不明の鍵を届け出ようと駐輪場の隅にある管理人の部屋を覗く。このような時に限って管理人は不在だ。先を急いでいるわけではないのだが、妙に時間が経つのが重く感じられ、俺は鍵を手にしたまま駅へ向かうことにした。
女子高生を連想させる可愛らしいキーホルダーのついたその鍵は、見たところ家の鍵のようだ。持ち主は今頃どうしているだろうか。駐輪場近くの池では散った桜が水面という水面に陣取っていた。さながら一斉に口を開けているかのようだ。
日はすっかり沈んでいた。俺は半ば急ぐようにして駅へ向かい、再び同じ方向へ行く電車が来るのを待った。何でもないときにこう急ぐ振りをするのは、どこか物語めいていて心が躍る。実のところ何の目的もなしにこうして電車を待っているわけではない。俺はこれから友人宅へ向かわねばならないのだ。やがて滑るように到着した電車に乗り、揺らり揺られて乗り継ぎの駅へ向かう。車内に居合わせた人間は誰もが俯き気味で、俺も箱に詰め込まれた人間の一人だった。窓越しに逆走する世界を見る。今日の終焉に手を合わせるかのように、暗く重い雲が空を覆っていた。
乗り継ぎの駅は地下鉄の駅と繋がっている。やはり帰る方面の人間が多いせいか、俺は人の波へ逆らうようにして地下鉄の駅へと歩みを進めた。次の発車時刻を示す電光掲示板の光が視界の隅で揺れる。間もなくして地下鉄のドアが開いた。
どこまでも暗い地下世界を正面に見ながら、俺は空席の目立つ車内で一人腰掛ける。ここまで来ると多少の疲れが生じた。駐輪場に荷物を置き忘れてくるのは誤算だったのだ。俺は防水袋から抜き出した荷物を膝の上に置き、それと平行に向き合うように顔を下げて目を閉じる。機械的なアナウンスが告げる。次の停車駅。次の停車駅。そのうちに俺はアナウンスに耳を傾けるのを止めていた。その間どれほどだったかはわからない。そろそろ目的地が近づいてきたかと目を開くころ、俺の隣には小さな乗客が礼儀正しく腰かけていた。口を一文字に結び、正面を一途に見つめている。ランドセルが座席の背面にあたっているせいか、余計姿勢が美しく見えた。小学5、6年くらいの男子学生だ。鈴の音が鳴る。それが彼のランドセルにつけられたキーホルダーであると俺が認識すると、小さな乗客と目が合った。
「お兄さんはどこで降りるんですか?」
小さな乗客は問う。
「終点だよ。友達にこの荷物を届けに行くんだ」
「お兄さんは何を届けに行くんですか」
「荷物の中身は俺も知らないんだ。友人にとってはひどく大切なものだとか」
小さな乗客はふっと笑った。見かけに不相応な笑みだ。彼は次の駅で下車した。ドアが開くころ、彼が俺の方を向いて小さく手を振るので、俺もまた小さく手を振り返したのだった。
終点の駅まであと少しという頃、友人から今日はもういいというような連絡が入った。奴の気まぐれはこれが最初ではない。そもそも俺の方でも届けに行く時間を決めていなかったのだ。仕方がない。俺は持っていくはずだった荷物の中身を見た。
機械的なアナウンスが告げる。次は終点。黄泉平坂。
身の回りの方のお話を聞いて思ったことを、小説に詰め込みました。
本質的に人間が持っているであろう薄暗いものに立ち会う機会が多いこの頃。
錆びついた自転車、忘れられた鍵、散り落とされた桜に隙間のない水面、染み込んだ雨滴……取り返しのつかないところへ行く前に、今一度目的地の確認を。