最初で最後の花嫁②
どきどきしつつリビングの前で待ち、クレアがドアを開けたので息を吸い、顔を上げる。
リシャールはダニエルと何か打ち合わせをしていたようで、左手に資料を持っていた。だが彼はサラを見ると目を見開き、すとん、と資料を落として慌ててダニエルに拾われる。
リシャールの衣装は、前回とほとんど変わらない。
一つだけ大きく違うのは、仮面をつけていないことだった。
リシャールは緑の目を丸くしてしばらく硬直していたようだが、背後からダニエルに突かれたらしくはっと息を呑み、サラの方にやってきた。
「サラ……とてもきれいで、驚いてしまった」
「そ、そうですか? 嬉しいです……」
「ああ。……っと、すまない」
サラの頬に触れようとしたのか伸ばしかけていた手を、リシャールはさっと引っ込めた。
彼に触れられると思って反射的に目を細めていたサラは拍子抜けしてしまうが、リシャールは気まずそうに視線を逸らしている。
「あ、いや、気を悪くしたのなら謝る。ただ……触れると、せっかくきれいにした化粧や衣装が崩れてしまうかと思って」
「殿下……」
「……すまな」
「謝らないで」
はっきり言い、サラは手持ちぶさたに開いたり閉じたりしていたリシャールの手を掴むと引っ張り、自分の左耳とうなじの辺りに触れるようにあてがった。
その辺りはあまり化粧をしていなくて髪が崩れる心配もないので、頬ずりできない代わりに彼の手の平に触れられるよう少し首を傾げる。
「……私はあなたの妃になるのです。だから……あなたにこうして触れられるのは、とても嬉しい。あなたがお望みのままに、私に触れてほしいのです」
「……そう、か? いいのか、触れても……」
「ええ、たくさん触れて……どうか末永く、可愛がってくださいませ」
最後の一言はちょっとだけおどけたように言って、「なーんて」とからかおうと思ったが――緑の目に射すくめられ、サラは息を呑んだ。
リシャールは、サラを見つめていた。
真剣で、熱が籠もっていて、少しだけ潤んでいるようにさえ見える目は、サラが大好きな色をしている。
「……サラ」
「……はい」
「……俺の求婚を受けてくれて、ありがとう。こんなに素敵な花嫁になってくれて……嬉しい言葉もたくさんくれて……」
「……」
「……俺は、生まれてよかった、生きることを諦めなくてよかった。サラと出会えて……本当に、幸せだ」
少しだけ震える声で告げられた言葉は、リシャールがどんな子ども時代を歩んできたか知っているサラの胸に衝撃を与える。
だが息苦しいと思ったのは一瞬のことで、後からは限りない愛情と、安堵と、喜びが沸き上がってきて、サラはリシャールの手をぎゅっと握った。
「……はい。私も……あなたが生きてくれたこと、私にお心の内を明かしてくださったこと、何度も助けてくださったこと……そして、私を妻に迎えてくださることに、感謝しております。私も……幸せ者です」
「……そうか。俺たちは二人とも、幸せ者なんだな」
「ええ。二人ともですから、一緒にいるときっと幸福も倍以上になりますよ」
「ふっ、きっとそうだろうな」
リシャールは目尻を緩めて笑うと手を下ろし、もう片方の手を恭しく差し伸べてきた。
「……行こう、サラ。俺の素敵なお嫁さんを、教会までエスコートしなければならないからな」
「……はい! よろしくお願いします……私の、旦那さん」
おおよそ王兄とその婚約者らしくもない呼称で呼び合った二人はふふっと笑いあうと、手と手を取り合ってエントランスに向かった。
城下町はお祭り騒ぎらしいが、離宮周辺は完全な人払いがされており、遠くの方で歓声が聞こえるばかりだった。
式は、前回と同じく離宮の敷地内に建つ小さな教会で行う。とても小さな教会なので、サラたちの他には神父と、あとはエドゥアールと太后アンジェリクのみ参加することになっていた。
小さな女の子にトレーンを持ってもらいながら、サラは感慨深い気持ちで教会を見上げる。
「……ここで式を挙げたのが、もう何年も前のことのように思われます」
「そうか? 俺は、昨日のことのように思い出せるが」
意見の違った二人はくすっと笑うと、ダニエルとクレアが開けてくれた扉をくぐる。
既に国王と太后は待っており、参列席に座る二人はサラたちを見ると、笑顔になった。
「今日はおめでとう、兄上、サラ嬢」
「あなたたちの門出を見守れることを、嬉しく思います」
「ありがとうございます」
サラはリシャールと一緒に礼を言い、参列席を見回した。
エドゥアールと太后は、入り口から向かって左側の長いすに二人で腰掛けている。そして、右側の長いすは空いているが、二通の招待状だけが置かれていた。
リシャールの字で書かれた招待状の宛先は、「アンドレ・アトリー」「クレール・アトリー」――サラの両親の名前だった。
『神の御許にいらっしゃる君のご両親にも、招待状を送りたい』
どちらかというと現実的で、非効率的なことをしたがらないリシャールの方から為された提案に、サラは最初どう返事をすればいいか分からなかった。
だが、不器用だが心優しい彼が、サラだけでなくサラの両親をも大切に思ってくれているという証しで――たとえ「ふり」だとしても、両親に自分が本当に好きな人と結ばれるところを見てもらえるということで、サラは思わずリシャールに抱きつき、彼を動揺させてしまったものだ。
両親の席を目を細めて見つめるとサラはリシャールと共に神官のもとに向かい、クッションの上に跪いた。
前回も担当してくれた高齢の神官はサラたちを微笑ましく見つめると祝いの言葉を述べ、最後に結婚許可書にサインをするよう求めた。
――前回、リシャールの隣に書いたのはエルミーヌの名前だった。
だが、あの結婚許可書は無効となった。書類上、サラもリシャールも一度も結婚していないこととなる。
サラは今からリシャールの、最初で最後の花嫁になるのだ。
リシャールが滑らかな字で「リシャール・フェネオン」と書いたので、その隣にサラは「サラ・アトリー」と書く。
サレイユではこれで終わりなのだが、今度はリシャールがペンを再び執り、サラの名前の下に「サラ・フェネオン」と結婚後の名前を記した。
サラが、今はなきアトリー男爵家の娘から、フェリエの王族フェネオン家の妃になった瞬間である。
「これでお二人は、教会に登録されました」
おめでとうございます、と柔和な笑顔で神官が言ったので、サラはリシャールと一緒に立ち上がって振り返り――
――誰もいない長いすに、寄り添って座る在りし日の両親の姿が見えた気がして、サラはまばたきした。
「……サラ」
呼ばれて、横を見る。
サラの夫になった人は、静かな眼差しでサラを見ていた。
「……今の君の姿、きっとご両親もご覧になっている」
「……リシャール、様……」
「愛してる、サラ」
囁いたリシャールは白手袋の嵌った手でサラのベールを掻き上げると、もう片方の手でサラの腰を引き寄せた。
重ねた唇からは、自分のそれと同じ体温が伝わる。
至近距離で輝く緑の目には、自分のぼやけた姿が映り込んでいる。
唇が重なっていたのは、ほんの数秒のこと。
温もりが離れた後、まばたきしたサラはほんのり頬の赤いリシャールを見て、ゆっくり唇を緩めた。
「……嬉しいです、リシャール様」
「サラ……」
「私も、愛しています。……これまでも、これからも、ずっと」
リシャールは、驚いたように目を丸くする。
そして緑の目を細めて笑うと、サラの手を取った。エスコートの時とは違う、ぎゅっと手を握り合わせるものだが、今の自分たちにはこの握り方がぴったりだと思われる。
サラは、幸せになる。
リシャールと、王家の人々と、使用人たちと――そして、自分たちの結婚を祝福してくれているたくさんのフェリエ国民と、一緒に。
二人は微笑みあうと家族たちに見守られて、二人は明るい光差す教会の外へと共に歩いていった。
最初で最後の花嫁
おしまい。