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互いに寄りかかって、頼りきって。

作者: 暗雲(くらうん)



「死にてぇ」


 理由なんてなかった。

 特別嫌なことがあるわけでもなく、何か不自由があるわけでもなく、ただ平穏で、退屈な日々を過ごしていた。最低限の成績を保ちながら、惰性に身を任せ、のうのうと息をしていた。青春なんて言葉は誰かの吐いた嘘だったし、霞んで色褪せた世界に希望なんて何ひとつ見出せなかった。目に映るものすべてが、どこか欠けていた。

 つまるところそういうことで、世界なんて、俺みたいにくだらないものだった。

 ――彼女に出合うまでは。



 蒸し暑い夏、一人暮らしの人間にとって部屋に籠っているのは危険だ。否が応でもクーラーを使うことになり、気付けば電気代が跳ね上がるのだ。それを一度経験した俺は、必ず外へ出ることにしていた。

 普段ならファミレスやカフェなどの避暑地に出向くが、その日は溜まっているレポートの最終提出期限が目前に迫っていた。焦りと暑さで頭をやられていたからか、なぜか図書館に足を運んだ。


 想像よりも広い建物内には、冷風が隅々にまで行き届いていた。休日ということもあってか、まばらだが人の姿が見える。なるべく人のいない席を選んで座った。


「………………」


 いざレポートを片付けようと向き合ってみたところ、かなりの量が溜まっていた。笑えるほどの量だった。だから試しに笑ってみた。


「ははっ」


 ――ダメだ、暑さで頭をやられたんだ。まともな思考ができていない。

 このままではレポートの進捗に影響が出てしまうと考え、席を立つ。

 やはり人間にとって水分補給とは何よりも大事なことで、茹だった脳味噌を正常に戻すためにも必要なはずだろう……などと理由をこじ付け、差し迫った現実から少しでも逃れるために自販機を探す旅に出た。


 その旅は三分ほどで終わった。右手に麦茶を持って荷物を置いた席へと戻る。

 すぐ近くに人が座っていた。

 肩に掛かる黒髪からして女だと分かった。わざわざ人がいない端の席を選んだというのに。

 少し不満に思ったが、それをどうこう言える立場でもない。黙って席について、現実と睨み合おうとして――


 目が合った。


 その瞬間、その瞳に視線が吸い込まれた。

 激しい既視感を覚えた。確かに瞳の色は同じだが、それだけじゃ全く説明がつかないほどの既視感。その正体が喉元まで出かかっているようで、しかし何も掴めていないような、奇妙な感覚が脳を駆ける。

 彼女の瞳は、どこか霞んでいた。磨き上げられた水晶をアスファルトに擦り付けた跡のような、そんな質感だった。瞳の奥底には何かがあるような気がした。どこまでも遠くを見つめているような、それでいて何も見ていないような。


「キミ、大学生?」


 だから、自分が声を掛けられていることに気付かなかった。


「あ、え、」


 左右を見る、誰もいない。後ろを見る、誰もいない。となると――


「……俺?」


 彼女はコクリと頷く。

 俺は慌てて返事をする。


「あ、あぁ、そうだよ」


 初対面でタメ口は失礼だっただろうかと言い終わった後に思い至ったが、気にしている暇はなかった。コミュニケーションが苦手というわけではないが、さすがに見ず知らずの人にいきなり話しかけられては動揺する。


「やっぱり。レポートに追われてるの?」


「まぁそんなところ」


「わたしも同じ」


 ツンツンと机に置かれたパソコンを小突く。

 そう言った彼女は微笑を湛えていて、なぜか少し誇らしげだった。その様子がおかしくて思わず笑ってしまった。


「あー! なんで笑うの」


「ごめんごめん」


 とても涼しかった。夏空は晴天だった。

 その日は結局レポートなんてろくに進まず、徹夜でレポートを片付けた。


 それからは、毎日のように図書館へ行った。

 同じ席に彼女はいた。だから俺も同じ席に座った。

 彼女の名前はエリカというらしい。

 取り分けこれといった趣味はないが料理が好きで、運動と成績は中間。図書館に来る理由は、俺と同じく避暑地として利用しているからだそうだ。

 いろいろな話をした。たくさん笑い合った。SNSで連絡先の交換もした。

 互いに大学が夏季休暇に入った後も、SNS上でいくらでも話ができるというのに、図書館に来ることは止めなかった。


 過ぎる時間を惜しむなんて、嘘だと思っていた。夢も、希望も、青春も、誰かの吐いた嘘だと。けれどそうじゃなかった。確かにそこにあった。


 彼女との日々が、俺にとっての現実だった。


 普段の彼女を知らないが、図書館で会話をしている時の表情はとても柔らかく、いつも楽しそうだった。俺自身も楽しかった。一緒にいることが喜びだった。他愛のない話が何よりも大切だった。落とした単位なんてどうでもよかった。日を追うごとに、俺は彼女に惹かれていった。


 ――それでも。

 世界は霞んだままだった。

 世界は色褪せたままだった。

 ただ、彼女だけが。

 エリカだけが、鮮明に映っていた。



 八月二十三日。


「ねぇ」


 彼女が、窓辺に視線を向けながら呟いた。


「わたしたちって、なんで生きてると思う?」


 視線の先には、枯れかけたクチナシの花があった。

 今日の彼女は、どこか違った。


「理由なんて、きっと初めから無いんだよ――」


 そう答えて彼女の瞳を見たとき、はっとした。

 その瞳は、不安に揺れていた。雨雲がかかっていた。陰があった。奥行きのない暗い陰がべったりと張り付いていて、こちらを覗き込んでいた。

 初めて会ったとき、彼女の瞳から感じ取った強烈な既視感の正体が、今なら分かる。


 彼女の瞳は、俺のそれと、とてもよく似ていた。


 あぁ、そうだ。

 彼女は、俺と同じなんだ。

 きっと彼女にも、この世界は霞んでいて、色褪せて見えている。

 彼女に惹かれた理由だってそうだ。

 互いに欠けていたんだ。欠けていたもの同士、惹かれ合ったんだ。互いが、世界のなによりも鮮明に映っていたんだ。奥行きのない暗い陰を消したかったんだ。


 けれど、俺たちは似すぎている。

 同じ欠け方をしたピースは、補い合うことができないから。

 歪なまま。どこまでも近くて、どこまでも遠い。


「そっか。……そうだといいなぁ」


 彼女は目を細める。


「じゃあさ、わたしたちって、これからどうなるんだろう」


「それは――」


「わたし、キミの隣にいていいのかな?」


 ――彼女は気付いている。

 俺たちの中にある陰は、消えたりしない。どこまでも、べったりとついてくる。

 霞んで色褪せたこの世界の中で、見て見ぬふりをしていた明日が、明後日が、将来が、足音を立てて近づいている。陰と一緒に、すぐそこまで来ている。


「………………」


 俺は何も言えなかった。

 彼女のこんな一面を見ても、踏み込む勇気がなかった。

 なによりも自分が惨めに思えた。

 それでも、気持ちにだけは正直でいたかった。

 だから、黙って隣に座る彼女の手を、強く握った。

 微かに震えていた。

 俺たちの中の陰が少しでも和らぐように、彼女の震えが収まるように、強く、強く握る。

 心のどこかがずきりと痛んだ。それなのに、触れた手のひらは温かかった。

 それが何より悔しかった。


 それから一週間、彼女は図書館に来なかった。

 空間がやけに冷たく感じた。ただ単に夏が終わりに近づいているだけなのか、それとも彼女がいないからか。冷風の直撃を避けるため、初めて席を移した。

 連絡手段はあったが、しようとは思わなかった。何かが変わってしまう気がしたから。

 

 クチナシの花は、すでに枯れていた。

 俺は現実に帰ってきたんだ。夢も希望も青春も何もかも、嘘だらけの現実に。

 全て元通りだ。清々しただろう?


「違う」


 あの日に感じた痛みも、彼女を好きな気持ちも、本当は全部嘘なんだろう? 


「嘘じゃない」


 自販機で買った麦茶を呷る。頭痛がした。



「ねぇ」

 

 八月三十一日。図書館の閉館時間になったので外に出ると、見慣れた――久しぶりに見る姿があった。どこかで夏祭りをやっているらしく、花火の音が遠く聞こえていた。


「……エリカ」


「ちょっと、寄り道しない?」



 二人、当てもなく歩く。

 オレンジ色に染まった街から逃げるように、狭い道を進む。時折吹き抜ける風は生温かった。やがて予報になかった天気雨が降ってきた。近くにあった公園の東屋に身を隠した。

 互いに無言のままだった。屋根が雨を弾く音が響く。それでも、俺から口を開いた。


「――ごめん。あの時、答えられなくて」


 ゆっくりとこちらを見る。


「いいんだよ、気にしなくて。わたしがどうかしてたよ」


 無理をしていると、すぐに分かった。彼女の笑顔は、普段と比べ物にならないほど歪だった。継ぎ接ぎだらけだった。触れたら壊れてしまいそうなほど。


 ゆっくりと、体をこちらへ向ける。


「ねぇ」


 夕暮れ時は過ぎ去って、薄暗い闇が俺たちの周りを漂っていた。

 彼女以外のすべてが灰色だった。彼女だけが、鮮やかに彩られていた。


「わたしのこと、嫌い?」


「嫌いじゃないさ」


 嘘じゃない。


「じゃあ、好き?」


「ああ」


 本当なんだ。


「わたしも、好き」


 揺れていた。輪郭が曖昧になった。視界がぼやけた。鮮やかなまま、滲んでいく。


「なのに――」


 彼女の言いたいことは、痛いほど分かっていた。

 このままだと、互いに溺れてしまう。爛れてしまう。堕ちてしまう。抜け出せなくなってしまう。どこまでも、どこまでも。互いに欠けたまま、傷を舐め合って。


「――どうしようもないのかな」


 辿り着くその先は、きっと――。

 

 それでも。


「どうにかするさ」

 

 諦めたくなかった。

 あの日々を、笑顔を、瞳を、体温を、手のひらを、手放したくなかった。

 

 諦められるはずがなかった。

 霞んで色褪せた世界の中で、ようやく出会えたんだ。一緒にいて、こんなにも楽しいのに。嬉しいのに。こんなにも――幸せなのに。


「大丈夫さ。きっと、きっと大丈夫」


 抱きしめた。

 あの日のように、強く。

 震えていた。

 あの日のように、強く、強く。

 互いの陰を、消えないと分かっていても、消したくて。


「うん――……うん」


 俺たちは確かに、共依存の関係だった。

 欠けているもの同士、ダメな人間同士、互いに依存していた。

 それでも、手放すよりは、諦めるよりはマシだから――。


 いつか終わるその時まで。

 いつか世界が色付くまで。

 俺は、彼女の隣を歩いていく。





大学の課題か何かに出した気がする代物です。突然消えるかもしれないです。

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