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Such is life  作者: 宋太
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逃げる

 みあは、たぶん生まれて初めてといってもいいくらい長い距離を、全力で走っていた。

実際はみあがそう思っているだけかもしれないが、確実に言える事は、みあがすでに十分近くは逃げ続けている事だ。

(こんなはずじゃ、なかったのに……)

 みあは悔しそうに、唇をかみ締めた。


 

今日はせっかくの休日。ちょっと遠出だったが、電車で一時間かけて渋谷にやって来た。いろいろなお店をウィンドウショッピングして、小さい花柄があしらわれた、可愛い夏服のワンピースを買った。

 初夏が始まったばかりだというのに今日はとても暑かった。

 歩いている途中で大人な雰囲気を漂わせている和風喫茶を見つけたみあは入ることにし、そこでキンキンに冷えたガラスの器に、黒蜜たっぷりのアイスクリームあんみつを食べた。

 彼女は他の女子高生と比べると、可愛い部類に入る。そう断言できるくらい、クラスの男子に人気があった。

 自分の事をみあと呼ぶが、本当の名前は小森美奈。小さい頃から、少し下っ足らずの話し方が抜けない。それが可愛い、とクラスの男子が言うので、みなはみあと自分を呼ぶ。

 ウェーブのかかったショートの髪は紅茶味のキャンディみたい。ぱっちりとした二重はつけ睫毛を施し、アイラインで強調されている。薄い化粧にさくらんぼ色の唇はぷるんとしていて、みあのすべてが甘いお菓子みたいで美味しそうに見えた。

 いっぱい遊んで大満足したみあは、帰りの電車で笑みが止まらなかった。そんな、幸せいっぱいの笑顔に、乗り合わせた向かいの座席の端に座っていたサラリーマンのおじさんが戸惑ったように顔を赤くしていた。

 みあは電車のドアにもたれかかり、窓越しに顔を赤くしたおじさんと視線があった。さらに、にっこり笑うとおじさんはあたふたと視線を彷徨わせた。その様子に、みあは笑みを深くした。

 今日はいい一日だった。鼻歌を歌いたくなるような高揚感で家の最寄り駅を降り、暗くなっている空に、星でも見えないかと見上げながらの帰宅途中。それに遭遇した。

 最初、みあは自分の耳に入ってきた音を、さして気にも留めなった。

 わくわくした心が先だって、音が脳に届く前にかき消してしまっていた、と言った方が正しいかもしれない。

 じゅるじゅる、という音がはっきり聞こえてきたのは、ブロック塀で囲まれた住宅街の角を曲がった時だった。

「なに?」

 立ち止まり、左手に持っていた、籠のバッグとブランドロゴの入った紙袋の取っ手を握りしめた。

 不意に、自分がこんなに暗い場所を歩いていたっけ? と、疑問と一緒に恐怖が沸き起こった。

 一つの疑問が生じると、次々と可笑しなことに気が付いた。

 どうして、変な音がするんだろう。

 どうして、生活音が何一つしないんだろう。

 車の走行音を最後に聞いたのはいつだっけ?

 みあは湯水のように湧きあがってくる恐怖から、自分を守ろうとするかのように、バッグと紙袋を胸の前で抱きしめた。

「へ、平気だもん。みあのおうちはすぐそこだもん」

 自分に言い聞かせるように、小声で言った。その声は、直ぐに夜空に消えてしまった。

 今日は渋谷に行ったから、ファッションに気合を入れた。グラディエーターサンダルに、フリルつきのショートパンツ。シックな襟付きTシャツに腕には幾つもの細い腕輪をつけ、赤いリボンがつけられているカンカン帽を被っている。可愛いけれど、少し大人っぽさを演出してみた。 

 みあは自分の恰好を思い出して、はっとした。

 もし、すぐそばにいるのが変態だったらどうしよう。

 みあは可愛いから、襲われるかもしれない。そう思いいたった瞬間。変態に引きずり込まれてしまう自分を想像してしまい身体が、かっと熱くなった。

 みあは男の子の友達の方が多い。どういう訳だか、クラスの女の子はあまりみあと遊んでくれない。それはきっと、男の子がみあを可愛いって褒めてくれるからだと、みあは確信している。

 みあが可愛いのは当然のことなのに、どうしてそんなことを一々気にするんだろう?

 みあにとって、女の子は謎だ。

(みあは怖がりじゃ、ないもん……)

 きゅっと愛らしい唇を噛んで、みあはそのまま真直ぐ歩き出す。

 頭の中には、変態にあったらどういう目にあってしまうんだろう。と、不安と禁忌の甘い誘惑が駆け巡った。

 腕を掴まれて、お気に入りのTシャツをいきなり破かれてしまうんだろうか。

 それとも、ショートパンツを脱がされてしまう?

 みあの心臓がどきどきうるさく脈打った。

 もう少し、あとほんの百メートル先の角の向こう側が、何かを啜るような音の発生源だ。

 みあは乾いた喉をごくりと鳴らし、一歩ずつ慎重に、そっと、なるべくそっと足音をたてないようにして、近づいていく。

(一体、何をずるずる言っているのぅ?)

 好奇心が疼く。ほかほかと熱くなっていく体を自覚しながらも、みあは建物の角に立った。

 そうっと、音のする方へ顔を覗かせた。

 四、五メートル先に何かが蠢いている。

 ちょうど、みあのすぐ側にある電柱と標識の柱が邪魔で、誰かが蹲っているようにしか見得なかったせいで、始めは何か、分からなかった。

 自分の思い通りに行かないと直ぐに、爪を噛んでイライラしだす癖があるみあは、この時もせっかくのマニキュアとストーンできれいに飾られている付け爪を、白くて小さい歯で噛んだ。

 正体が知りたくて、少しの間、息を殺して窺っていた。

 蹲っている人影は背後をみあに向けていたが、時折動く頭が一度持ち上がり、短い髪が見えた。色は分からないがズボンを履いている。

 恐らく男だろうとみあは当たりをつけたみあは、にんまり笑って、何の気負いもなく建物の角から出た。

 男ならもし何かあっても、可愛いみあをいじめたりはしないだろうという打算があったからだ。

 それが、みあの誤算だった。

「あの~。こんばんわぁ。なにしているんですかぁ? みあ、気になっちゃって、来ちゃいましたぁ」

 えへ、と軽く舌を出してはにかむように相手に笑いかけた。すると蹲っていた男は、何かを止めた。それと同時に、啜るような音が消える。

「あのぉ……」

「…………」

 みあの声に、男は対した反応を見せず、じっと蹲っているままだ。

「………お返事できないんですかぁ?」

「…………」

 男は反応を返さない。

 みあは可愛らしくため息を一つ吐いた。

 可愛いみあに何の反応も見せない男に、彼女はさっさと見切りをつけたのだ。

「……もしかしてぇ、具合が悪かったりするんですかぁ? だったらぁ、みあ、誰か人にお願いしてきますけどぉ?」

 みあの可愛さを分からない男とこれ以上話す必要もない。

 さっきまでの興奮は一瞬で冷え、白けた感情が胸中を占めた。が、どこに人の目があるか分からない。みあは念のため、小首を傾げて、可愛らしくもう一度だけ声をかけた。

「……」

 男は答えない。

「もう! みあ、もう行っちゃうから。止めったて、遅いんだからね!」

 べーだ、と舌を出す。それも、みあが一番かわいく見える様に。

 ぷんぷん、と口で怒りながら、踵を返して帰ろうとした時だった。

 何かが落ちる音がした。みあは音に反応するように、視線を向けた。

 ゆっくりと蹲っていた男が、立ち上がろうとしている。その時に、何かを落としたのだ。

 みあは首を傾げた。

 なんだか分からないが、落としたものは大層大きいものに見えた。

 男は立ち上がり、そして、みあの方へ酔っ払いの様な千鳥足で近づいてきた。ちょうど、みあと男の距離が一・五メートルくらいの距離になった。

 二人の間には、チカチカと切れかかった外灯が一本立っている。

「あのぅ。なんですかぁ?」

 みあはここでようやく、相手が得体のしれないものではないだろうか、という考えが出てきた。

 一歩後ずさり、止まっていた恐怖が決壊して溢れ出てきた。

「ちょ、ちょっとぉ。みあ、おまわりさん呼びますよぉ?」

 男はみあの言葉を聞かず、一歩ずつ近づいてくる。

「……ひっ!」

 外灯に照らされた男を見た瞬間、みあの喉は引きつけを起こしたように震えた。

「あ、ああぁ……」

 普段の彼女の声とは似ても似つかない、老婆の様なしわがれた声を出して後ずさる。

 みあは見てしまった。

 男は、確かに男だった。しかし、みあの知っている人間の男とは大分違う。

 目は毛細血管が破裂したのか、真っ赤に染まり、皮膚は血の気がなくぼろぼろ。服はワイシャツにスラックスというサラリーマンの姿だったが、ところどころ切れ、まるでゾンビに見えた。

 なにより、みあを驚かせたのは、半開きの口から二本だけよく見える、光沢のある真珠色の尖った犬歯。それと、口の周りの黒くなりかけた赤い色。

 後ずさりながら、みあの視線がこの男の落とした物体に向かった。

「うそっ!」

 無意識に発生した言葉だった。

 外灯の明かりからは二メートルほど離れていたが、夏に差し掛かろうとしているこの時期。きらめく様な月明かりと、夜空は昼の光を吸収しているのか、まだほんのりと明るさが残っているおかげで、薄暗いがシルエットが判別できた。

 それは、みあには人に見えた。目を凝らすともっとよく見える。

 スカートをはいているのが見えた。女性のようだ。足は左右とも膝からくの字に曲がっている。髪が縦横無尽に顔に掛り、どんな表情をしているかは分からなかった。ただ、力なく投げ出された腕が嫌に白く見えた。

「な、なんでその人倒れてるのぉ?」

 怯えが言葉を震わせる。涙が目元に溜まってくるのが分かる。

みあは何かを否定したいのか、緩く何度も首を振り、近づいてくる男にもう一度視線を戻した。

男の姿をした化け物は笑うことも怒る事もない。ただ、赤く染まった目は視点があわないのか、ゆらゆらと左右に揺れ、ゆっくりとただ、近づいてくるだけだった。

「こ、来ないでよぉ……」

 みあは力なく言い、後ろに下がる事しかできない。

 化け物がみあに手を伸ばした。次の瞬間、みあの中に蓄積されていた恐怖が一気に全身を駆け巡った。

「い、いやぁああぁぁ!」

 持っていた荷物を化け物に投げつけ、みあは踵を返して走りだした。

 男は投げつけられた荷物から自身をかばうような仕草は一切せず、逃げていく彼女を赤眼で追いかける。

 じっとしていた。ただ、じっとそこに立ち、男は遠ざかっていく彼女を合わない視線で見ていた。

 男は空腹だった。先ほど何かを口に入れた覚えはあるのに、まだ減っている。まるで、永遠に続くような飢餓感が絶えず、男を襲っていた。

 一体、いつから腹が空いているのか?

 男の記憶にはその問いに対する答えが思い浮かぶことはなかった。

 飢えを満たしたい。それだけが、男を動かす気持だった。

 ふと、一度だけ赤い目が彼女の姿をはっきりと捉えた。

 アレハ、タベモノダ……。

 本能が教えてくれた答えに、男は歓喜の咆哮を上げる。

 こんな所に、空腹を満たすものがあったなんて、と。

 男にとって、今いる場所はどうでもよかった。

 閑静な住宅街の筈なのに、人の出す様々な音が聞こえることもなく。虫も鳴いていない。自転車で通るおじさんもいなければ、犬を散歩させるおばさんもいない。それらすべて、男にとってどうでも良いことだった。

 何よりも、食事が先だ。

 男はもう一度。今度は唸り声から咆哮し、食べ物を追いかけることにした。

 虚ろだった赤眼に爛々と光がともり、男は駆け出した。

 男が走り去ってから、数秒後。みあが覗いていた角の塀に囲まれている家の屋根から、人影が二つ下りてきた。

 詳しく言えば、一つの人影にもう一つの人影が米俵のように持ち上げられて下りてきた。

 米俵の人影が担いでいた人影の肩から降ろされる。

 担がれていた人間は片手に長細い棒の様なものを持っていた。それを倒れている女に近づき、胸の辺りに突き刺した。

 女は刺されたショックで全身を跳ね上げ、四肢を痙攣させたと思ったら、段々と縮みだした。二秒後には、二十センチ位の顔のない人形になってしまった。

 突き刺した人影が、腰を屈め人形を回収する。

 その間、もう一人はずっと化け物が走って行った方向を見ていた。

 回収した人形を懐に収めた人影が、もう一人に近付く。

 そして二人は、同時にため息を付いた。


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