本と少女と天使たち①
「カエルの卵の……が椎茸を倒す……フィリピン人の脳みそ……」
何の変哲もない早朝の風景。今日もこの街は、出勤や登校中の人間で溢れかえっている。
その人波に慣れた足並みで、一人の少女は一定のスピードを保ち早足で進んでいく。まるで彼女の進行方向には何も障害物などないかのように。ゆく人々は彼女のことなど眼中になく、みな同じような顔持ちで忙しそうに通り過ぎていく。
「あつ……」
今年の夏は過去最高の猛暑を記録したそうだ。それでも彼女は顔色ひとつ変えずに歩き続ける。ペットボトルの水を少しだけ口に含む。これでもかと照り続ける太陽も、汗の量に見合わぬその冷たげな無表情具合を見れば、悔し涙を浮かべて意気消沈するのだろう。
まるで雪のように白く輝く彼女の髪とボーイッシュでクールな面持ちは、どこか周りと違うような異質で涼しげなオーラを放っていた。
人通りの多い交差点を抜けると、暗く静かな裏通りに出る。そこでピタリと足を止めた。しばらくスマホを見つめていた目線がゆっくりと上に向く。どうやら彼女は、想定していた時間通りに目的地へ着いたようだ。
ドアに手をかけるとベルが軽快な音を鳴らして出迎えてくれる。人入りは少ないが、ここは彼女がよく訪れる場所だった。朝の時間帯は特に空いているし、自分が早起きだということも理由の一つであった。しかし、他にとっておきの理由がある。
「お待たせいたしました、モーニングのセットになります」
建物の隅に点在している小さなカフェテリア。ブレンドコーヒーやふわふわもちもちした食感が売りの日替りパンがメニューに載っている。この店のオーナーが、昼頃まで趣味で開いているものだ。何度かここへ通っていると、いつしかコーヒーを飲みに来るのも楽しみの一つになっていた。
厳選された香ばしい豆の香りを鼻で楽しみ、ほろ苦くもコクのある後味を舌で感じる。これが通常の楽しみ方なのだろう。しかし彼女は違っていた。美しい所作で徐ろにカップを持ち上げ、匂いを堪能するのかと思いきや豪快に一口で飲み干した。もちろん豆の味など感じる余地もないはずだが、満足したようにその余韻に浸る。偶然居合わせた隣の中年の客はその光景を見て唖然としていたが、オーナーは「もう見慣れた」と言わんばかりの顔でカップを拭きながら横目に見ているだけだった。
彼女は同じ要領でパンをもぐもぐと頬張りながら、バッグの中からお気に入りの本を取り出す。
【今明かされる!カタツムリの殻の全貌 第6巻】
客はその題名に釘づけだった。
「今日は、コーヒーを飲みに?」
カップを丁寧に磨きながら、オーナーが話しかける。
「いえ……品薄な新刊を探しに来たのですが、置いてなくて。ここは取り揃えがいいから、もしかしたらと」
「ご期待に添えず申し訳ない……是非またいらしてくださいね」
「はい。パンとコーヒー、美味しかったです」
そう言って彼女は丁寧にお辞儀をして店を出る。
ここは、古びた老舗の書店。マイナーすぎる本から月ごとの新作ピックアップまで、ピンキリに本が立ち並ぶこの場所は、本好きの秘境と呼ばれている。この店へ足を運ぶ者は皆、その界隈で有名な年齢層がかなりお年寄りの人たちばかりだ。
「あの子。いい出会いがあるといいですね」
界隈に精通する中年の客は、あんな本好きでも読まないような内容の本でもジャンル問わずに読みたがる生粋の本好きが、まだ若い世代に存在していたことに驚き、関心していた。
「そうだね。本は人を選ぶから、きっと探し物はみつかるだろう」
「ここも駄目か……」
浅くため息をつく彼女は、見るからに心が折れかけていた。彼女にとって新たな本との出会いを先延ばしされるのは、目の前にあるのに食べられないケーキを延々と見続けさせられるのと同じ苦痛だった。
彼女には、ただひたすらに『本を読みたい』という欲求しかないのだ。
「さ〜くらさん」
ふと、視界が暗闇に覆われる。
この「だーれだ」という行為は、それを行う人との間にある関係性、TPOよって面倒くさい人というレッテルが貼られてしまう非常に危険な行いである。この場合「その声は……!」とノリに乗ってくれるケースと、舌打ちされ煙たがられるケースのどちらかが想定される。
「サラ?」
「あたりです!」
答えはまさに中立。無の感情だった。
声になんの抑揚も感じられないが、嫌悪感を抱いているようには見えない。
さくら(桜)と呼ばれる彼女の性格は、基本的にかなり無機質なものだった。
「も〜、本をお探しなら私を頼ってくれたらよかったのにー!」
桜に抱きつきぶりっ子口調で喋る同年代くらいの彼女は、猛暑日であるにも関わらず黒一色の服装をしていた。艶のいい黒髪ボブと血相が悪く見えるほどの真っ白な肌が眩く照らされている。
「朝起きたら桜さんがいなかったから心配したんですよ?まぁ、GPSつけてるんでさらわれても速攻で助けに行けるんですが……」
「いま何かボソボソ言ってなかった?」
「言ってないですよー」
口を滑らせてしまいブンブンと首を横に振る。
「困ったな。あと4冊くらい買わないと、夜にすることが無くなっちゃう」
「え!部屋の本棚にあれだけたくさんあるのに、まだ買うんですか?もしかしてあれって、もうぜんぶ読み終わってるんじゃ……」
「そうだけど」
「すごい……ですね」
引きつった笑顔を見せるサラだが、内心は若干引いていた。
桜の部屋には読破された本が大量に敷き詰められた本棚の他に、たくさんの本という本が積み重なったブックタワーが何塔も建設されている。ただのコレクションだろうと思っていた本の数々が全て読破されたものだというなら、活字を見た瞬間に読む気が失せてしまうサラにとってそれは悪寒すら感じてしまうほどの恐怖体験だ。サラは桜が本当は人間ではなく、本から生まれた神様のような存在なのではないかと疑い始めていた。
「そ、それより桜さん!探してる本、もしかしたら天界に行けばみつかるかも知れませんよ」
入道雲がこちらに顔をのぞかせている、澄みきった青空を高々と指さす。
「天界に……どうやっていくの?」
「ふふふ、忘れたんですか?人間界に堕ちても私は天使なのですよ!天界なんてひとっ飛びですっ」
サラは右手を天に構える。
するとみるみる手の内に、巨大な鎌が出現した。
「……それでどうやって天界に行くの?」
「あ、間違えました。これは鎌を出すときでした」
焦りつつ鎌を消し、バッと手を横に突き出す。するとキラキラと輝く光の粒子が手首を囲むように集まってきて、次第にリング状を構築していく。次の瞬間、煌々と発光したのちにやがてそれは天使の輪を形成した。
サラはそれをゆっくりと頭にのせると、天使の輪のようにフワフワと頭上に浮いた。
「どうです?久しぶりの天使の姿は!」
目を輝かせながら、ドヤ顔でその様子を見せつけてくる。
「うん。とってもかわいいよ」
サラは人間界に溶け込むため人間に擬態した天使だ。現在はワケあって桜の住むアパートに居候している。常日頃から桜にべったりなサラは、忘れがちだが正真正銘の天使なのだ。
見た目はまさに都会の街並みでよく見かけるような、歪なファッションをしたインドア系の若者。そんな少女の頭上に天使の輪が浮かんでいる光景からは、とてつもない非日常を感じられた。
「それじゃ、さっそく行きましょう!あ、靴紐ちゃんと結びましたか?途中で脱げちゃったら大変ですからね〜」
ぎゅっと桜の手を握りニコニコと笑う。
桜はそれよりも、サラが天使の羽の使い方を忘れているのではないかという不安を隠せないでいた。
「サラ、最後に羽を使ったのはいつ?」
「え〜と……人間界に来てからは一度も使ってないから、一年前かなぁ」
「なるほど」
サラの返事を聞き終わらないうちに、桜はその場から逃走していた。
「ちょ、ちょっと!待ってくださいよー……!」
命の危険に関わると判断した桜は、持ち前の運動神経を活かしてサラを撒くことに成功した。
サラが今朝からスマホにGPS監視アプリを入れていたことは把握済みだった。アプリが作動しないように電源をオフにして、建物の陰にひっそりと身を潜める。
「……ここならバレないはず」
安堵の息をついたのも束の間、何者かに腕を捕まれた桜の体は気づけば宙を舞っていた。
「うわぁっ」
突然の状況に驚きいつもの冷たげな表情がふわりと綻ぶ。何があっても無感情を貫いていた桜から、いままで聞いた事のない情けない声がこぼれた。
「捕まえました!桜さんてば驚きすぎですよ〜。あははっ」
「……んん」
少し頬を赤らめる。幼少期から動じない子と言われ続けてきた彼女の威厳と固いプライドは、これを夏の暑さのせいにしたのだった。
「ねぇ、なんで見つけられたの?」
GPSは無効にしたはずだ。出かける前に他にも不審物がないか確認したし、バッグの中身チェックも抜かりなかった。考えられる可能性があるなら、あとは体内だけだ。
「えへへー。桜さんがどこに居ようと、愛の力で必ず見つけだしますよ」
「なにそれ」
サラに見られないようクスリと笑うと、いつの間にか視界には一面の銀世界が広がっていた。積雪のように浮いている雲はどうしても冬を連想させるが、この蒸し暑さが唐突に夏に現実を連れ戻してくる。
思えば自分は夏にこれといった思い出がなかった。あんなに遠くに見えた積乱雲に、いまなら手が届きそうな気がした。
「あ、もうすぐ着きますよ!」
そうこうしているうちに、天界の展望は目と鼻の先に広がっていた。
「あれが天界……」
サラからは情報として正確に刻まれていた天界の妄想図だったが、やはり得意分野を活かしてもその妄想が吹き飛ぶくらいに本物は神秘に満ちていた。ギラギラと輝く幻想的なオーラと近未来都市のような見慣れぬ世界観は、古くから思い描かれてきたような予想とは大きくかけ離れていた。そこからくるギャップのような感覚に魅力され、桜は久方ぶりに本以外への興味を示そうとしていた。
唖然としている桜を微笑ましげに見つめていたサラはバサッとより大きく翼を広げたあと、それを刹那に背中の付け根へとしまい終えた。
「う、わぁっ」
静かに着地したあと、よろよろとふらつく桜。どうやら天界では重力が浮遊感により軽く感じるようだ。
「桜さん。人間が天界にいて気を抜くと、天に昇ってしまうような感覚に陥るらしいので気をつけて下さいね!」
「えっ……それいま言うの」
サラはまったくの天然という訳ではないが、基本的にどこか抜けている部分があるので多少警戒しておくべきだなと思った。
「あれです!天界図書館。人間界から魔界、異世界まで、様々な種類の本が気持ち悪いくらい並べてある宇宙規模の図書館なんですよっ」
ムフーと自慢気に解説するサラを横目に、桜は「宇宙?天界なのに?」と素朴な疑問を抱いていた。
天界図書館は天界の入口と天界市役所の間に堂々とそびえ立っている。天界にやってきた死者はここから天界についての知識や現世と来世の詳細を読み調べ、自分のペースで天界のシステムを理解することができるのだ。サラ曰く、天界市役所で面倒くさい言い回しを使った長い説明を受けるよりこっちの方がよっぽど分かりやすいという。
「へぇ、よくできてるね」
「天使たちや神は読書くらいしか娯楽がないので、業務のない日はみんな大体ここに来ますね。私は読み出すとどうしても眠くなっちゃうので、昼寝のときぐらいしか来ないんですが……」
あははと苦笑いする。
桜は、そんなサラにもなにか夢中になれるような小説を見つけてやりたいとずっと思っていたが、興味を持つようなジャンルをどう聞き出すかで悩んでいた。思えば無数にある自室の本をサラが眺めていても、どれひとつとして目に止まってはいなかった。もはや本を読むという行為にさえ嫌悪感があるのではと考える。だとすれば、まずはその原因から探るべきだ。
二人は互いの目的を胸に、天界図書館に足を踏み入れた。