episode1-3
『やればできるじゃないか。さすがだなお前は』
これは夢だ、とセルマはそう認識した。見覚えのある景色だったからだ。普通、夢の中でそれを夢だと本人が認識すれば夢は覚める。だがまだこの夢は、覚めない。それどころか奥に奥に送り込まれている。
『やはりお前の能力は素晴らしいな。アイツも自分の実験が成功してさぞかし喜んでいるだろう』
実験? とセルマが問おうとしても夢の中の自分の口は動かなかった。その代わり、自分の目はハンスの顔を見つめる。夢の中のハンスは今の彼とは外見が全くと言っていいほど違う。髪を上げてはいるがまだ後ろ髪をまとめてもいなければ前髪で左目を隠しておらず、不似合いな白い眼帯をしている。ということはここは過去の自分が過ごした過去の空間なのだ。そうセルマは判断するしかなかった。
『そんな悲しそうな顔をするな。泣いた跡が残ってひどい顔だぞ』
『…………』
『っ、ククク……こうして見てみると女みたいだな』
『ッ!』
ハンスはセルマの顔を覗き込むと彼をからかう。それがセルマ自身はどうしても許すことができなかったらしい。ハンスから侮辱されたのが耐えられなかったのか、夢の中の自分は唇を噛むとハンスを押しやってその先に進もうとした。
『(早く部屋に戻りたい)』
自分がそう思ったことにセルマは疑問を抱いた。部屋だなんて、まるで自分の家のようではないか。だが、現在の自分の抱く疑問よりも夢の中の自分が抱く焦燥感の方が強かった。早く部屋に戻らなければと、出来るだけ早足でハンスの前を通り過ぎようとするも突如視界が回る。次に目に入ってきたのは先程まで自分が立っていた床だった。夢の中の自分は痛みに呻いていた。ハンスに転ばせられたのだ。
『く…………』
『今日はまだ部屋には帰せない。やってもらうことがあるからな。……その前に』
ハンスは腕を伸ばすと転んだままのセルマの片腕を掴んで引き上げる。
『!』
『今のお前の態度が気にくわない。また一から説明しないと分からないようだな』
『え……』
悪寒がするのをセルマは感じた。逃げなければと手足を動かそうとするが、夢の中の自分は動いてはくれない。引きずられるようにしてセルマはとある部屋の前まで連れていかれた。何故かは分からないがセルマはその部屋にとてつもなく恐怖を感じた。自分の視界が揺れる。抵抗することも出来ずただセルマはハンスに向かって泣き叫ぶ。
『あぁ……嫌だ……ッ! 嫌だッ! ごめんなさい……ッ! 言うこと聞く、から……ッ、ああッ、嫌だああああッ!!』
自分の視界はそこでブラックアウトした。
「う…………」
重い瞼を開け、セルマは少しだけ残る頭痛を感じながら辺りを見渡した。まず、ここが建物の中ということは理解できた。だがセルマは何故自分がベッドに寝かされているのかが分からなかった。ここはどこなのだろうか。もしかして夢で見た場所と同じ場所ではないのだろうか。もしそうならば嫌だ。そう思ってセルマが上半身を起こすと、すぐ隣から声が聞こえてくる。
「お、目ぇ覚ました。大丈夫か?」
「バルド……?」
「よかった。ここに連れてきてからずっと魘されてたから心配したぜ」
ここにいたのがバルドで良かったと、セルマは安堵する。バルドはセルマが起きたことに気づくと安心した様子でわしゃわしゃとセルマの頭を撫でた。ここが夢の中と同じ場所でないことは分かったが、どういう状況なのかがさっぱり分からず、セルマはされるがままとなる。
「ここは……。オレはどれくらい眠ってたんだ?」
「ここは二階の俺の部屋だ。一階はプレイヤーが集まる酒場になってる。捕まる心配はないからゆっくりしろよ。そうだな……ざっと三時間ってところかな。何しても起きなかったんだぜ?」
セルマは部屋にある窓を見やる。もう日が傾き、空は紫に染まっていた。しまった、と思う頭は今のセルマにはなかった。ハンスと会ってからさまざまなことが起きている。普段見ない夢を見たことが何よりの証拠だ。セルマの頭の中はそれでいっぱいになっていた。そしてセルマは気を失う前のことを振り返り、気づいた。
「……オレは、気を失ってたのか」
「おう、気を失ったっていうよりかはシュナイダー指揮者に眠らされたの方が近いけど。お前さ、意識失う直前にシュナイダー指揮者のこと先生って言ってたぞ。覚えてるか?」
「先生? オレが、そう言ってたのか?」
セルマは頭が少し痛むのを感じた。反射的に手が頭へと向かう。バルドはそんな彼を見て三時間前のことを思い出した。
「大丈夫か? また頭が……」
「……大丈夫。思い出せそうな気がするんだ」
「思い出せそう?」
セルマはバルドの問いには答えなかった。代わりに沈黙がしばらく部屋を支配した。先生、先生とセルマは自分の頭の中で何度もそれを反芻する。確かにこの呼び方には、記憶がある。オレは、知っている。やがてセルマは目を閉じると小さく頷いた。
「……そうか、先生か」
「シュナイダー指揮者との会話から気になってんだけど……お前、もしかして記憶がないのか?」
「ああ……ほとんど」
「ほとんど? マジか、それは大変だったな。話しづらいだろうけど、お前が良ければ教えてくれよ。悪いようにはしないからさ」
「……ここまで付き合わせてしまったんだ。ここまで運んでくた礼もあるし、話すよ」
ふう、と息をつくとセルマはバルドの方へ顔を向けた。今までセルマはこの類の話になると相手が誰であろうと話をそらしてきた。だが、記憶がないと言ってすんなりと受け入れてくれたバルドなら信じてくれるかもしれないと思ったのだ。
「一年前……オレはどうしてか、ハンスから逃げてた。それで、逃げた先にアイツがいて、アイツと戦って……負けて、殺されたかと思ったんだ。でも、意識が戻って……生きてたまでは良かったけど、記憶がきれいさっぱり抜け落ちてた。オレの中に残ってたのはセルマという名前と、意識を失う前のハンスとの会話だけ。アインザームって名字だって、血塗れで倒れてたオレを助けてくれた人から譲ってもらったんだ。……記憶を失ったまま生きていくのが嫌で、それならハンスに会いに行くのも手だと思って、アスガルデに来た。頭が痛くなるのは、何かのきっかけで記憶を思い出そうとした時だ。決まってそうなる」
そこまで言って、セルマの頭の中にはかつて通っていた学校でハンスと自分が会話する風景が浮かんだ。セルマは思わず目を見開く。そのまま二、三度瞬きをした。間違いなく自分の記憶だったからである。
「ああ……でも、そうだった。アイツはオレの先生で、オレはアイツの生徒だった」
「おいおい、無理はするなよ? はぁあ、ようやく話が繋がったぜ。記憶を取り戻しにきたのかあ」
「その通りだ。オレは自分を知りたくてここに来た。記憶が消えているのはおそらくアイツのおかげだと思ってな」
「なるほど。ということはシュナイダー指揮者はお前のことを詳しく知ってるわけだな?」
「そういうことになる。だから、アイツに会えば全部分かると思ったんだけどな……」
やれやれ、とセルマはため息をついた。元より簡単な旅ではないと確信していたものの、現実は彼の想像以上の厳しさを突きつけてきた。思っていたよりも長く時間がかかるかもしれない、とセルマは思った。それにあの時のハンスの対応を見る限り、彼と自分は薄い関係ではないということも理解していた。世の中には知らぬが仏という言葉があるが、よもや自分の場合はそのようなものなのだろうか。だがここまで来たからには全てを知りたい。厄介な状況にもう一度セルマははあ、とため息をつく。
「お前がいいって言うなら……行ってみないか?」
バルドは真剣な面持ちになるとセルマにそう言った。だがバルドからの提案の意図が分からず、セルマは首を傾げる。
「どこに?」
「多分シュナイダー指揮者は、クラウス邸にいる」
「どういう意味だ? なんでアンタがわかる?」
「……ルカだよ」
「ルカ?」
ルカなら、一緒にいたじゃないか。そう思ってセルマは改めて部屋を見渡した。だが、確かにルカの姿はない。思い返してみれば起きた時だっていなかった。セルマは嫌な予感がした。
「そういえば、姿が見えないな。まさか……」
「シュナイダー指揮者に連れていかれた。ルカは、アイツからクラウスお嬢様って呼ばれてた」
セルマは目を見張った。記憶がないセルマでもクラウス家は知っている。複雑な表情をしながらセルマは咳払いをするとバルドを見た。
「クラウスって……あのクラウスか? この都市を治めている……」
「ああ。俺も正直信じたくないんだけど、全部本当のことなんだ。ルカはおそらく、クラウス邸にいる」
セルマは実際にクラウス邸の周辺を訪れた記憶はないが、世界中の誰もがその凄さを知っている。クラウス邸といえばこのアスガルデの頂点だ。アスガルデの頂点ということは、世界の頂点ということでもある。おまけにクラウス邸は建物も大きく、街のどこからでもそれを見ることができる。だがそれ以前にセルマの頭の中はそんなことよりも疑問で埋め尽くされていた。
「……すまない。こんなことを聞くのはどうかと思うけど、どうしてハンスが動いてるんだ? ルカがクラウス家の人間だってことは分かった。でも、どうしてハンスがクラウス家と関係してるのか上手く、結びつかなくて……」
セルマの言ったことにバルドが固まってしまい、二人の間に気まずい空気が流れる。もしかして聞いてはいけないことだったのだろうか、とセルマは心配になる。やがてバルドはハッと気づいた顔をして顔の前で手を合わせた。
「あ、そうか! ご、ごめんな! お前が記憶喪失だったの忘れてた……! 分からなかったらいつでも遠慮なく言ってくれよ? えーと、ハンス・シュナイダー指揮者はな……」
バルドは頬杖をついていた机の引き出しから大量の新聞を取り出した。そしてそれを全部セルマに手渡す。
「これは……」
「シュナイダー指揮者について書かれてる新聞記事だよ。俺、憧れてるんだ。アスガルデに来てからずっと集めてたんだよ」
バルドに促されるまま新聞を見るとそこには彼が言った通り、ハンスに関することばかりが書かれている。たくさんある中で一番古い記事。セルマはその記事の見出しを読み上げた。
「アスガルデの、生きる英雄……若き天才指揮者……プレイヤー討伐運動の第一人者?」
「そうそう! 俺が言いたいのはそういうこと。シュナイダー指揮者はアスガルデで……いや、世界でその名を轟かせる最高の指揮者なんだよ! 若いからってなめられてた時期もあるけど自分の実力だけでトップの座まで登り詰めたんだ。あとは……指揮者になる資格のある人間はただ音楽や指揮を学ぶだけじゃなくて、もう一つ必要なことがあるだろ?」
「……オレたちプレイヤーに対抗できる力か?」
「そうだ。俺たちプレイヤーがこうして武器を持てるように……」
俺はトランペットな、と付け加えてバルドが右手に力を込めると、セルマとは違うオレンジ色の光がバルドの右腕を包む。その光は金色に輝くマシンガンになった。これがバルドの武器である。
「指揮者になれる人間にも、俺たちと同じような力がある。向こうは楽器じゃなくて指揮棒が媒体になるけどな。でも、能力の理論はプレイヤーと同じなのに、はるか昔から指揮者の力は恐れられてないんだ。むしろ、神の力だとか言って崇められてる。これについては真相が誰にも分からないから仕方ないんだよな。ちなみにシュナイダー指揮者は指揮棒がレイピアになるらしいぞ」
「なるほど……」
「つまり、だ。今までのことをまとめると……」
バルドは武器を消すとセルマの方を見てニイッと笑う。それはまるで難しい数学の式が解けた時のように自信に満ち溢れた顔だった。
「指揮者のトップ様はプレイヤー討伐の最前線にいて、クラウス家の上とも繋がってるって話だ。俺の見解も入ってるけど、だいたい合ってると思うぜ」
バルドが言うのだからそうなのだろう、とセルマは思った。だがセルマの中ではまだ内容がふわふわとしている。空にぷかぷかと浮かんでいる雲が掴めないことと一緒だ。これに関しては記憶がないセルマには仕方のないことである。これからハンスと関わっていく上で理解できたらいいなとぼんやり思いながらセルマはバルドに新聞を返した。
「それでな、話は戻るんだけど」
「…………」
「ルカ、シュナイダー指揮者に連れて行かれる時に助けてっていう目をしてた。俺、ルカを助けたい」
正直なところ、セルマはルカがクラウス家の人間なら脱走する方がおかしいだろと思っていた。バルドが言ったことが真実だとして、ハンスと繋がっているならハンスを恐れ、逃げることなんてしないはずだ。今もその考えである。それでも、とセルマの中にもう一つの考えが浮かんだ。ルカが本気で脱走していたのだとしたら。一年前の自分のようにハンスから逃げていたのだとしたら。同じくハンスと関わる身としては、これは見過ごせないのではないだろうか。
「……ハンスが関わってるようなら、オレは行く」
バルドが顔を上げた。バルドからの視線がキツくてセルマはふいと顔を背ける。
「可能性は少ないが、ルカがただの家出娘なのかそうじゃないかも行けば分かる。それに……まだ礼も貰ってないしな」
「! お前、ルカとの約束覚えてたのか……」
バルドの顔はまさか、とでも言いたげな表情だった。確かに約束を忘れていなかったのはセルマも驚くところがあった。待て待て違う、言いたいのはそういうことじゃない。別にオレはルカなんか気にしてないんだとセルマはかぶりを振った。
「勘違いしてほしくないが、オレはアンタのようにルカを心配してるんじゃない。ハンスがいるから行くんだ」
「どうなのやら」
バルドは不貞腐れているセルマを見てへへ、と笑った。そして足を組み直すとふうと息をつく。それには疲労が含まれていた。バルドもバルドで今日は色んなことがあったのだ。疲れるのも無理はない。
「……俺、シュナイダー指揮者のことは有名だから知ってたけど、今日初めて会って……テレビとか舞台で良いところたくさん見てきてるはずなのにマジで嫌な感じの奴だったな」
バルドの言葉にセルマはへえ、と相槌を打った。セルマはそこまでテレビを見るような青年ではなかったため、バルドが偶然話しだしたこの話題に興味があった。
「普通の人間の中でのアイツはどんなイメージなんだ?」
セルマの問いにバルドは唸る。バルドはセルマとは正反対でテレビはよく見る方だった。というよりも、バルドはテレビが大好きである。特にニュースが。バルドが黙って静かにしている時は大抵テレビが要因なのだ。そんなわけでバルドはテレビでハンスの名前が聞こえるや否やテレビにかじりつくようにして見ていたのである。それでも、いざとなるとなかなか言葉が浮かばない。
「え? そりゃあ良いイメージばっかだろ。あの顔だし、身長あるし、何より指揮が上手いし……人気者じゃないか。アイツに会いたがってる女の子はその辺にいっぱいいるぜ。ついでに憧れてる奴らも。俺が保証するね」
「そうなのか?」
セルマの眉間に深いシワができる。ちなみにバルドの中ではこの顔のセルマがもはや定番となっており、面白くてつい笑ってしまうからそろそろその顔やめろよと言いたいところである。
「あははは、そんなに嫌そうな顔するなよ! そういうところだぞ」
「当然の反応だろ。あんな奴のどこがいいって言うんだ」
「うっわ、お前それ女の子の前でぜっったい言うなよ。殺されるぞ」
セルマは気に食わないと口を尖らせた。それを見たバルドが大笑いしたのは言うまでもない。何より彼の笑い声はよく響いた。それに本当に楽しそうに笑うのだからこちらまで頬が緩んでしまう。
「はーー……笑った。じゃ、行くと決まれば早速行動に移そうぜ! まずは作戦会議、今日の夜には出発しよう!」
──今日の夜? 今日……今日?!
セルマは何となく納得しながら聞いていたが、今日だということに気づくと目を白黒とさせた。夜といっても数時間後のことを言っているのだ。思わずベッドから降りてバルドに詰め寄る。
「はぁ!? アンタそれ本気で言ってるのか? 急ぐにも程ってものがあるだろ! 行くところ分かってるのか?! クラウス邸なんだろ?!」
いきなり自分に詰め寄るセルマにバルドは驚くこともなく、ましてや迷うそぶりすら見せなかった。そのままセルマの肩に手を乗せるとバルドは彼の緑色の目を真っ直ぐに見る。
「任せろって! さてはさっきの俺の話聞いてなかったな? もう一度言うぞ。ここはプレイヤーが集まる酒場だ。プレイヤーに関係する情報はなんでも手に入る! クラウス邸の構造や警備体制だって、知ろうと思えばいくらでも知れるんだ。こっちだってやられっぱなしで生きてるわけじゃないんだぜ」
「え、えっと、うん……そうなんだな……?」
「そういうことで、俺は先に下に降りてお前のことを言ってくるから、お前も早く来いよ」
そう言うとバルドは部屋から出て行った。セルマもバルドを追いかけようとして、足を進めるのをやめた。自分では止められないと思うし、夢の出来事が気になったからだ。閉じるドアを眺めながら部屋に一人になったセルマはふと夢の中での出来事を思い出すと考え込む。
──そういえばあの夢、一つずつ整理していこう。あの場所はハンスと一緒にいたから、アイツの家……? 実験……喜ばしいオレの能力。オレのプレイヤーとしての力か? でも、それならどうしてオレは顔に跡が残るほど泣いてたんだ?
ピリッと頭が痛むのを無視してセルマは考え続けた。ここまで来たなら思い出したいと決めたからだ。
──部屋に戻りたい……一人になりたかったのか? ……違う。あの場所で唯一安心できる場所がオレの部屋だった。
一つ思い出せたのを少し嬉しく思いつつ彼はさらに考えを巡らせる。
──ということは、最後に出てきた部屋はオレの部屋じゃない。あの部屋に連れて行かれることをオレは相当恐れていた。認めたくはないが、ハンスに懇願する程に。あの部屋で、オレは何をされてたんだ?
その後はいくらセルマが考えようとも記憶が思い出されることはなかった。こればかりはセルマ自身が思い出すのを拒否した気もするが。
──謎は多いが……『実験』、まずはこれを知る必要があるな。
一息つくと、セルマはドアノブに手をかける。一瞬だけセルマの表情が曇る。だが、ここで弱気になってはダメだとセルマは己を奮い立たせた。
──ルカが脱走した時に追ってきていたんだから、ルカに会いに行けば必然的にアイツには会える。実験というワードを出せば、何か教えてくれるだろうか。
静かにドアノブを回し、セルマは部屋を後にした。




