11.公爵邸へ
ペパーミントのような香りと共に、すぐ隣で少し速い息づかいが聞こえる。
「こんなことになってしまってすまない」
耳元で囁くように声をかけられ、思わず身体を仰反ろうとするが空間が狭くて思うように動けない。
私は今、暗くて狭いクローゼットの中にいる。
拳ひとつ分もない程に距離が近い彼は、私の頭上にある壁に片腕を置いて身体を支えつつ、外に意識を向けている。
私は声を潜めながら、彼へと声をかける。
「……レイモンド様。これは一体──」
隙間から漏れる光で、ゆるい癖毛の黒髪が照らされた。
◇◇◇
時は少し戻り。
私はミューラー公爵邸へと到着し、馬車を降りた。
(ここへは、夜会や行事以外で初めて来るわ)
大きな公爵邸を見上げる。天気が曇っているせいか少し暗く感じた。
(? この感じ……なんだか……)
「さあシェリル嬢、こちらへ」
「っ、はい」
レイモンド様の言葉にハッとし、そのまま家の中へと足を運んだ。
「坊ちゃん、お帰りなさいませ」
「ただいま帰ったよ。父上の帰宅はまだかい?」
「はい。本日は遅くなるかと」
「わかった」
ミューラー公爵様に、私が居ることがバレるのは都合が悪いのだろう。
(別にお父様からミューラー家と関わるなとも、家に行くなとも言われていないし大丈夫よね)
それでも念のため、図書館からフォンク家の馬車を帰す際に、御者にミューラー家へ伺う旨をお父様へ伝えるよう言付けた。
「本は妹に貸していてね。よければ妹の部屋まで一緒に来てくれると助かるよ」
「マリアベル様のお部屋に? よろしいのでしょうか?」
サラリとマリアベル様のお部屋に向かっていることを知り、やや焦る。
「もちろん。夜会でシェリル嬢と話したことを伝えると、妹も話してみたいと言っていたよ」
「……そうですか?」
(いくらなんでも急すぎないだろうか)
そのまま談話室を通り過ぎて、半信半疑のままマリアベル様のお部屋まで案内された。
「マリー、入るよ。」
ノックの後、私はレイモンド様に連れられて部屋の中へと入る。
クラシックな家具で揃えられた室内。その奥にあるベッドの上に、身体を起こしたマリアベル様がいた。体調が良くないのだろうか。
レイモンド様と同じ緑色の瞳に、長い黒髪をゆったりと編み込んで片方の肩に流している。
私たちを視線で捉えたマリアベル様は、こちらに向かって美しく微笑んだ。
「こんにちは、シェリル様。夜会やお茶会などでお会いしていましたが、こうして直接お話しするのは初めてですわね」
「マリアベル様。このような機会が得られるとは思いもしませんでした」
「うふふ。レイ兄様ったら、強引ですこと」
マリアベル様につられて私も微笑むが、頭の中では全く違うことを考えていた。
(……マリアベル様の胸の辺りにある、黒いモヤは何なのだろう)
彼女の胸のあたりに、ドス黒いモヤはがうごめいていた。見ているだけで不快感が募っていく。
一瞬モヤから視線を外し、微笑むマリアベル様を見る。彼女はどこか憔悴しているようだった。
痩せているというよりやつれており、先日の夜会には「来なかった」のではなく「来れなかった」のだろうと悟る。
「実はマリアベルは少し体調を崩していてね。このままですまない」
「い、いえ」
「……シェリル嬢? どうかしたかい?」
「っ」
探るような私の視線にレイモンド様が気付いたようだ。
大きな声で言うのも憚られて、やや小さい声でレイモンド様へと問いかける。
「レイモンド様。あの黒いものは何でしょうか?」
「黒いもの?」
「…………見えないのですか」
ゆったりとこちらを向いて微笑んでいるマリアベル様を見ながら、レイモンド様は私の言葉に首を傾げた。
(胸がザワザワする。あの黒いモヤが気になって仕方がない)
そもそもミューラー公爵家に入ってからというものの、なぜかとてもソワソワしていた。
(何か絶対に見落としてはいけないものがあるような、何かが私を呼んでいるような……)
「シェリル様?」
マリアベル様も私の異変に気付き、こちらを不思議そうに見る。その胸の黒いモヤはゆらゆらと不気味に動き、気味が悪い。
(……我慢できないわ)
この目の前にある黒いモヤを何とかしたいという思いに駆られ、私はマリアベル様へ駆け寄った。
「マリアベル様。お胸の辺り、なにか違和感がおありですか?」
「っ」
私が声をかけるとマリアベル様は翡翠色の目をまん丸にした。
「え、ええ。実は近頃、息苦しくて。動くと息がもたないので安静にしておりますの」
マリアベル様が胸に手をやる。ちょうど黒いモヤの中心部だ。
なんだろう、これは。見れば見るほど不快感が込み上げてくる。
(……消さなくちゃ)
「マリアベル様、少し失礼いたしますわ」
「えっ、シェリル様?」
胸に当てたマリアベル様の手を包むようにして、手を重ねる。そして神殿で行っていた時のように祈り手に魔力を集めた。光の粒がふわりと出てくる。
「シェリル様? な、何をして……」
「マリー。動がない方が良い」
「!」
驚いて離れようとするマリアベル様を、レイモンド様が言葉で制する。彼の声を聞いたマリアベル様はピシッと固まった。
(……レイモンド様、助かります)
私は黒いモヤを浄化するイメージで更に祈りを深めた。
………
どのくらいの時間が経ったのか。
マリアベル様の胸のあたりにあった黒いモヤは消失した。同時に感じていた不快感もなくなる。
ふう、と息を吐いてマリアベル様から手を退けた。
「…………っ」
彼女は目を丸くして胸のあたりをペタペタと触った後、パッと顔を上げて私を見つめた。
「……信じられない。息苦しさが消えたわ」
「よかったです」
マリアベル様はとても驚いた様子で、こちらを見ていた。
「マリー、大丈夫なのか?」
「レイ兄様! 本当よ。とても元気になったわ」
「……そうか、よかった。本当によかった」
レイモンド様は恐る恐るマリアベル様に近づいて様子を見た後、彼女を優しく抱きしめた。
(……あの黒いモヤはなんだったのかしら。あれがマリアベル様の体調に影響を与えていたのは確かだわ)
私が首を捻って考えていると、レイモンド様とマリアベル様がこちらへと向き直った。
「シェリル嬢、ありがとう。実はマリーの体調は日に日に悪くなる一方で心配していたんだ」
「シェリル様。私、なんとお礼を言ったら良いのか」
「ああ、いえ」
レイモンド様はマリアベル様の頭をそっと撫でてから、私の方へと向かってくる。
「シェリル嬢。先ほどの光は?」
「私の白魔法です。神殿でも行っていた方法で浄化魔法のひとつです」
「……白魔法、そして浄化魔法、か」
レイモンド様は顎に手を当てて何かを考えている様子だった。私はそんな彼へと、気になっていたことを問う。
「──レイモンド様は、私がマリアベル様を治せることを最初から知っていたのですか?」




