八、不死の鬼
それからどうしたのかよく覚えていない。
気付いたら山の中にいた。
辺りはもう暗く、ほぅほぅと梟が鳴き、冷たい風が吹きわたって木々をざわざわと揺らしていた。
(秋になったら、紫苑を見に行きましょう)
そうだ、それで・・・。
紫苑を見ようと、無闇に歩いて・・・。
もうここがどこだか分からない。帰るにも帰れない。
(だが帰ったところで・・・)
紫苑姫はいない。
秋になって除目があって、左大臣家の姫を手に入れるのに何のてらいもない五位の位をいただいて、晴れて婚儀を営んで、いつか自分の邸に北の方として迎えて子供を欲しいだけ作って・・・。
そんな風に思い描いていた全ての夢想が露よりも儚く消えてしまった。
(どうして・・・?)
小さな頃に父母を失い、それでも強く強く自分を律して寂しさ押し隠してここまでなんとか生きてきた。そうして紫苑姫という望外の喜びを手に入れてこれからつつましく幸せに暮らせると思っていた。
だが運命は亮澄に容赦がなかった。幸福の寸前でまた谷底へと突き落とされてしまった。
(どうしてこんな目に・・・?)
問うても問うても答えなどあるわけもない。誰しもが一度はそう問うが答えは自分で見つけるしかないもの。誰も答えてはくれないのだから。
それでも問わずにいられない。
(何故・・・?)
あと一歩だった。だが踏み出さなくても、時がくれば花は開くと思いただ時を待っていた。それだけなのに・・・。
(何故にこんなにも苦しまなければいけない・・・?)
生きて生きて生きて何になろう。
紫苑姫はいない、もういない。代わりなどでは意味がない、彼女でなければ・・・。
叶わぬものなら始めから夢など見せてくれなければいいものを。
ふらふらとあてもなく歩いていると打ち捨てられた小さな社がうっそうと繁る木々の中に、誰にも省みられていないのだろう、朽ちかけて打ち捨てられていた。
どこの、なんの神だか分からない。
でも・・・。
(神様・・・)
亮澄はふらりとその社に近づいていった。
(もしも、もしも神がいるのなら・・・)
どうか、もう一度、どうかもう一度だけでも紫苑姫に会わせて下さい・・・。
亮澄はそれから七日七晩祈り続けた。
食事もとらず眠りもせず、ただひたすらに祈り続けた。
七日のうちに絢なる錦の衣もすっかり汚れ、髪は振り乱れ髭も伸び放題。
月にも例えられた美しい容貌も頬がげっそり落ち見る影もない。
もう直に命も果てようかに思えた・・・。
(そんなにも、女に会いたいか?)
男とも女ともつかない不思議な声が失いかけの意識の中、頭の中に響いた。
(会いたい・・・)
すでにしゃべる力も失せている。頭の中に答えた。
(鬼となってもいいか?)
(いい)
(・・・。会えるというても、生まれ変わりの姿ぞ)
(それでもいい。会いたい、姫に、姫に・・・)
枯れ果てたかと思われた涙が絞り出されるように目の端に浮かんでくる。
(会えたところで決して結ばれぬ。それでもいいか?)
(いい)
(・・・これを飲みなさい)
瞼の裏に鉢に満たされた液体の情景が浮かぶ。
亮澄は渇きもあって夢の中でそれを掴み飲んだ。
するとふっと体が軽くなり疲れもなにもかも吹き飛んだ。
「これは・・・」
体には生気がみなぎりみるみるうちに体が回復するのが分かった。
目を開けると星空が見えた。
やがて起き上がれると思って起き上がった。
(ゆめ・・・)
また頭の中に声が響いた。
(ゆめ忘れるなかれ。一つ、自分が鬼だと覚られないこと)
「は、はいっ!」
(二つ、決して女の名を呼ぶなかれ。呼んだが最後、霧となってきえましょうぞ・・・)
「はいっ」
それ以降その不思議な声は一切聞こえなくなった。
亮澄はしばらく呆けていたが、はっと我に返ってとりあえず帰ろうと思った。
足を踏み出そうとすると、
(行クナ)
「わっ」
また声が頭に響いた。さっきの声ではない、もっと無機質な感じの冷たい声だ。
「だ、誰だっ!?」
(我ハ神ノ御使イナリ)
はっと気配がして振り向くとなんと真っ白い毛の狐がこちらをじっと見ていた。その瞳は赤く輝きただの狐ではないことが分かる。
「神の御使い・・・?」
(左様。汝、不死ノ霊薬ヲ飲ミテ人ナラザリシ鬼トナリツ)
「不死・・・?鬼・・・?」
(左様。汝、最早死ヌコト能ハズ、年モトラザリシ。人ソレヲ怪シミテイツカ汝ヲ打ツベシ)
「でも・・・」
(行クナ)
「あっ・・・」
狐の姿はふっとかき消えた。
(不死・・・。死ぬことができない、年もとらない・・・?)
鬼だ、と言ったな。
自分の額に触れてみる。鬼ならば角でも生えたのではないだろうかと思って。
しかし何ともなく、ぺたぺたと顔をなでまわし、他にあちこち体を見たが特に変化はない。
いや、変化はあった。
七日七晩も飲食せずにいてやせ細った体が元に戻っており、垢じみていた肌も髪も湯殿で洗ったようにきれいになっていた。
ここに来るまでに沓なんていうあまり長時間歩くのに適さない、木をくりぬいて作ったものを履いて歩いてきて足を痛めていたが、その傷もすっかり癒えていた。
尋常ではない・・・。
もう人の世に戻ることはできない・・・。
ぺたりと座り込んで都のことを思い浮かべた。
光雄はどうしているだろう、いなくなった自分を心配しているだろう。主上も、左大臣様も、内裏の仲間たちも・・・。
そう思ったらふっと瞼の裏に光雄の姿が思い浮かんだ。
「光雄っ」
『坊ちゃま、どこへ行ってしまわれたのですか?坊ちゃま・・・』
夜の闇の中、邸の床に伏してでさめざめと泣いていた。
「爺・・・」
これは夢か幻か・・・。
いや、それにしてははっきりしすぎている。
主上はどうしているだろう・・・?
そう思うと禁裏でお寝みになっている主上の御姿が見えた。
「これは・・・っ」
他にも知りたいと思った人の様子をみることができた。
どうやら鬼となって鬼の力も手に入れたらしい。
いろいろ試した結果、他にも行きたいと思った場所に瞬く間に移動していたり、鳥や獣と話ができたり、真っ暗でも物の形が分かったり・・・など。
腹も減らなかったし渇くこともなくなった。食べようとを思ったら食べることはできるが肉などは受け付けなくなっていた。
眠ろうと思ったら何時間でも何日でも寝続けることができたし、寝ないでおこうと思ったら同じように何時間でも何日でも起き続けることができた。
人の生き死にも分かる。人の姿を見ていつ頃死ぬだろうとか、赤ん坊ができるかとか。
(これなら姫が生まれ変わってこの世に来たなら分かるだろう)
きっと分かる。
亮澄は山の洞窟の奥深くに身を隠し、紫苑姫が産まれるまで眠ることにした。




