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episode1-1

音楽とは、世界がその歌詞であるかのような旋律である。

──アルトゥール・ショーペンハウアー



青年は、走っていた。


『はぁ、はぁ、はぁ、は……!』


その日は、ひどく激しい雨が降っていた。地面はぬかるみ、青年は時折それに足をとられながらも、走ることは決してやめなかった。なぜなら、彼は逃げなければならなかったからだ。彼には追っ手が迫っていた。それもかなりの量の、だ。だから彼は死に物狂いで雨の中を走っていた。全身が濡れ、彼の茶色の髪が彼の整った顔に張り付いても、彼は一切気にせずに走り続けていた。やがて青年の足は一軒の家の前で止まる。その家を見上げる青年の表情はどこか安心していた。


『やっと、帰ってこれた……』


青年が、ぎこちなく笑う。彼がその顔に笑みを浮かべるのはここ数年の中で久かった。だが、その笑みはまたすぐに失われることとなる。


『……やはり、か。お前はここに来ると思っていた』


『ハン、ス……』


暗闇から黒の燕尾服を着た長身の男が現れた。青年からハンスと呼ばれた男もまた、彼ほどではないが雨に打たれ、見るからに高級感の漂う燕尾服を濡らしていた。青年がハンスを見つめる中、彼もまた微笑を浮かべながら青年を見つめていた。やがて青年は苦しそうに顔を歪めると右手に力を込める。すると、青年の意志に肯定するように彼の右手は青白い光を放ち、その光はやがて円形の武器──チャクラムへと姿を変えた。青年は腕をあげるとハンスにチャクラムの刃の先を向ける。


『ほう、この俺に武器を向けるか』


ハンスは目を細めて青年を見据えた。ハンスは分かっていたのだ。今の青年は、自分を傷つけることにためらいがある。そもそも、ここで戦うことすら望んでいない。だが武器を手にしたということは、それでも自分と戦う覚悟を決めたのだろう。だからこそ、ハンスも武器を手にした。彼の左手に現れたレイピアを見て、ハンスの視界に映る青年の目が鋭くなる。


『っ、』


息つく暇もなかった。瞬き一つの後、ハンスのレイピアの長い刃が青年の体を貫いていた。青年の右手からチャクラムが光と共に消える。刺された反動で、青年の体ががくりと前に倒れかけた。青年の最大に見開かれた目は焦点が合わず、先程まであった武器を失った手は虚空を彷徨っている。ハンスがレイピアを持つ腕をあげると青年の足が地面から離れた。


『ぁ……っあぁ……!』


喉から迫り上がるものを青年が思わず吐き出せば、赤黒い液体が彼の口や服を赤に染めた。浅い呼吸を繰り返しながら青年は目の前のハンスを弱々しく睨みつける。ハンスは彼の様子を見るとその端正な顔を歪ませた。


『甘いな。そんな脆弱な覚悟で、本気で俺から逃げられるとでも思ったか』


青年がもがくたびに、ハンスの持つレイピアの刃が青年の体にさらにめり込む。青年は何とか引き抜こうとレイピアを両手で掴むが、降り注ぐような雨で濡れた手と多量の出血で、加えて浅い呼吸では力も入るはずがなかった。力尽きたのか、青年の手は再びぶらんと空中を漂う。青年が咳込むたびに彼の口からは止めどなく赤い血が流れる。


『ぁ……がは……ッ!』


『アイツの悪ふざけも少々あったが、まさかお前にここまで逃げられるとはな』


ハンスの口から出た言葉に青年は笑みを浮かべた。つい数分前の安心した柔らかい笑みとは違う、まるでこうなることが分かっていたかのような確信に満ちた──そしてハンスを嘲笑うかのような、そんな笑みだった。


『……は、はは、最期に、あんたに、一泡……吹かせて、やり、たかった……。ここにきた、のは……未練を、なくすため……。やっと……死ねる、んだ……。これで、やっと、楽になれる……』


ごふ、とまた血を吐きながら青年はまた小さく笑った。これは青年の最後の強がりだった。言葉の通り、ハンスが少しでも狼狽える姿を青年は見たかったのだ。が、それを見たハンスは逆に彼を嘲笑った。少しも狼狽えずに、ただただ青年を嘲り笑った。


『死ねる? っ、ははははは、何を言っているんだお前は』


『……?』


予想外だったのか、青年は眉間にシワを寄せた。青年の頬を、雨に混じって冷や汗が流れ落ちる。


『お前がそう簡単に死ねるものか。何のために俺がお前を鍛えあげたと思っている? ……まあ、いい。そこまで言うならお前に課題を出してやろう。いいか、────』


男が言葉を連ねると、青年はその緑の目を大きく見開いた。ひゅっ、と青年の喉が鳴った。


『これができたら、お前の────』


……そこまでが、彼の覚えていることだった。


あの日から一年と少し、あの時の青年はアスガルデに向かう電車に乗っていた。

青年には、一年前のあの日以前の記憶がない。所謂、記憶喪失というものだ。加えてあの日の記憶も朧げで、あの時男が自分に課した課題の詳細も思い出せないまま、残ったのは自身の胸の傷痕だけであった。だが、そんな彼でも男の名前だけは鮮明に記憶に残っている。あの時の男の名前は、ハンス=シュナイダー。彼に会えば自分が何者であるのかが分かるかもしれないと考え、今に至るのであるが。


……何かを考える暇も今の彼にはなかったようだ。何せ今の彼は酷い乗り物酔いに耐えていたのだから。


「……気持ち悪い」


席の背もたれに背中を預け、彼は一言そう呟いた。


世界最大の芸術都市、アスガルデ。アーサヘイム地方の中心に位置する芸術と文化で栄える大きな都市である。北のミッドガルド地方の片田舎、ヴェントルから上京してきた彼にとって、アスガルデはもはや世界が違った。街から外れた場所には、アスガルデに寄り添うようにして一本の世界樹がそびえ立っている。大きすぎるその樹は列車の窓からでも十分見ることができた。

記憶にはないはずなのに、青年はどこかこの景色を知っている気がした。だが彼はそこで考える事を放棄した。彼が何かを思い出そうとすると、決まって彼の頭は思い出すなとでも言うように多少の頭痛を伴うのだ。青年は一つ、小さなため息をこぼす。


──アイツが出した課題、会えば全部分かるはずだ。……そして、オレが何者なのかも。


列車が駅のホームに入り、停車する。ようやく降りられると青年はホッとすると、自身が持ってきた楽器を入れたリュック型のケースを持って席を立った。窓の外を一瞥すると電車から降り、そして、駅の改札を抜けると青年は駅の構内をぐるりと見渡す。


──さて、どうすれば……。


はるばるアスガルデに来たのは良いものの、彼に会う手段を彼は何一つ持ち合わせていなかった。人に聞こうにも、人見知りの彼の頭からその考えは即座に排除されたし、別に彼の指揮が見られる演奏会を見に来たわけでもないのだ。八方塞がりとはよく言うものである。


──いや、街を歩いていれば、何か情報を得られるかもな。アイツは指揮者なんだから……情報がないなんてあり得ないはずだ。行こう。


気を取り直して青年が歩き出すと、向かいの方から人混みに紛れて一人の少女のような女性が彼に勢いよくぶつかった。金色の髪を後ろで三つ編みにしており、空のように明るい青の瞳を持っている。彼女が着ている桜色のワンピースも彼女によく似合っていた。あまりの衝撃の強さに青年はよろけたが反動で彼女が倒れてしまわないように体勢をすぐに立て直すとその華奢な体を片腕で支える。


「大丈夫か?」


「あ…………」


彼女は頰を少し赤らめると、すぐに青年の胸を突き飛ばして彼の腕から逃げた。悪いことをしたかと思い、青年は彼女と距離をとる。流石に彼女の体を触ってしまったのはセクシャルハラスメントだったかもしれないと青年は思った。目のやりどころに困りながら、青年は彼女に向かって頭を下げる。


「す、すまない」


「あの、私、急いでるので! ごめんなさい! 失礼します!」


彼女は辺りを見渡すと足早に走っていってしまった。


──何だったんだ……?


取り残された青年は小さくなっていく彼女の背中を見ながら肩をすくめると当初の目的を果たそうと決めた。それにしてもさっきの彼女はどこか様子がおかしかったなと、青年は思ったが自分には関係のないことだろうとその疑念を消す。ようやく足を動かそうとした青年だが、悲しくもその足はその場で止まる。


「……何の用だ?」


振り返った青年の目の前には、派手なオレンジ色の髪をした、彼よりも背の高い青年が立っていた。小麦色の肌に白い着心地の良さそうなシャツにカーゴパンツとサンダルの彼の姿は、どこをどう見ても健康そうだ。彼の両手を覆っている白い包帯だけは少し目を引くが。オレンジの彼は相当な距離を走ってきたのか肩で息をしており、その額には汗が滲んでいる。彼は青年の前で息を整えると、なるべく冷静を装って口を開いた。


「お前さっき、女の子にぶつかっただろ? その子、どっちに行ったか分かるか?」


「確かにそうだが……なんだ。アンタは彼女のボーイフレンドなのか?」


自分の予定を邪魔されたこともあり、青年は投げやりにそう口にした。するとオレンジの彼は驚いたのか先程より声を大きくして反論する。


「なっ、ちげーよ! そうじゃなくて! お前、案内してくれないか? どこに行ったは分からないにしろ、方向くらい分かるだろ? あっ、別にストーカーじゃないからな! 勘違いするなよ!」


大きな声で色々とまくし立てるオレンジの彼に青年は耳を塞いだ。やかましいと青年は心の中で呟く。実際のところ彼の声はよく響き渡るくせに尚のこと大きすぎるのだが。


「やけに真剣だな、アンタ」


青年がそう言うと、オレンジの彼は打って変わって気まずい様子でその口を閉じた。青年はそんな彼の行動に違和感を感じた。必死だなという言葉は皮肉だっただろうか。それとも、彼にとってこの言動はまた別の意味を表すものなのだろうか。だが、彼の目的を果たすためには一刻も早く急いだ方が良かった。青年はこれ以上彼について考察することをやめた。


「……事情は聞かないでおく。行くぞ」


「ほ、本当か?!」


青年の言葉でオレンジの彼の顔が明るくなっていく。気のせいか、彼のオレンジ色の髪も明るくなった気がした。青年はなんて現金な奴だろうと半分彼に呆れる。青年は一瞬、オレンジの彼が尻尾を振る子犬のように見えた。このまま見ていられないと青年はオレンジの彼から目を背ける。


「早くしろ」


「……ありがとな! 俺の名前はバルド。お前は?」


「セルマ」


「よし! じゃあ、セルマ! 行こうぜ!」


この時セルマは特に考えなかった。この出会いが後に自分の運命を大きく変えることになることを。この出会いが、彼の旅の全ての始まりとなることを。

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