妃殿下と黒き獣③
……と思っていたのだが。
穏やかな陽気のせいでサラまでうとうとしかけていたが、ふと膝の上の獣がぶるっと身を震わせたため、覚醒した。
「……殿下?」
もしかして寒いのだろうか、と思って背中の毛を撫でた。
――だが、撫でているうちにじわじわと毛が引っ込んでいき、体が縮み、滑らかな肌が見えてきて――
「ひっ……! あ、ああああああ! で、殿下!?」
「……いきなり何だ」
サラの悲鳴を聞いたからか、ぱちっとリシャールが目を開いた。いきなり昼寝から目覚めさせられたからか彼は最初半眼で目を擦ったが、はたと今の状況に気づいたようだ。
そう、リシャールは人の姿に戻っていた。
もちろん、全裸である。
「なっ……!? ど、どうしてここに……」
「きゃあっ! ま、待ってください! 服、服を着て……クレア、クレアー!」
がばっと身を起こそうとしたリシャールから視線を逸らし、床に敷いている毛布を急いで剥いで彼の体に被せる。不格好になってしまったが、非常事態なので許してほしい。
雑に毛布で巻かれたリシャールはぽかんとしていたが、これまでのやり取りを思い出したようで、かあっと顔を真っ赤に染めた。
「す、すまない! いきなり戻れるとは思っていなくて……」
「いいんです! いいですから……あっ、クレア!」
「……あー、やっぱりこうなりましたか」
大判のタオルを持ってやって来たクレアはベランダの有様を見ると、さもありなんとばかりに肩を落とした。
リシャールは毛布とタオルで体を隠しながら部屋に駆け戻り、彼がダニエルの手を借りて服を着ている間、サラはリビングのソファに沈み込んでいた。
自分たちは結婚しているのだから、大騒ぎするほどのものではないと分かっている。
だが明るい日の下で夫の裸を見るのは非常に抵抗があった。見たくない、というのではなく、ただ単にすごく恥ずかしかった。
顔を両手で覆って唸っている間に、リシャールは着替えを済ませたようだ。リビングにやってきたいつもの黒っぽい私服姿のリシャールはサラを見ると、気まずそうに頬を掻く。
「……その、すまない」
「……殿下が謝らないでください。あのときに元に戻れるなんて……誰も思わなかったんですし」
「それはそうだが……」
リシャールは咳払いした後、「隣、座ってもいいか」と遠慮がちに問う。
サラが頷くと彼はおずおずとソファに腰掛け、癖のある前髪をくしゃっと握り潰した。
「……本当に、厄介な能力だ。人の姿に戻れず、君の手を煩わせた挙げ句にみっともない姿をさらすなんて……」
「あの、殿下。これは非常事態だったのですし、本当に気にされなくていいですよ。お世話だって、私がやりたくてやったことですし」
落ち込むリシャールを励まそうとサラは声を掛けるが、元々あまり前向きでない彼はすぐには立ち直れなかったようで、肩を落として溜息をついている。
(ど、どうしよう……他に、励ます言葉……!)
サラは焦っていた。
「え、えっと……それに獣の姿になった殿下も、すっごく可愛かったですよ!」
だから、失言をかました。
じろり、と陰の掛かった緑の目で見られて初めて、サラは己の失言に気づいてヒッと息を呑む。
「……そうか。君は獣になった俺のことを、可愛いと思っていたのか」
「す、す、すみません! いえ、前言撤回はしません! でも、その、殿下の非常事態に……」
「……。……別に、いい」
「えっ」
「……男に対して可愛いと言うのはどうかとは思うが……少なくとも、君は獣になった俺のことを嫌っていないのだろう。それなら、もうそれでいい」
ほぼ投げやりな言い方だが、リシャールの耳は赤く染まっているし、サラを見つめる眼差しにも嫌悪などの色は見られない。
ただ単に、照れているだけのようだ。
(殿下……)
「……それに。獣になろうと何だろうと――俺よりずっと、君の方が可愛らしいだろう」
「えっ」
「二度は言わない。……それより、まだ少し眠い。昼寝に付き合ってくれるのだろう?」
立ち上がったリシャールが、ふっと笑ってサラを見下ろす。
サラはこくっと唾を呑んでから微笑むと、リシャールの手を取って立ち上がった。
「……ええ。あなたのお帰りを待つ間に、ベッドもきれいに整えました」
「ああ、ありがとう。……あと、できたら……この姿のときにもたまには、あれをやってほしい」
「……あれ、とは?」
「……さっきベランダで寝ているときに……いや、なんでもない。忘れてくれ」
途中で強引にぶった切ったリシャールはついっとそっぽを向くと、サラの手を取って歩きだした。
慌てて彼についていくサラだが――さっき彼が何を言おうとしたのかに感づき、くすっと笑ってしまう。
どうやら王兄殿下は、妃の膝がたいそう気に入ったようだ。
「ええ、もちろんです。また今度、しますね」
「……俺は何も言っていない」
リシャールはぶっきらぼうに言ったが、サラの手を離そうとはしない。
サラはふふっと笑って彼の手を握り返すと、二人寄り添って寝室へと向かっていった。
妃殿下と黒き獣
おしまい。