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【ずっと。】~No1騎士と駆け落ちした令嬢は愛に溺れ愛に泣く~

作者: 白子奈可

 


 『この醜い戦争は王都で最も腕の立つの騎士、グラリスの活躍により終戦を迎える。その結果、多くの国民の命は繋がれ国に安泰と平穏が戻ったのであった』


 ……と、エリーゼはこの戦争の行く末を全て知っている。何を隠そう、ここは転生前に読んだ小説の世界そのものだから。そして今まさに王都では、物語の最重要局面、領土を争う隣国との激戦が繰り広げられていた。


 けれどそんな中、この物語の主人公、国王令嬢であるエリーゼと王国で最も腕の立つ騎士グラリスは――


「見てグラリス、アップルパイがとても上手に焼けたわ」

「林檎は生で食べたほうが美味いだろう」


 二人は古い民家で、のんびりまったり暮らしていた。そう、あろうことかこの二人、戦争が始まる直前に駆け落ちをしたのだ。


 エリーゼは当然知っていた。この先グラリスに待つ運命を。あのまま戦地に赴けば、彼は自分の命と引き換えに国を救うことになる。それを知るエリーゼは幾年もの年月をかけ、愛するグラリスを救うためにあらゆる策を練っては小説の内容を捻じ曲げてきた。


 けれど終に、戦争という事実だけは変えることができなかった。こうなればもう、グラリスを戦地から遠ざけるより他はない。


 幸いにもグラリスもエリーゼを心から愛していた。「あなたが戦争へ赴くのなら、私は自らこの命を絶ちます」エリーゼの本気の言葉はグラリスにも届いたのだろう。そうして二人は残暑が残る暑い夜、王都からひっそりと姿を消した――。


 *****



 鳥が空を飛んでいるのが窓から見えた。


 エリーゼが眠りから目覚めたのは五分前、時計の針は十時三十分を指している。カーテンを閉め忘れた小窓から朝の日差しが差し込んで、寝すぎてしまった頭をガンガンさせた。寝すぎるといつも頭痛が起こる。


(令嬢生活が終わったからといって、悠々自適に暮らし過ぎかしら。……アイタタッ)


 脈のリズムと一緒に痛むズキズキは、偏頭痛の特徴だ。冷やすくらいではこの痛みが治まらいことを、エリーゼはとっくに知っている。常温のまま置いてあるボトルを手に取ると、少し強めの頭痛薬を口に投げ入れた。


「うぇ……」


 エリーゼは昔から薬を飲むのが下手くそだ。固形の粒をどうやって喉に流せばいいのか、そのタイミグが掴めない。


 頭痛薬は最後の一錠だった。次の頭痛がきた時に困るから買いに行かないと。でも面倒くさい。でも行かないと。エリーゼは葛藤のすえ外に出る準備をして上着を羽織る。その時、ドアが開く音がした。


 ドアが開くということは誰かが入ってくるということで、その人物を確認するため振り向いて待つ。


 (この家の鍵を持っているのは誰だったかしら? そうだわ、あのお方しかいない)


「今戻った」涼しげな顔で言われたから、「おかえりなさい」そう答えるのが当然だ。けれどどうしてだろう、愛する人とのいつものこのやり取りが、エリーゼはやけに懐かしく感じた。


「エリー、そんな格好をして暑くないのか? 今は夏だ。なぜ上着を着ている」


 言われてみると確かに体が汗ばんでいた。蒸し蒸しする夏の空気に、季節感もなく着ていた上着をすぐに脱ぐ。下には厚手のドレスを着ていたものだからまだ暑くて、でもこれ以上脱ぐわけいはいかないのでやめておく。


(どうりで夜も寝苦しいはずだわ)


 毛布もしまっていい季節なのに、ベッドには分厚い布団まで乗っている。一体どこで季節を間違えたのだろうか、頭痛で頭がおかしくなってしまったのかとエリーゼは首を傾げた。


「頭痛薬を買ってきた」

「まあ! どうして頭が痛いとわかったの?」

「エリーのことならなんでもお見通しだからな」

「なんでも? では、今私が思っていることは?」

「グラリス、愛してる」

「ふふ、残念。グラリスは今日も無表情ね、でした」

「お前のそれは『愛している』という意味だろう」

「あら、ずいぶん都合のいい解釈ね」


 購入してきた頭痛薬をテーブルに置いて、グラリスはソファーに座りエリーゼを呼んだ。呼ばれるがまま向かうと、グラリスの膝の上に正面から跨る素直なエリーゼがいる。


 素直なエリーゼの手は、すぐにグラリスによって絡めとられるように繋がれた。


「グラリス、どうして朝帰りを?」

「少し用があってな」

「まさか、他の女性と夜を共に?」

「すると思うか?」

「いいえ、ちっとも」


 ふ、と笑んで、グラリスはエリーゼの後頭部を引き寄せキスをした。ジメジメとした夏の暑さを猛烈に感じ、大好きな彼の温もりすら苦痛になる。暑いと言って少し離れようとするエリーゼを力いっぱい抱きしめて、「まだ離すわけにはいかない」と、グラリスは有能騎士だけあって力強くエリーゼを抱いた。


 王都では冷酷な騎士を演じていても、エリーゼといるときはじゃれたがる可愛い男がグラリスという人間だ。離れたいエリーゼと離さないグラリスは、その格闘の末ソファーから転落。それでもグラリスのしつこい腕はエリーゼの細い腰に回ったまま離れない。


「離してたまるか」

「ふふ、では勝負ね」


 令嬢あるまじき振る舞いで、エリーゼはグラリスの体を蹴飛ばしてみる。けれど全然意味はなく、格闘してると余計暑さが増してくるだけだ。そんなことに気づくのが遅いエリーゼは相当バカだと、二人は床に寝転がったまま笑った。


「そういえば、郵便受けが溢れていたぞ」

「え、本当?」

「令嬢は郵便受けを見る習慣がないからな」

「グラリスが取ってきてくれてもいいのだけど」

「残念ながら、騎士も郵便受けを見る習慣はない」


 一緒に住んでいるにも関わらず、グラリスが郵便を取ってきてくれたことは一度もない。「まったく!」と言いたくなる気持ちを抑えて取りに向かうと、すぐに目に飛び込んできた。

 一体どれだけ放置してたのか目を疑うほどに溢れている郵便は、間違いなく私たちの家のものだ。片手では持ち切れないそれを両手で抱えて、グラリスの元へ戻った。


 郵便のほとんどは新聞で、その他はご近所で行われるお祭りや催事ごとの知らせだった。一通り目を通したかと思えば腹が減ったと、グラリスはまるで子供みたいに主張してくる。エリーゼのシチューが食べたいと、どこか甘えた声で駄々をこねてくるのはさすがに珍しいけれど。


 グラリスの好物であるシチューの材料は、いつも常備してある。けれど戸棚に入れていた玉ねぎや人参は傷んでいて、肝心のミルクもダメになっていた。食材までもが季節を間違えている様で、棚の中は全て腐っていた。


「材料を買いに行かないと作れないわ」

「では、買ってきてくれるか」

「グラリスも一緒に行きましょう」

「そうしてやりたいところだが、俺は疲れたから少し寝る」


 いつもなら一緒に来てくれるのに、朝に帰ってきた上に買い物に行けと言われてむっとする。口を膨らませるエリーゼを見て、既にベッドに寝転ぶグラリスは愛おし気に目を細めた。


「そんな変を顔をするな、可愛い顔が台無しだ」

「元々変な顔なのよ」

「そうだったな」

「もう! でもグラリスだって、自分が思っているほどかっこよくはないわ」

「別にかっこよくなくてもいい。エリーが俺を好きでいてくれるなら、なんでも」

「……なんでも?」

「ああ」

「不細工でも?」

「ああ」

「髪の毛が、薄くても?」

「ああ」

「足が短くてもいいのかしら?」

「ああ」

「ふふ、変なグラリス」


 そんな会話を続けるうちに、グラリスはスースーと寝息を立てて眠りに落ちた。


(疲れているというのは、本当だったのね)


 今着ている厚手のドレスでは暑すぎるから、小さなクローゼットを開けて夏物を探す。けれど目に見えるのは暑そうなものばかりで、夏服は奥の奥にしまわれていた。クローゼットの中までもが季節を間違えているようだった。


 どうにか一着を引っ張り出して着替えをしたら、込み上げてくる何かに気がつく。淡いブルーの夏らしいドレスは、まだエリーゼたちが王都に住む1年前、グラリスが褒めてくれたお気に入りだ。


 ……どうしてだろう、エリーゼの瞳から涙が零れた。


 グラリスにバレないように、エリーゼはしゃがみ込んで息を潜めてこっそり泣いた。


*****


 買い物から帰ってきたのは午後一時を過ぎた頃だった。グラリスはすっかり起きていて、部屋に飾ってある写真たちを眺めている。生まれ変わったエリーゼが唯一、前世の世界から持ち込んだものがカメラだった。


 この部屋に貼られる写真たちは、エリーゼとグラリスの甘酸っぱい思い出が沢山詰まった大切なもの。出会った時からこれまでの、くだらないけれど大切すぎる思い出は、いつもカメラを持ち歩くエリーゼのおかげで溜まりに溜まった結晶だ。


 初めて出会った騎士の稽古場で、グラリスが不機嫌そうに目を背ける瞬間も、こっそり逢引きをして見に行った王都の夜景も。前世でいうバレンタインの日には、形の悪いチョコレートに「これは食いものか?」と毒づいた後にぺロリと食べてくれた瞬間も。そのお礼にと柄にもなく大きな花束を持ってきて「かっこいい騎士グラリス」を演出していた瞬間も。


 くだらなすぎる日常が壁には何枚も貼られていて、その写真を寝起きのグラリスは食い入るように見続けている。


「シチュー、召し上がれ」


 数十分かけて作ったシチューをテーブルに置いても、グラリスはまだ写真を見ていた。ずっと貼ってあるものだからそんなに珍しそうに見なくたっていいはずなのに、変なグラリスに首を傾げて、もう一度シチューが出来たことを告げた。


「懐かしいな、この写真。この町に来てすぐ、浮かれたエリーゼが酒を飲み過ぎて噴水に飛び込んだ衝撃の写真だ」

「ええ、そうね。でもグラリス、普通写真を撮る前に噴水に飛び込んだら心配するのが恋人だと思うの。いいえ、恋人じゃなくてもするわよね」

「ケガはないようだったし、楽しそうだったからな」

「そういう問題?」

「心配するな、本当に死にそうな時は死んでも守ってやる」


 憎たらしいくらいの男らしさをアピールして座ったグラリスは、いただきますと告げてシチューを食べた。グラリスにシチューを作るのは何回目だろうと考える。数えたって分かる訳ないくらい何度も作ったその味は、彼の胃袋で全て溶けてなくなっていく。


 頭がおかしいと思われるかもしれないけれど、エリーゼはそんなシチューが羨ましいと思うことがあった。それはグラリスに好かれているとか、グラリスの好物だからとかではなくて、エリーゼもグラリスの体に呑み込まれて溶けてしまいたいと、若干引かれてしまうような思考が頭を過るときがあるからだ。


 実際そんなこと出来るわけないし、実際されたら引くのはきっとエリーゼのほうで、「気持ちが悪い…」とか逆に言ってしまうのだろうけれど、それでも彼の体に溶けて一つになりたいと、深すぎる愛情がそう叫ぶときがある。


「気持ち悪いわね、私」

「たまにな」

「否定するわよね、普通」

「たまにだから気にするな」

「グラリスだってたまに気持ち悪いわよ?」

「知っている」

「……」

「……」

「私のことが好き過ぎるところ、気持ち悪いわ」

「お互い様だな」


 ポツリポツリ呟き合いながらシチューを食べ終え、食器を洗う途中に気づいたのはこの部屋で季節が止まっているもう一つのもの。それは忘れ去られていたカレンダーだ。


 キッチンの壁に貼られているカレンダーはいつもグラリスが捲ってくれていたから、エリーゼが捲った記憶は一度もない。


「グラリス、今日って何月何日だったかしら」

「七月二十日の土曜日。なに寝ぼけているんだ?」


 三ヶ月間も捲られていなかった可哀想なカレンダーは、四月のまま止まっていた。


 洗い物を終えてソファーに座ると、待ってましたとばかりにグラリスが寄ってくる。「暑いから離れて」なんて言葉は無視されて、ピタリとくっついたお互いの腕がジワリと蒸れる。グラリスは寝転がりエリーゼの太ももに頭を置いた。


「膝枕というのは、正確には太もも枕だな」なんて言う声が聞こえるけれど無視をして、ソファーの背もたれに寄り掛かったらなぜか深いため息が出た。


「ため息を吐くと幸せが逃げるらしいぞ」

「逃げたいなら逃げればいいわ」


 幸せなんか逃げたって、エリーゼはちっとも怖くなかった。だってグラリスがいてくれるならそれでいい。グラリスがいれば辛くても悲しくても乗り越えられる自信があるし、エリーゼは世界一強くいられる。そんな自分はやっぱり気持ち悪いと思うけれど、きっとエリーゼの気持ちを察したグラリスが嬉しそうにしているからそれでいい。


 エリーゼの世界はグラリスで出来ていて、グラリスの世界はエリーゼで出来ている。

 それでいいんだ。


 太ももから起き上がったグラリスは、エリーゼの頭をグッと引き寄せた。耳元で「好きだ」と囁かれ、耳が火照るように熱を持つ。

 

 エリーゼを抱き寄せたグラリスは、そのまま体重をかけて押し倒し、見下ろす状態でキスをした。


「エリー、このまま溶けて一つになりたくないか?」

「なりたく……ないわね」

「この雰囲気、なりたいと答えるところだろう」

「だって暑いのは嫌いなの」

「だが、俺は今すぐ一つになりたい」

「その言い方、気持ち悪いわ」

「お互い様だな」


 グラリスにはどんな些細なことだってバレバレだ。一つに溶けてしまいたいと言う彼が気持ち悪いなら、エリーゼも同じように気持ち悪い。なぜかというと最初にそれを思っていたのはエリーゼのほうで、そんなのグラリスは最初からお見通しの顔をしている。


 キスをした。

 抱きしめられた。

 手を握られた。


 気持ちが昂り好きと伝えたら、グラリスは泣きそうな顔をして笑っていた。


 どうしてだろう、エリーゼの瞳にまた涙が滲む……


「エリー、記念に写真を撮ろう」

「なんの記念?」

「今年の夏も二人で過ごせた記念、だ」

「ふふ、バカな恋人同士みたいね」


 間違いではないだろうと笑ったグラリスに肩を抱き寄せられ、夏の記念写真を撮った。また一つ思い出が増えたことに結局は笑い合って、カメラからすぐに出て来たそれを壁に貼った。


 写真を貼りながら、壁に並ぶ沢山の写真をなんとなく眺める。改めて見ると懐かしい物ばかりで、さっきグラリスがまじまじと見ていた気持ちが少しだけ分かったような気がした。そんな中で目に留まったのは、去年の夏の写真だ。


 あの年の夏は連日すさまじい暑さが続いて、ギラギラ照りつける太陽を消えてしまえと本気で嫌いになりかけたりした。太陽がなくなれば世界は恐らく真っ暗になって寒くて寒くて生きてもいけなくなることなんて考えもせず、ただ涼しさを求めて太陽を憎んだ。

 

 それでも暑さはおさまることなく、あまりの暑さに太陽神に祈ったりもした。太陽の熱を下げてくださいませ神様、と。空に向けて祈るエリーゼを見て、グラリスは冷ややかな視線を向けていた。


 こんなにも鮮明に覚えているのは、きっとこの時の二人の会話のせいだってことぐらい、エリーゼにはすぐ分かった。そう、あれは丁度一年前のこと――…


「来年の夏、私たち何をしているかしら」

「仕事をしているんじゃないか」

「あなたはそうだろうけど」

「だが、そうか。戦争が始まる前に考えなければならないな」

「考えるって、何を?」

「お前との婚儀について、国王に認めてもらう方法を、だ」

「! 私たち、結婚するの?」

「しないのか?」

「い、いつのことかしら?」

「戦争が終わった頃、だな」


 ふっと笑ったグラリスは、エリーゼの後ろに座りぎゅっと抱きしめた。回された逞しい腕は温かく、彼の体温と夏の温度が混じり合った、とても熱いものだった。


「私の妻になってくれ、エリー」

「な、なんだか恥ずかしいわ」

「何がだ?」

「色々よ」

「もし許可が下りなければ、駆け落ちという手もある」

「私、まだ結婚すると答えていないわよね?」

「聞かなくてもわかる」

「でも、答えてないわ」

「でも、わかる」

「でも答えてないわ!」

「じゃあしないのか?」

「…………する」

「ああ、知ってた」



 これが去年の夏だった。グラリスにプロポーズをされた去年の夏。


 それから秋が近づいて、いよいよ国同士の領土争いが本格化してきた頃――エリーゼとグラリスは、駆け落ちをした。


 遠く離れた町の小さな民家に身をひそめ、最初こそ不慣れな生活に戸惑いはあったけれど。それでもグラリスがいるだけでエリーゼの毎日は幸せだった。近場の果樹園に果物狩りに行ったり、グラリスはこの町での仕事に精を出したり、エリーゼは料理の腕を磨いたり。


 そんな日々が続き秋が深まると、二人は厚手の布団と毛布を出して、その代わりに夏の服を奥にしまう衣替えの作業を終わらせた。


 そして冬がやってきた頃には、二人で同じ柄のマフラーを編み、すれ違う町人には仲良しねぇと微笑まれたりもした。


 暑い暑いと喚いた夏よりももっと喚くのは実は冬で、二人共寒いのが大っ嫌いだから食材の買い出しに行くにも重い腰をあげるまでが大変だった。寒い寒いとお互いの体をぶつけながら、手を繋いで冬の道を歩く。グラリスに繋がれた手は彼のコートのポケットに誘導され、その中は酷暑の夏よりも暑い場所だった。


 この日は確か煮込みハンバーグを作ったと思い出したのは、壁にその時の写真が貼ってあるから。


 そして冬は終わりを告げて、春がきたんだ。

 今から三ヶ月前の四月、待ちに待った春がきた。


───エリー、大事な話がある


(……? 今の声は……)


 壁に貼られる写真たちを見て、これまでのことを振り返っていた。

 グラリスは買ってきてくれた頭痛薬の袋を何気なく見ているけれど、相当疲れているのか再びベッドに寝転んだ。その場所でさっきと同じようにちょいちょいと呼ばれたから素直に向かうと、彼の腕枕の上でエリーゼもベッドに寝転んだ。


 天井が見える。なんの変哲もない、白い天井。


「エリー、俺のこと好きか?」

「ええ」

「どのくらい?」

「たくさんよ」

「たくさんというのは、どのくらいだ?」

「グラリスがいないと生きていけないくらい、かしら」


 「それはいただけないな」と嬉しそうに言ったグラリスは、腕枕の手でエリーゼの頭をわしゃわしゃ撫でた。駆け落ち後も相変わらず仲がいい二人の耳に、開いた窓の向こうから子供たちの笑い声が届く。


 エリーゼはグラリスとの未来を想像した。いつか子供が出来て、父と母になる姿。もっと広い家に引っ越して犬を飼い、子供もどんどん大きくなって、反抗期にはクソババアなんて言われたりして、気づいたら二人ともシワの数が増えていて、気づいたら結婚何十周年のお祝いをして、孫もいつか出来るのかもしれない、と。


 レースのカーテンが風に乗ってゆらゆら揺れる。さっき取り込んだ棚の上の郵便物が、揺れるカーテンに押されてパラパラと数枚落ちる音がした。


 子供たちの笑い声は希望に満ちていて、これから先の未来を走っていくような足音を響かせ消えていった。


 好きな人の隣で寝転ぶこの時間はきっと何より幸福だと思うのに、希望に満ちて未来へ走る子供たちには敵わない気がしてエリーゼは悲しくなった。


 エリーゼの未来は、希望で満ちているのだろうか。


*****


 いつの間にか眠っていたらしく、目を開けると外は夕日で真っ赤に染まっていた。隣を見るとグラリスが笑っている。「口を開けて寝ていたぞ」なんて言われたからゲシッとケリを入れてやった。


 憎たらしく笑うグラリスが夕日の赤に染まっていて、必要以上のムードを醸し出しているように見えたから、エリーゼはわざと顔を背けてそっぽを向いた。


「なぜそっちを向く」

「別に、なんでもないわ」

「こっち、向かないのか?」

「……」

「ほう、そういう態度を取るんだな」

「わ!?」


 一瞬の沈黙が襲った後、彼の器用な指先がエリーゼの腰をくすぐりだした。敏感な腰をうねり、声にならない声でエリーゼは暴れる。しつこい指は止まることを知らず、暴れるエリーゼをどこまでも追いかけてくるから二人はベッドから転げ落ちてしまった。


 器用に背中から落ちたエリーゼの目にはまた天井が見えたけれど、さっき白かった天井は夕日のせいで必要以上に赤く染まっていて、それはエリーゼが嫌いな色だったと今更思い出す。


 嫌いな色に染まるグラリスは見たくない。だから顔を背けたんだと、今更気づいた。


 エリーゼが両足をベッドの上に乗せると、グラリスも真似るように両足を乗せた。ベッドの上の足をバタバタとバタつかせてみると、グラリスも同じようにバタバタとバタつかせる。令嬢あるまじき行為だけれど、エリーゼは元令嬢。今はこんなことだってしてしまうくらいお転婆だ。


「真似しないでちょうだい」

「真似しないでちょうだい」

「もう! 気持ち悪いわ、グラリス」

「気持ち悪いな、エリー」

「グラリスバカ」

「エリーのバカ」

「エリーは世界一の美女ね」

「エリーは世界一の美女だな」


 ふ、と笑ったグラリスを見て、胸の奥がつんとする。エリーゼからの会話は、そこで途切れた。


「エリー?」

「ねえ、グラリス。……大好き」



───エリー、大事な話がある。俺は一旦王都に戻って、国と国民を守る


───何を……何を言っているのグラリス!


───心配するな、必ず生きてエリーの元に帰ってくる



(ねえ、グラリス……)



「どうして死んでしまったの……グラリス……」



 全てを思い出したのは、部屋が一番真っ赤に染まった時だった。


 どうしておかえりと言うのが懐かしかったのか、どうして涙が勝手に出たのか。どうしてベッドの上に布団があったのか、どうして夏のドレスが奥にしまわれていたのか、どうして戸棚の中身が腐っていたのか、どうしてカレンダーが捲られていなかったのか、どうして郵便が溢れていたのか。


 どうしてどうしてどうしてどうして。


(どうしてグラリスは死んでしまったの……?)


 エリーゼの世界はグラリスで成り立っていて、グラリスの世界はエリーゼで成り立っている。

 どんなに世界が広かろうが、グラリスがいない世界なら、エリーゼの世界は無いに等しい。


 エリーゼの季節は、三ヶ月前で止まったままだ。




───俺は一旦王都に戻って、国と国民を守る


 止めることができなかった。自分の幸せを優先してグラリスを引き留めることは、国民の命を見捨てるということ。けれど行ってほしくない、そばにいてほしい。そんな願いからエリーゼは数時間遅れでグラリスを追い王都に戻った。


 久しぶりに足を踏み入れた王都は地獄絵図と化していて、進みたいのに足が震えて後ずさる。


 空が真っ赤な夕暮れだった。エリーゼを狙った敵国の騎士が、剣を振りかざしたとき、


「エリーゼ――!!」


 グラリスはエリーゼを力いっぱい遠くへ突き飛ばした。

 エリーゼは無傷だった。剣が突き刺さり倒れたグラリスは夕日に照らされ、必要以上に真っ赤になっていた。


*****



「夜はスパゲッティでどうだ?」

「グラリス」

「作ってくれるか?」

「グラリス」

「作ってくれ」

「……」

「濃い目のトマト味で頼む」


 ベッドの下に寝転んでいた体を起こしたグラリスは、エリーゼにも起きろと言うように腕を無理矢理引っ張った。グラリスは念を押す様に「濃いやつな」ともう一度言って、キッチンへ向かうエリーゼの背中を目で追っている。


 シチューの買い出しの時に買っておいた野菜やお肉を取り出して、棚の下にしまわれていたスパゲッティの賞味期限を見てみると、どうにかギリギリ大丈夫そうでほっとした。


 エリーゼの記憶は途切れている。真っ赤になって死んでしまったグラリスを見た時から今朝までの記憶が、ハサミで切り取られたように途切れている。今日は七月二十日で季節はすっかり夏なのに、取り残されたエリーゼは春の戦場の中を未だに彷徨い続けているみたいな違和感が消えない。


 ただいまと言って帰ってくるグラリスを待ち続けて、死んだように季節を無視して待ち続けて、そうやって三ヶ月も過ごしてきたんだ。


 エリーゼの世界はエリーゼを乗せたまま、エリーゼを無視して進んでいく。


 季節は進む。

 時間は進む。

 エリーゼを残して、この世界は進んでいく。


(夢を見ているんだろうか)


 グラリスはただいまと帰ってきて、頭痛薬を買ってきてくれて、二人でシチューを食べて写真を撮って、ベッドでゴロゴロして。そして今は美味しそうに目の前でスパゲッティを食べている。

 

(これは都合の良い夢? 私は夢を見ているの?)


 今更強く思った。逝かないでほしい、死なないでほしい、ここにいてほしい。


(私の願いは神様には届きませんか? 夏の暑さも冬の寒さも頭の痛さも我慢するから、だから神様どうかお願い、どうかグラリスを返してください。……強く強く願っても、神様には届きませんか?)


「ごちそうさま」

「グラリス」

「美味かった」

「グラリス」

「やっぱりスパゲッティはトマトに限るな」

「グラリス!」

「……なぜ泣いている」


 涙が流れた。恐らく三ヶ月分、エリーゼは泣くんだ。


「……グラリス」

「ああ」

「グラリス……ッ……」

「ああ」

「……ッ、、…、……グラ、リス……」


 この声が届かなくなる時が来ることくらい、エリーゼは分かっていた。神様はきっとそんなに親切ではないし、神の仕業でないのなら、完成された小説のラストは変わらないということだ。


 声の届かない場所へ、姿の見えない場所へ、もう永遠に会うことのできない遠い場所へ、二人は引き裂かれるのだから。


「シチュー、美味かった。ハンバーグもスパゲッティも美味かった。一生食べられると思っていたんだが、どうやら無理そうだ」

「やだ、一生食べられる、私作るからっ」


 ふっと笑ったグラリスは、腕を伸ばしてエリーゼを抱き寄せた。

 グラリスの息遣いが、震えている。


「戦争が終われば結婚すると言ったのに、約束を守れなくてすまない。……結婚、したかったな」

「しようよ、ねぇ私グラリスじゃなきゃやだ、グラリスがいなきゃいやだっ」


 グラリスがいないといつまでも春の先に進めない。季節が勝手に進んで行って、とてもじゃないけれど追いつけない。エリーゼは必死に泣き叫び訴えた。


「お願い逝かないで、私を置いて見えないところに消えないで……っ」

「エリー……」

「グラリスがいないと今が夏だってこともわからない、食べ物だって腐っちゃう、ドレスだって暑いのを着てしまうし郵便も溢れたままになる、カレンダーだって捲るの忘れて、布団だって……、全部、グラリスがいないとうまくできない……っ」


 怖い。グラリスがいないこの部屋に、一人取り残されるのがエリーゼ恐ろしくてたまらなかった。


「俺だって怖い。エリーに会えなくなるのも、エリーに触れられなくなるのも、エリーに忘れられるのも」

「…、、っ……」

「本当は怖くてたまらない。だがエリー、今日は七月二十日で、時間は止まってはくれない」

「……やだっ」

「エリーの心が止まっていても、時間は進んでいる」

「やだ、聞きたくないっ……」

「季節も流れている」

「――やめて!」


「エリーは生きているんだ」


 抱き寄せられた腕から抜け出したエリーゼは、必死に首を横に振る。

 生きている。だけど生きてはいけない。グラリスのいない世界なら、生きていけるはずがない。


「グラリス、……お願い、……置いていかないで…っ…見えないところに、…触れないところにいかないで。お願い……お願いだから……っ」


 泣き崩れるエリーゼの涙に混ざって、グラリスの涙も一緒に落ちた。


 もう一度抱き寄せられた腕の中で、エリーゼは一生分の涙を流した。ぎゅっと掴み合うように抱きしめ合ったお互いの腕は震えていて、このまま一緒に消えてしまいたいと本気で思った。


「エリーはいつかまた恋をして、幸せになる」

「いやだ、……しない」

「なら恋はしなくても、幸せになる。そうすれば俺も、幸せだ」

「でも──」

「生きていれば楽しいことがたくさんあるだろう?」

「グラリス、……いないくせに」

「俺はちゃんとエリーの中にいる。念願の、このまま溶けて一つになりたいというやつだ」

「やだ、……なりたくない」

「なりたがっていただろう?」

「でも今はなりなくないっ」


 耳元でグラリスが「わがままだな」と呟いた。


 泣きじゃくるエリーゼを抱き上げたグラリスは、そのままベッドに下ろして涙の上にキスを落とす。


 グラリスが初めて、「愛している」と呟いた。


*****



「グラリス、グラリス」


 窓から一番星が見えたけれど、その星の名前は分からない。キラキラと輝くそれは涙で滲むせいで余計にキラキラ光って見えて、涙が頬を伝うと流れ星のように流れて見えた。


「グラリス、星がきれいね」

「一つしか見えないが」

「でもきれいじゃない」

「そうか?」

「そうよ」


 夏の生温かい夜風が窓からサワサワと吹いてきて、涙が伝う頬をかすめた。グラリスはベッドにエリーゼを運んだあと、自分も同じように寝転んだ。二つ並んだ体は体格差があるはずなのに、今はどちらも弱弱しい。繋がる手があってやっと、深く息を吸えている気がした。


 風が吹く。

 星が光る。

 涙が零れる。


 握られた手がエリーゼを強くしてくれるのなら、この手が消えてしまったとき、エリーゼはどうなってしまうのだろう。引き裂かれる二人の未来は、一体どうなってしまうのだろう。


 分からないから怖い。分からないから悲しい。だけど分からないから、その先にほんの少しの希望を持てる。


 風が吹く。

 星が光る。

 涙が零れる。


 涙が零れる。


 涙が零れる。


「……いつか」


 グラリスが呟いた声に、エリーゼは耳を澄ませて目を閉じた。


「いつかまた、会える。その時はもう、お互い違う姿かもしれないが」

「違う、姿……」

「でも俺は、なんだっていいんだ」

「……なんだって?」

「エリーの恋人でも親友でも家族でも、なんだっていい」

「……」

「なんだっていいから、会いに行く」


 風が吹く。

 星が光る。

 涙が零れる。


 涙が零れる。


「……私も、会いに行く」


 耳元で聞こえた「ありがとう」の声は、思い出の中のどの瞬間よりも優しい声だった。

 いつか必ず会いに行くと、エリーゼは誓った。小説に続きはないのだから、強く願いさえすればきっと今度こそ叶うはず。


 大好きな人と引き裂かれる運命を、大好きな人が消えてしまう現実を、いつまでも飲み込めない自分の弱さを、いつか訪れる再会の日まで願いに変えて、そんな風に生きてみよう。エリーゼは強く、心に誓った。


(グラリス、大好き。このまま溶けて一つになろう、グラリス)





 鳥が空を飛んでいるのが窓から見えた。


 エリーゼが眠りから目覚めたのは五分前、時計の針は十時三十分を指している。カーテンを閉め忘れた窓から朝の日差しが差し込んで、寝すぎた頭をガンガンさせた。寝すぎるといつも頭痛が起こる。


(瞼がうまく開かない、泣きすぎて目が腫れてるんだ)


 隣にグラリスの姿はなかった。心がずんっと沈んだけれど、ベッドから腰を上げたタイミングで賑やかな音楽が外から聞こえた。週に一度町に流れる放送だ。近隣国からの知らせや世界情勢を伝えるそれは、新聞を取っていない家にとってはとても貴重な情報源だ。


 その放送で、王都の戦争が終わったことが知らされた。『あの日、(はやぶさ)のように現れた英雄グラリス。彼の存在は瞬く間に兵士たちの志気を上げ、王都は勝利を手にした』、と伝えられた。


 けれどエリーゼはそれよりも、最後の言葉に耳を疑った。『本日、七月二十日、土曜日のお知らせでした。皆様、それではまた来週』と締めくくられたのだ。


「七月二十日……」


――グラリス、今日って何月何日だったかしら


――七月二十日の土曜日。なに寝ぼけているんだ?


 ベッドを見ると布団と毛布が乗っていて、その光景は窓から照りつける夏の日差しには当たり前に似つかわしくないものだった。戸棚には腐った野菜が入っていて、グラリスに作ったはずのシチューの残りも見当たらないし、捲ったはずのカレンダーは四月のまま止まっていて、出したはずの夏服は奥の奥にしまわれていた。グラリスが買ってきてくれた頭痛薬も見当たらなくて、何もかもがなかったことに、何もかもが夢のように消えていた。


「……夢」


 棚の上の袋を開けると頭痛薬の最後の一錠が入っていたけど、どうしてか飲む気になれなくてテーブルの上にポイっと放った。


(夢を見ていたんだ。きっとグラリスが夢の中に現れて、季節が止まっていることを教えてくれたんだ)


 本当の七月二十日は今、この瞬間から始まる。


(大丈夫、分かる、大丈夫。今は夏だし戸棚の整理をしないとだし、布団もしまって夏服を出して、そうだカレンダーも捲らないと。頭痛薬も買いに行って、きっと郵便受けは溢れているから取りに行こう。大丈夫、季節に追いついた、大丈夫)


「……大丈夫、大丈夫」


 くじけそうな胸をぎゅっと押さえて息を吐く。少しだけ浮かぶ涙を堪えて息を吸う。


(大丈夫、私は大丈夫)


「よし、まずは布団から」


 今となっては触るだけで暑さが滲む布団を二つに畳む。その前にやっぱり毛布を先に畳んでしまおうかと、エリーゼが手を伸ばしかけたとき──窓からふわっと風が吹いた。


 夏にしては心地よい冷たさを持つその風に乗って、壁に貼られた一枚の写真が静かに揺れた。



 ───記念に写真を撮ろう

 ───なんの記念?

 ───今年の夏も二人で過ごせた記念、だ



「……どうして……」



 堪えた涙はエリーゼの視界を瞬く間に滲ませ、拭う間もなく次から次へと溢れ出す。


 やっぱり七月二十日はグラリスと過ごしていたんだと、エリーゼは確信した。


(写真一枚残していくなんて、ズルイい。それにグラリス……どうしてこんなに幸せそうに笑っているの?)


 わかっていたくせに、別れがくることを知っていたくせに。


「……グラリス」


 やっぱりまだ少し、涙は止められそうにない。


「グラリス……」


 でも大丈夫、エリーゼは今日を生きていく。


「グラ、リスっ、、……」



 写真には、見覚えのあるグラリスの筆跡で文字が書いてある。



「…っ………私だって、…ずっと、……」




『エリー、ずっと大好きだ。ずっと、ずっと。』





おわり



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