三、忘れじの花
亮澄は東の対の屋を出た後もぼんやりとしていた。
目の前にはまだ姫の姿が幻のように浮かんでくる。
魂が抜けたようにふらふらと歩いていると、
「よぉ、亮澄、こんなところで何やってるんだ?」
目にも鮮やかな濃色の縹の直衣の、亮澄と同じ年頃の青年が声を掛けてきた。
「雅透!」
雅透は以前学館院に通っていた時の友だった。学館院は橘氏の子弟のための学校だ。雅透とは気が合って勉学以外でもよく一緒に遊んだりしていた。
今は式部の丞に任官されている。
「聞いてくれ雅透、さ、さっきな、俺見たんだよあの、姫を・・・」
「は・・・?姫って紫苑姫か?」
「え、紫苑姫?」
「お前知らないのか?本当にこういうことには疎いなぁ。紫苑姫ってのは七の姫の愛称さ」
「七の姫の・・・?」
「ああ、紫苑の花言葉知ってるか?」
亮澄は首を横に振る。
「『君を忘れじ』さ。見たら思いを忘れられなくなる、っていうことにちなんで七の姫をそう呼んでるんだ。お前の白銀の君みたいなもんだ。そっかー、お前見たのか、どうだった?美人だったか?」
「そりゃあ、もう・・・」
―――本当に忘れられそうにもない・・・。
「どうした?気分でも悪いのか?」
「いや・・・」
「紫苑姫ほどの美人を見て気分悪くなるわけないよなー。もう酒に酔ったか?」
「あ、ああ・・・」
本当は一滴も飲んでないが。
「そうかそうか、なら飲み直そう!さすが左大臣家、酒も一級品ばかりだ」
雅透は亮澄を連れて宴の席へと入っていった。
亮澄達が宴の席についてしばらくすると、俄かに寝殿の簾中が騒がしくなった。
「お、紫苑姫のお出ましかな?」
庭先にしつらえられた酒の席でもその様子が分かるほどだった。
亮澄はこの時のことを、酒に酔っていたからだと今でも思っている。
万事控えめに生きてきた亮澄の、きっと一生に一度だけ見せた勇気。
亮澄はさっと立ち上がるとつかつかと歩いて階を上がり、御簾の中の紫苑姫に向かって語りかけた。
「姫、先ほどお貸した扇を返しては頂けないでしょうか」
「何?少進殿、娘に扇を貸したのか?」
紫苑姫の代わりに左大臣が答える。普通姫君は声など聞かせない。
「はい」
亮澄はそのまま黙る。
御簾の中では左大臣が紫苑姫に何事か問い質すような声が聞こえてくる。
やがて先ほどの葉月という女房が青い顔で扇を持って現れた。
きっと自分がしでかしたことを悔いているのだろう。後で左大臣から咎めがあるかもしれない。本当は自分が黙ってさえいればよかったのだが・・・。
「ありがとう」
詫びのつもりで極上の笑顔でほほ笑む。青い顔がとたんに赤くなって葉月はそのまま辞す。
「どうでしょう、無事扇が返ってきたことの礼に、一差し舞わせていただきたいのですが」
周りからもどよめきが起こる。
「あ、ああ、かわまない。白銀の君と呼ばれる少進殿が舞われるのであれば、またとない余興となるだろう」
左大臣は困惑気味に答えながらも許してくれた。
「では」
亮澄は立ち上がって袍の肩袖を脱ぐと扇をぱらりと開く。
君を忘れじ 忘れじの 花あるならば 我が思い とこしえまでも 咲きほこれ・・・
独特の長い節回しでひらりひらりと舞う様は桜の散る如く、美しく優美な姿は天神の舞かとも思われた。
左大臣は手を打って喜び、
「ほほう、今様とはなんとあでやかな。いや、物静かで有名な少進殿にこんな特技もあったとは。いや、見事見事」
「ありがとうございます。・・・しかし、慣れないことをしたので少し疲れました。今日はこれで失礼したいと思います」
「そうか。うん、体をいとうように」
「ははっ」