逃げる2
「な、なんでよぉ」
涙が頬から幾筋も零れ落ちる。気合を入れたメイクが汗と涙でぐちゃぐちゃだ。
せっかくの楽しい休日の筈だったのに。
みあは口を開けて呼吸をする。こんなにも真剣に走ったことは今まで無かった。
胸が痛い。心臓が今にも破裂しそうだ。みあは足を止めたくなった。でも、出来ない。
いくらみあでも 化け物とお友達にはなりたくない。
荒い息遣い。我武者羅に走り、みあは自分が今どこにいるのかが分からなかった。
どこかに隠れる場所はないだろうか?
そうは言っても、辺りは住宅街。家と塀と電柱とゴミ捨て場くらいしかない。
どこかの家に逃げ込もうかとも思ったが、チャイムを鳴らし、家人が出てくる合間に捕まってしまったら。そう考えたら、怖くて立ち止まれない。
足がもつれる。咄嗟にみあは短い悲鳴を上げるも、何とか態勢を立て直せた。
もう無理だ。絶望とあきらめがない交ぜになって、みあの心に沁みこんできたとき、家と家の間に小さな森が見えた。
そこなら隠れられるかもしれない、と彼女は一筋の希望を見つけた。
しかし、森だと思っていたそこは、周りを木々で囲まれた公園だった。
隠れられる場所はあるだろうか?
一瞬、不安になったが、みあはもうこれ以上走れなかった。
足はがくがくして、太ももは熱をもったように熱い。これ以上走れば、きっとみあの心臓が破裂して死んでしまう。
藁にも縋る思いで、みあは公園の中へと駆け込んだ。
ペンキの剥げた遊具が寂しそうに点在している。
ブランコに滑り台、鉄棒。中央付近にかまくらのようなオブジェ。鉄網のゴミ箱にはペットボトルが一本入っているだけだった。
外灯のすぐ近くにベンチが並び、手入れをされている植込みが花を付け、園内の周りを飾っている。さらにその周りに背の高い木が並んでいる。みあにはその、のっぽの木々が森に見えたのだ。
ふらふらする体を叱咤しながら、みあは公園の中央辺りまで歩いた。隠れる場所がかまくらしか思いつかなかったからだ。
危なげな足取りで、少しずつ前に進む。
もう、歩けない。
そう思った瞬間、足が縺れた。
「きゃ!」
今度は持ち直す事が出来ず、重力に従って地面に倒れこんだ。その拍子に、カンカン帽が頭から落ち、両腕で顔を庇ったが、右の人差指の付け爪が剥がれた。
「いたっ……」
膝と爪から鈍い痛みが起きた。みあの瞳から新たな涙が零れる。
「も。なんでみあが、こんな目に合わなくちゃいけないのぉ」
足の裏が痛くて熱い。
目の前には、かまくらのオブジェが、あとほんの数メートル先にある。それでも、みあには長くて歩けない距離だった。
みあは泣きごとを漏らしながらも、上半身をなんとか起こして振り返った。
追いつかれたら、と不安になったからだ。
乱れた呼吸の中で、化け物の気配がないか探る。
不思議な事に、化け物の存在は一切感じられなかった。みあの目には煌々と輝く外灯に集る虫や、星が遠くに見える夜空。それに、公園の向こうにある、家の明かりしか見えなかった。
「いなく、なったの?」
どこか、茫然とした呟きだった。
暫く、辺りを見回しても、化け物の姿は一向に見えない。
みあの中に次第に怒りが湧いてきた。
可愛いみあをこんなに走らせておいて、追っかけても来ないなんて、意気地のない化け物だ、と。
呼吸が落ち着いたみあは頬を膨らませ、上半身を元に戻し、両腕に力を入れて立ち上がろうとした。 その時、ふわっと生臭い匂いがした。
みあは何気ない、いや、何の疑問も持たずにその臭いの元を探した。
元は直ぐに見つかった。うつ伏せの恰好で、腕だけで上半身を支えて、みあは右を向く。彼女の右側の方向。数メートル先のベンチに誰かが俯いて座っている。
さっきまで、誰もいなかったはずなのに。
みあは器用に首を傾げた。
座っている者はちょうど外灯の光が当たらない場所にいた。暗闇の中、俯いていた顔がゆっくりと起きる。
彼女は息を飲んだ。
その者の目は赤かった。
「あ、あぁ……」
か細い悲鳴。
座っていた者が、足を踏みしめて立ち上がり、一歩、また一歩と近づいてくる。
みあは動けなかった。
小さく綺麗な白い歯がカチカチと鳴り、腕の力が抜けて、顎から地面に落ちた。
痛みと恐怖で涙が止まらない。
座っていた者は人ではなく、化け物だった。
みあは自分が死ぬかもしれない、と言葉で思った。
みあにとって、死とは薄っぺらい言葉だった。日常で気に入らない事があれば「死んじ
ゃえ」と簡単に言えるほど、軽い言葉だ。それがどうだ。今、この瞬間、自分の死を言葉で思っても、みあにとって言い慣れすぎた言葉は軽さを持ち、自分の死という行為さえも軽くなっているような気がする。
自分の言葉で自分が軽い人間のように聞こえて、みあは歯噛みした。
(誰が、簡単に死んでやるもんですか!)
みあは自分を奮い立たせるように強く思い。きっと化け物を下から睨んだ。
化け物は、みあのすぐそばまで来て、立ち止まった。
見下ろしているその表情は赤眼を輝かせている以外、すとん、と抜け落ちているような無表情だが、 何をしているのだろうこの食べ物は、と言いたげな雰囲気だった。
化け物に馬鹿にされている。その事に気が付いたみあは、震えも恐怖心もどこかに吹き飛んだ。
いつだって、みあは可愛いみあが一番じゃないと気が済まないのだ。
「み、みあに近付かないでよぉ。みあに何かしたら、ただじゃおかないんだからねぇ!」
左肘を曲げ、自分の体を支えて上半身を浮かせた。そして、右腕を振り上げ、カラカラになった喉から絞り出すように、化け物に文句を言う。
不思議そうに眺めていた化け物は、みあの声に触発されたのか、緩慢な動作で腰を屈め、彼女を捕まえようとする。
みあは反射的に目をきつく瞑った。
ほんの少しだけ化け物が、彼女の柔らかい腕に触れた。
かさついた、まるで、はく製になった人間のような指の感触。
気持ち悪い!
そう思った刹那、公園に風が吹いた。
「ガハッ」
食道から絞り出されたような声がする。続いて、どさっ、と重たいものが少し離れた場所で落ちる音がした。
みあは音が気になり、恐る恐る目を開く。顎や膝に鈍い痛みが続くが、自分が投げられた訳ではないと分かり、ほっと息を吐き、顔を上げた。
化け物が、何か大きな力に弾かれたように、数メートル先の方で仰向けになって倒れていた。
みあは 何が起こったのか分からず、大きな目をさらに大きくして、小首を傾げる。
涙に濡れたその表情は幼い子供のようだった。