料理場は女達の戦場
「ん~、今日は洗濯日和ですね~。こんな気持ちの良い朝は何か良いことがありそうです♪」
「……おはようミコさん」
「あっ、おはようございま……だ、旦那様!?」
結局、あの後一睡もできずに明るみのある朝を迎えてしまった。どうも俺は平均七時間は睡眠時間に当てないと駄目な体質のようで、一時間や三十分違うだけでも気分が優れなくなってしまう。
ちなみに、昨日の就寝時間は二十四時。そして起こされた時間は朝の四時。つまりは四時間しか寝ていないのだ。
三時間も寝てないとなると、最早俺の脳内は崩壊も良いところ。視界はボヤけ、頭はクラクラし、多少の吐き気があり、足腰がふらふらする。どんだけ不便なんだ俺の身体は。
「旦那様、顔色が悪いですよ!? 体調が優れないんですか!?」
「そんなに見た目に出てるのかよ……。ミコさん、俺今どんな感じになってる?」
「えっと……下水道から這い出て来た徹夜明け三日目のゾンビみたくなってます!」
「そ、そっか……」
結構リアルな感じで具体的に表現されてしまった。それだけ今の俺の外見は酷いことになっているんだろう。
青空に輝く太陽はあんなにも猛々しく世界を灯してくれているというのに、俺だけ光を浴びずに暗闇の中にいるかのようだ。なんだろう……凄い寂しい気持ちが込み上げてくる。
「と、とにかく座ってください旦那様! 今から熱を測るので大人しくしてくださいね?」
すると、ミコさんが丁重に介抱してくれて、中庭に続いている窓に座らせてくれると否や、ぴたりと俺の額に自分の額を重ねてきた。
「うーん、熱はないようですね。もっと他の原因なのかも……」
たったそれだけのコミュニケーション。たったそれだけの行為なのに、俺の中の闇が一瞬で消え去り、真っ白に輝く光が心一杯に広がった。
あぁ……天使がいる。俺の目の前に純白の良心を持った天使様がいる。
「とりあえず旦那様、体調を悪くしないように部屋に――旦那様?」
俺は無意識にミコさんの手を取り、透き通ったその青い瞳を真っ直ぐに見つめる。突然のことにミコさんは少し慌てているものの、目を背けずに頬をほんのり赤くして見つめ返してくれた。
「ミコさん……君は俺の心を照す太陽だよ……」
「た、太陽ですか……? 何だか照れてしまいますね。エヘヘッ……」
ぬぐおぉぉぉ!! やっぱこの人が一番超絶可愛い!! 今すぐにでも結婚したい!! でもその前に純粋にお付き合いしたい!!
ど、どうする俺!? このまま告白とかしちゃう!? まだミコさんと出会って日が浅いけど、この想い伝えちゃう!? でも急に「好きです!」とか「愛してる!」とか言ったら引かれないかな? いやでも、天使のような優しさを持ち合わせているミコさんならきっと――
「おはよう愚人! 家事狐! 今日は良い朝だな! こんな日は何か良いことがありそうだな! フハハハハッ!」
「あっ、おはようございますリースさん」
その刹那、パリンッとガラスが割れたような音が確かに鳴った。それと血管が一本ブチリッと切れた音も。
俺は、謎の上機嫌状態になっているリースの襟首に掴み掛かった。それはもう、猪の突進のような勢いで。
「お前っ!? おんまぇっ!? マジかっ!? マジでそういうことしちゃうかっ!? あぁっ!? あぁぁっ!?」
「どうした愚人、まるで狂気と殺意に取り付かれたリザードマンのような顔になっているぞ。もしやあの白髪に何かされたのか? 何をされた? 言ってみよ」
「強ち間違ってないけれどもっ!! でもお前さぁ!? あぁもう、あァァァァ……」
あの糞白髪に続いて、今度はこのトチ狂い暴れん坊将軍の嫌がらせ。どいつもこいつも何なんだ一体? 俺に恨みでもあるのか? 願い叶えに来たのは上っ面で、本当の目的は俺にストレスを与えに来ただけなんじゃねーのこいつら?
「お、落ち着いてください旦那様。乱心した時は深呼吸です。まずは冷静になりましょう?」
「それでも落ち着かないのであれば、気が済むまで私が直々に組手の相手を――」
「リースさん、少し黙っていてください!」
「あっ、はい……」
意外なことに、ミコさんが怒ると、リースは素直に大人しく引き下がった。もしや、現段階でこの家で一番権力を持っているのはミコさんなのかもしれない。
続いて俺もミコさんの言うことを聞いて、荒ぶっている感情を収めるため何度か深呼吸をする。
それから数分後。どうにか俺の怒りは収まってくれた。本当にミコさんには感謝の言葉しか思い当たらない。
「ありがとミコさん、もう大丈夫だ。こんなくだらないことに気苦労掛けてマジでごめん」
「いえ、良いんですよ。私が好きでしていることなんですから」
本当にこの人はもうっ! もうガチで俺にはミコさんしか見えないっ!
「落ち着いたか愚人。ならば次は私の話を聞け」
「結構です」
「ふっ、拒否権があると思うか?」
俺の視界に写す価値無しの将軍様が、常時装備している傘を抜き取って矛先を向けてくる。今は大人しくしてやるが、いつか必ずこいつに痛い目に合わせてやらぁ。
「単刀直入に言えよ。今の俺は気が短いから、些細な苛つきで次はどうなるか分かんねーぞ」
「ほぅ……良い目付きだな。まるで獣を狩る時の狩猟者の顔だ。もしや貴様、意外に腕が立つのではないか?」
「んなことはどうでも良いから、とっとと用件を言え。俺は早くミコさんの手料理が食べたいんだよ。更に言えば、手料理に含まれているであろう愛情も摂取したいんだよ」
愛情という言葉を聞いて、嬉しそうに笑うミコさん。今度は抱き締めたい衝動に駆られそうになるが、そこは何とか堪える。今はこの将軍様をどうにかしないといけないのだから。
「ふむっ、では要件を言うが、貴様は何時になったら学校という場所に行くのだ?」
「…………あっ」
そういえば、こいつら異星人騒動のせいですっかり忘れてしまっていた。こいつらと共同生活をしようとも、俺の本分は学生なんだった。
ちなみに、今日は休日というご都合展開などではなく、普通に登校しなければならない平日だ。休みすぎると進路に響くだろうし、流石に今日からは行かないといけないだろう。
幸い、学校はチャリで十分から十五分程度の距離にあるので、今の時間から準備すれば余裕で間に合う。身体のモチベーションは最悪だが、それを言い訳に不登校なんて以っての外だ。
「あぁ、今日から行くつもりだ。いつまでも家に引き込もってなんていられないよ。それに、馴染みの奴らが心配しちゃうしな」
「そうか……なら力を付けるために朝は多くの食材を摂取しなければならぬな」
「えっ……ちょ、ちょっと待ってくださいリースさん!」
ミコさんが慌ててキッチンの方に向かっていくリースを引き止めた。
「なんだ家事狐? 今から私は愚人の朝飯を作らねばならぬのだから、早くその手を離せ」
「きょ、今日の料理は私がします! ですからリースさんは旦那様と一緒に待っていてください!」
「ふっ、断る」
鼻で笑って聞き流しやがった。
「悪いが、今後先の料理は全て私が担当させてもらう。貴様は靴を磨いたり、冷房の埃取りをしたりと、地味な家事作業に没頭していろ」
ブチッ
あっ、ヤバいぞアレは。ミコさんから血管切れた音が鳴るのはヤバい。
俺は知っている。普段全く怒らない優しい人が怒った時、どれだけ怖いのかということを。
「家事を……家事を馬鹿にしましたねリースさん? 流石の私も黙っていられません……」
「ほぅ……貴様、狐のくせに猫を被っていたのだな。そんな顔もできるのではないか」
ミコさんが今、どんな顔をしているのか。具体的に表現してしまった時、それはミコさんのイメージが粉々に崩壊するので止めておく。それだけ今のミコさんの表情は凄いことになってしまっている。
「……良いでしょう、分かりました。要するに、私はリースさんが作ってくださった料理より美味しい物を用意すれば宜しいんですね?」
「貴様が? 私の料理よりも? 美味しい物を? 用意する? フハハハハッ! 面白い冗談を久方ぶりに聞いたぞ!」
「アハハハハッ……。旦那様、一つ頼みがあるんですが、宜しいでしょうか?」
その表情のまま俺に話し掛けて来るミコさん。俺は声を出す余裕もなく、ただ首を縦に振ることしかできなかった。
ミコさんはエプロンのポケットから一枚の紙切れとボールペンを取り出し、目にも止まらぬ早さで何かを瞬時に記入した。
「今からこの紙に書かれた食材を買い揃えて来てください」
差し出されたメモ用紙を受け取ると、そこには様々な食材の名が記入されていた。幸い、全て近くのスーパーで揃えられる物しかないので、十分もあれば用意することは可能だ。
「至急でお願いします。少しでも遅れたら……ウフフフフッ……」
口に手を当てながら笑うが、薄っすら開かれている瞼の隙間には真っ黒な瞳が見えた。これは下手に刺激しないことが得策と判断する。
もしここで断ったその時、俺の命はエンディングロールと共に終わりを迎えるであろう。
「ぬおぉぉぉぉ……っ!!」
俺は不健康体だった身体に鞭を打ち、神速の脚力を用いて直ぐ様スーパーへと向かって行った。
~※~
「か……買って……来ました……」
「ありがとうございます旦那様。それでは、これから朝食をお作り致しますので、少々お待ちくださいね」
使用した時間は僅か五分。俺は荷物を渡した後、再起不能になって玄関に前からぶっ倒れた。
何で? 何で朝からこんな酷い目にばかり合わなくちゃいけないの? 俺が何したってんだ? 唯一の希望だったミコさんに多量の肉体的疲労と精神的疲労を吸い取られるなんて、稀に見る悪夢も良いところだ。
「ん? おいおい大丈夫かにーちゃん。今度はどんな目に合ってそうなったんじゃ?」
しばらく玄関で死に体になっていると、欠伸を漏らしながら階段を降りてきたコヨミと遭遇した。声を出す気力なんてあるわけもないので、脳内でここまであったことを洗いざらい喋ってみた。
すると、コヨミは「ふむふむ」と相槌を打ち、ミコさん達がいるリビングの方を見て苦笑した。
「それはそれは……大人しいと思っていた娘がまさかのダークホースとはな。どうやら、世の中には色々な者がおると言う理論は少しも覆らんようじゃのぅ」
(それはそうなんだが、でも俺がこうなった原因の発端はお前だかんな? 今さっきのことを忘れたとは言わせねーぞコラ?)
「しょうがないじゃろぅ。いちいち萌える反応を示してくれるお主が悪いんじゃ。己の性を恨むんじゃな」
(何で俺が悪いみたいな感じになってんだテメェ!)
現実で叫ぶだけでなく、心の中ででも叫び倒す。このままだとマジで精神的病に掛かって死ぬんじゃないだろうか? 全然洒落になってないんですけどコレ。
「にしても、余程気合が入っておるのか、とても良い匂いが漂ってくるのぅ。これは期待できるのではないか?」
(当たり前だろ。家事マスターのミコさんが本気出してんだぞ? 普段大人しい人程、底知れぬ力を隠し持ってるもんだしな)
「能ある鷹は爪を隠すとな? なんじゃそれ、格好良いのぅ。ワシも何かイカす切り札でも検討しようかのぅ……?」
(全知全能の神様に切り札もクソもねーだろ)
「おい、誉め言葉と貶し言葉がデュエット組んでおるぞ。どんなハーモニー奏でとるんじゃお主は」
(知らねーよそんなこと。それよりコヨミ、お前ミコさん達のこと確認してきてくれねーか? 険悪になると思ってなかった二人が犬猿の仲になりそうになってるから、見ているこっちは不安なんだよ。何するか分かったもんじゃない)
「ほぃほぃ、んじゃちょいと見物してくるとしようかのぅ」
無駄話が終わると、何だかんだで言うことを聞いてくれる神様が、良い匂いが漂ってくるリビングの方へと向かって行った。
それから更に時間は過ぎていき、もう完全に遅刻決定の時間帯にまでなった時、その声が掛けられた。
「お待たせしました旦那様。朝食が出来上がりましたので、リビングの方に来てください」
全てをやりきったからか、ミコさんの顔は清々しいものに変わっていた。そこに不機嫌な様子は微塵もなく、むしろ気分が良さそうに見えた。
……よし、何とか歩けるまでに体力は回復した。俺はようやく立ち上がると、皆が集まっているリビングへと赴いた。
「おっ、復活したかにーちゃん」
「何とかな……って、それよりも……」
既にコヨミとリースは席に付いていて、料理も全てテーブルの上に置かれていた。
まず、この時点で目に付く箇所は二つ。拳を叩き込みたいくらいにウザいドヤ顔を浮かべているリースと、リースの時のような豪勢な料理とは言えない料理の数々だ。
「……まぁ、当然の結果だろうな。料理で私に叶うはずはないのだ。平凡な女としてはそこそこ良い腕をしているのかもしれないが、所詮は平均レベルの領域。上位入りを果たしている私と比べると程遠いな」
「さぁ皆さん、食事にしましょう。旦那様も座ってください」
「…………」
大人の対応として華麗にスルーされるリース。哀れな奴だ。
別にミコさんは怒っているわけじゃない。アレは余裕があるからこその対応力。つまり、相手にするまでもないと言っているようなものだ。
その意図を察してか、リースの表情は険しくなる。コヨミに敵対心を向けるように、今だけはミコさんを敵と認識して目付きを鋭くさせている。
……にしても、これがミコさんの実力だったのか。いや、これは実力として判定しても良いんだろうか?
「それでは、いただきます」
「むほほ~、これはこれで旨そうな物ばかりじゃのぅ。行儀悪いのは自覚してしまうが、箸が迷い箸になってしまいそうじゃ」
この料理を見て、一体何処に目を付ければ良いかすぐに察した。
「ふむっ、では私もいただくとしよう。勝敗は見えているがな」
唐揚げ、はまちの刺身、油揚げの味噌汁、他にも色々とあるメニューの数々。
これらは全て、俺がこよなく愛する好物達だ。
「んん……旨いのぅ……身体が温まるような味じゃ」
「ありがとうございます、コヨミさん」
俺もコヨミに続いて様々な料理を口に含み、味を良く味わえるように何度も噛み締める。
……旨い。はっきり言って、昨日食べたリースの食事よりも断然旨い。依怙贔屓や差別をしているわけでもなく、本当にこの料理は今まで食べてきた中でナンバーワンに輝いている。
「ハッハッハッ。確かに美味ではあるが、やはり私の料理と比べると――」
「違いますよリースさん。分かりませんか?」
「……何をだ?」
なるほど、ミコさんが何を狙っていたのか理解できた。確かに、こいつらの視点から考えたら、その“優先事項”が最も重要な武器となる。
なんだか照れ臭いが、やっぱりミコさんは女性としてとても優れている天使様だったようだな。
「確かに、昨日リースさんが作ってくれた料理と比べると、味や質は劣ってしまっています。ですが、見てください。“旦那様の顔”を」
「……な……に……?」
他人から見たらどんな顔をしているのか具体的には分からないが、少なくとも今の俺はほんわかした表情になっていると思う。
「きっと、リースさんは美味しい物を作ることに拘りすぎてしまって気付かなかったんです。料理を最も美味しくさせることができる調味料の存在に……」
更に気分が高まってきているのか、ミコさんはノリノリでそれっぽいポーズを取り始めた。端から見れば格好良いと言うより……可愛い。
「ば、馬鹿な!? 一体私が何に気付けなかったと言うのだ!?」
「ならば教えてあげましょうリースさん。その調味料の正体とは……すなわち――」
「愛情じゃな。うん、確かにこの料理には愛情が込められておるぞ。この唐揚げなんて、たった一つの肉に愛の神様が三十人ほど住み着いておる」
「はぅっ!?」
『ビシッと指を差して最後の決め台詞!』、というところで、心が読める神様に美味しいところを持っていかれてしまった。
そう……料理だけに……。
「でも凄い能力じゃのぅミコよ。相手を視覚で観察するだけで、相手の好物を知ることができるとは。そりゃ良いお嫁さんにもなれる資格があるわな、うんうん」
「コヨミさん!! 何で全部バラしてしまうんですか!? 折角、旦那様の前で格好良いところを見せたかったのにぃ!!」
席を立ち上がって、泣きながらコヨミにポカポカと殴り掛かっていくお狐さん。俺は無造作にスマホを取り出して、その光景をムービーに撮っていた。
こんなの永久保存に決まってんだろ。撮ったぞ。俺の前で格好良いところを見せたかったと言ってくれたあの台詞も確かに撮ったぞ。良くやった俺、エクセレント的判断力だぜ。
「愛情……そうだったのか……くっ、盲点に引っ掛かってしまうなんて、この私としたことが!」
アレだけ偉ぶっていたリースだったが、ここまで言われてしまっては、自分の敗北を認めるしかない。
リースは悔しさあまりに床に両手をついて項垂れ、最終的にうつ伏せに倒れ込むと、どういう原理か気絶した。
今まで負けたことのない大将軍だからこそ、このたった一度の敗北は精神的に大きな付加が掛かってしまったのだろう。
哀れ大将軍……せめて安らかに眠れ。
「で……でもでも結果的にやりました! やりましたよ旦那様!」
見せ場を取られて落ち込んでいるミコさんだったが、勝敗が決したことによって再び気分は復活し、キラキラと瞳を輝かせながら俺に身を寄せてきた。
「私頑張りました旦那様! だ、だからその……誉めてくれたりしたら嬉しいというか何というか……」
「……そうだね。ミコさんはあの大将軍相手に良く頑張ったよ。よーしよしよし」
「エ、エヘヘッ~♪」
犬をあやすように頭を撫でてやると、ミコさんはふにゃりとした笑顔で幸せそうに笑う。その笑顔を無音カメラでこっそり撮ったことを知っているのは、俺とコヨミだけの話。
「……でも……でもなミコさん」
「…………へ?」
俺は慈愛を込めた笑みを浮かべると――リビングにある時計を指差して言った。
「学校……完っ全に遅刻なんだ……俺の学校、遅刻一回するだけで馬鹿みてぇな量の反省文を書かせる鬼校なんだよね……」
「……………………」
この後、ミコさんは部屋に閉じ籠ってしまい、その顔を拝むことはなかったという……。




