始まりは頭沸いた祈祷から
時間というのはあっという間に流れてしまうもので、小学生、中学生だった頃が今となってはもう、古い過去の話のように思えてしまう。
そしてそれは高校生も同じで、気付けば俺もとうとう高校三年生。青春を送ることができる最後の年に至ってしまった。
「ハァ……」
今まで俺は何をしてきたのかと、眉間を摘まみながら軽く過去の思い出を振り返ってみる。
野郎共と色んな所に行った。
野郎共とドンチャン騒ぎした。
野郎共と共に女子にシバかれた。
野郎共と――野郎共と――野郎共と――
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!! むっさ苦しいっ!!」
ドンと机を叩いたはずみに置いてあったコップの中身が溢れてしまい、余計に心穏やかではなくなる。
おまけに床に敷いてある絨毯に炭酸飲料が染み渡ってしまうもので、これはもうベトベト絨毯確定だろう。
……いや、そんなことはどうだって良い。俺は繊細な清潔病者じゃないし、今はそんなことよりもだ。
いいのか俺? 俺の青春これでいいのか? もっとこう……他にやることがあったんじゃないのか?
いや、あるに決まってる。男子高校生の誰もが考えたことがあるであろうことが一つだけある。
ズバリ言ってしまうと、『彼女』の一人も作らないで高校を卒業するのは非常にマズイのではないだろうか?
気のせいなんかじゃない証拠に、彼女というキーワードを心の中で呟いただけで、俺の中に眠る危機感が高まっているのを感じてしまう。
なら作れば良い、という話で済むことなのだろうが、それは女タラシか根性がある奴だけが言えることである。
そう易々と彼女が作れるほど、俺は積極的になれる男じゃない。
違う言い方をすれば、俺は奥手と言う事だ。
言い訳がましく聞こえてしまうだろうが、決してビビリだとか、優柔不断だというわけじゃない。
以前に何度も脳内シュミレーションをしたことがあったが、それらは全て俺のネガティブな思考回路によって「キモい」だとか「は?」だとか「いや君と私ってそういうのじゃないし」等とのように、ことごとくフラれてしまっていた。
ただの脳内シュミレーションだったというのに、しばらく立ち直れなくて寝込んだこともあった。
でも「それは俺達も同じだ」という悲しき言葉をくれた野郎共に励ましてもらったお陰で回復した。
今にして思えば、あの頃はマジで頭が沸いていたとしか思えない。
惨めだなんてことは分かってる。でも俺にはこんなことをするしか選択肢がないんだよ!
邪念を振り払うように頭を何度も左右に振り、ベトベトになった絨毯を放置して押し入れを開くと、中に入っている祈祷具の数々を取り出して着替えを済ませる。
自室から出ていき、屋根裏から屋根上に上がって月が輝く夜空を見上げ、全身全霊の意思を持って祷りを始めた。
「神よ! もし本当に神が存在するならばどうか! 俺に心優しき嫁――彼女を! そして心地好い生活を! 更には眠たくなる程に癒される時を! お願いします! 本当にお願いします! いやホントにマジで! 俺のものなら何でも捧げる所存なんで何とぞお願い申し上――」
「うっせぇ!! 近所迷惑だろーが!!」
「はいごめんなさい!!」
……こんな姿を惚れた女に見られたらどう思われるだろうか?
いや、そんなの分かりきっている。間違い無く「キモい」と言われて終わりだろう。
それこそ、脳内シュミレーションの彼女達のように冷たい視線を向けられて。
止めよう。そしてもう諦めよう。この世には幸福な人間と不幸な人間がいると言うし、それでも俺はまだ平凡な生活を過ごせているだけ幸福だ。
そうだ、これ以上の幸せを願うそれは烏滸がましい行為だったんだ。
心が折れそうになりながら白目を剥いて力無く笑い、世知辛い世の中にクソ食らえと思いながら、屋根裏から家の中に戻っていく。
そして次の瞬間――目を疑う出来事が意図せずして巻き起こった。
ドガァァァンッ!!
「ぬぉおお!?」
突如、その非現実的な爆音が近距離で鳴り響いた。
それは、空から屋根の上に何かが落下して来た音だった。
「……なんだこれ」
最悪なことに、正体不明の謎の物体のお陰で屋根には見事な大穴が開いてしまい、不幸にもその大穴は俺の部屋に繋がってしまっていた。
なんだというのだ。まさか俺の祈祷のせいで神様がイラついたのか?「んな願望なんざいちいち聞いてちゃ世話ねーよ馬鹿野郎」ってか?
でもだからってこれはあんまりでは? ストレス発散に器物損害とか、一体何様の――あぁうん、神様のつもりか。
ひっでぇ神様がいたものだ。その顔を一回拝んでみたいものだ。
なんて悠長なこと考えてる場合でもない。どーすんのこれ? 何をどうしたらこうなるの? もし説明を求められたら何も言えないんですけど?
一体何が落ちて来たのかを確認するべく、急いで屋根裏から家の中に戻って自室へと引き返していく。
そして部屋へと続くドアを開けると、ハッキリとその姿を視界に捉えた。
絨毯が真っ赤な液体に染まり、今にも死にそうな人が痙攣を起こしてぶっ倒れている姿を。
「何これ殺人現場!?」
「ゴフッ……。ふ……不時着するなんて……。運が悪すぎます……」
かなりの血の量にも関わらず、その女の人は白目を剥きながらもまだ息はあるようだった。
すると、死にかけの老婆のように震える手を俺に伸ばしてきた。
「どうもです……という挨拶の前に……。どうか牛乳を……牛乳をください……。じゃないと私……死……」
「わ、分かったから! 分かったから下手に動くな! 心配半分恐怖半分で心が渦巻いてんだよ!」
血塗れでゆらゆらと動かれるとゾンビの類いか何かにしか見えない。
というか、そこで何で牛乳を所望するのか意味が分からない。
それになんか変な耳が生えていたのは気のせいだろうか?
少しずつ冷静さを取り戻しながら台所へと駆けていき、牛乳パックを持って部屋に戻って来ると、大分落ち着いて周りが見えるようになった。
やっぱり部屋の中は壊滅的だ。どうしてくれようこの有様。
てなことよりもまずはこの人の救出だ。部屋の破損より一人の命だ。
「ほら飲め! それと寄せ集めの医療道具も――」
「いえ、十分です……」
彼女は牛乳パックを受け取ると、小さな口でゴクゴクと豪快に牛乳を飲み込んでいく。
そして俺はまた、様々な未知の体験を目の当たりにした。
まず、彼女にはやっぱり妙な耳が生えていた。
更には耳だけでなく、尻尾まで生えていた。
挙げ句の果てには、牛乳を飲んでいく内に傷が徐々に完治されていった。
摩訶不思議なことばかりを目の当たりにして、幻を見ているんじゃないかとさえ思ってしまう。
「よし、治りました。後はこの絨毯を……」
瞬く間に完全回復を成し遂げた彼女。
すると今度は一本のフサフサした尻尾を用いて、血塗れになっている絨毯を拭き始めた。
数分後にはあら不思議、絶対汚れが取れないであろうと思っていた絨毯が、新品同様の商品に早変わりしていた。
通販に出ていたら真っ先に買われるであろうその尻尾。びっくり仰天は免れなかった。
「これで全て元に戻りましたね。良かったです」
「いや、屋根は粉砕されたままなんですが」
「……も、物にはいずれ寿命というものがあることを知っていますか旦那様?」
「誰が旦那様だ! 都合の良い解釈で誤魔化せると思うなよお前!?」
「あぅ……ご、ごめんなさい旦那様……」
「いやだから……」
いや待て落ち着け俺。そんなことより聞かなくちゃならないことはもっと他にあるはずだろ。
「とりあえず、お前は誰だ。場合によっちゃ警察沙汰なんだが?」
「誰って……何を言っているんですか旦那様? 私を呼んだのは旦那様ご自身じゃないですか」
「俺はお前のような可愛……妙ちくりんな異生物を口寄せした覚えはない。親指から血が出てないのが証拠だし、巻物に血文字で名前を書いたこともない」
呼んだのは俺? 何を馬鹿なことを言っているのだろうか? 俺はただ彼女が欲しい等々と言っただけであって、他には何も……何も……。
「だって旦那様は言ってたじゃないですか。『心優しきお嫁が欲しい!』と」
「んんゴホンッ!!」
聞かれてた! この人、俺の叫びを聞いてやがった!
おまけに『彼女』じゃなくて『嫁』というのが本音だという、あの突っ掛かり部分もちゃんと聞いちゃってた!
あぁもう最悪だ! 恥ずかしすぎて悶え死にそうだよ俺ぁ!
その場に倒れて頭を抱えながら右へ左へとゴロゴロ転がり周り、何度もタンスと壁に顔をぶつけて、顔面から伝わる痛みを感じて泣きそうになる。
「落ち着いてください旦那様! 慌てる気持ちは分かりますが、決して私に害がないことは保証いたします!」
「既に屋根壊されて害は及んでいるんですが!?」
「そ、それに関しては申し開きもありません……。で、ですが!」
一度落ち込みながらも彼女はポンと自分の胸を叩いて立ち上がると、壁にもたれ掛かっている俺に身を寄せて来た。
「私はこう見えて家事全般は得意中の得意です! 旦那様が望むことはできるだけ御奉仕するつもりですし、迷惑を掛けた分も頑張るつもりです!」
「急に女子力アピール!? それは凄い助かるけども、その前に話が突拍子過ぎて思考回路が追い付かないんですけども!?」
それより顔が! 顔が近くて目のやり場に困る!
この人なんか人間じゃないっぽいけど、普通に綺麗で可愛い顔してるから目のやり場に困るんですけど!
「お願いです旦那様! どうか私をここに置いては貰えないでしょうか!? 何だってやります! 旦那様が望むことであれば何だって……。で、ですから……グスッ……」
何故そこで泣き始める!? ズルいよ! 女は泣けば事が全て有利に動くと思ってさぁ?
実に憎たらしい魔性の女……と言いたいところだが、この人はそんな腹黒そうな人には見えないのが正直な感想であった。
「わ、分かった分かった! 居て良いから! もういいから泣くのは止めよう? 何かこっちが悪いことしたみたいで心が傷む一方だから!」
「グスッ……ほ、本当ですか?」
「本当本当! こんな時に嘘つくほど俺の性格は歪んでないから! 取り敢えず涙を拭いてくれ頼むから……」
「ありがとうございます……」
彼女は身に付けている純白のエプロンで涙を拭くと、ふぅと一息付いてから三指を立てて床に正座し、俺に向かって頭を垂れた。
「それでは旦那様。不束者ですが、これからどうぞ宜しくお願い致します」
「う、うん……宜しく……」
狐のような耳と尻尾と、腰まで伸びた鮮やかな金髪に、吸い込まれそうなクリッとした碧眼。
オレンジ色の狐絵プリントTシャツに白のショートパンツを履き、上から純白のエプロンを身に付けた紛うことなき美少女。
これが彼女との出会い。そして、これから俺が様々な未知との遭遇をしていくことになる開幕の夜となった。