妃殿下と黒き獣①
本編終了後、結婚してしばらくの二人の話。
結婚してからも、リシャールはたびたび夜に出かけていた。
「……今回のは少し遠くまで行くから、戻ってくるのは昼前になるかもしれない」
もうじき深夜を迎えようという時刻。
黒いコートを着ながらリシャールが言ったので、彼の身仕度の手伝いをしていたサラは頷いた。
「かしこまりました。殿下、どうぞご無事で」
「……もちろんだ。がむしゃらに戦っていた昔とは違う。俺はちゃんと、君のもとに戻ってくる」
コートを着終えたリシャールは振り返り、サラが差し出した荷物を担いで微笑んだ。
グローブを嵌めた手がサラの頬に触れ、こつん、と額と額が軽くぶつかる。
「……君こそこの前、俺が帰ってくるのを待って明け方まで無理に起きていたのだろう? 君の体にさわりがあってはいけない。温かくして寝て、明日に俺を迎えてくれれば……それでいいから」
「……はい。気を付けます」
「いい子だ」
リシャールは緑の目を細めて微笑み、ちゅ、とサラの右頬にキスをした。
甘え下手で不器用なところのあるリシャールは、ときおりこうしてサラとの触れあいを求めてくる。そんな夫の仕草がとても愛おしくて、サラは彼の首にぎゅっと抱きついて黒灰色の髪を撫でた。
「……いってらっしゃいませ、リシャール様」
「……行ってくる」
リシャールの方も強くサラを抱擁し、離れる。
彼はサラに背を向け、リビングを出ていった。エントランスで待っていたらしいダニエルに声を掛けたようだが、ドアが閉められたことでその音も遮断される。
(殿下……)
閉ざされたドアを見つめ、そっと自分の右頬に触れる。
優しい感触はまだそこにあり、くすぐったいような、気恥ずかしいような感情が湧いてきた。
(っと、こんなところにつっ立ってても仕方ない。殿下に言われたとおり、温かくして寝ないと)
きっと明日、リシャールは疲労困憊で帰ってくるだろう。
そんな彼を、「おかえり」の言葉と抱擁で出迎えるのがサラの仕事なのだから、今晩はゆっくり休んでおかなければ。
翌日。
「お風呂場の掃除、よし。ベッドメイキング、よし。軽食の用意、よし」
もうすぐリシャールたちが戻る、という知らせを聞いたサラは、リビングや寝室をチェックして回っていた。
いつも「夜の仕事」から戻ってきたリシャールはクタクタに疲れており、湯を浴びたら軽食を摘み、すぐに寝てしまう。
彼が気持ちよく過ごせるようにサラは部屋を整え、疲れた体に効く食事やお茶、リシャールが好きな菓子なども準備していた。朝からクレアたちと一緒に掃除もしたし、ベッドも皺一つない状態にした。
本来これらはクレアたちの仕事なのだが、リシャールのためにできることをしたい、というサラの申し出が通った結果だ。最初は使用人たちも戸惑っていたが、最近ではむしろ乗り気でサラの手伝いをしてくれている。
(そろそろ戻ってこられるかな……うん?)
ばたばたとエントランスの方で足音がし、ダニエルたちが何か喋っている声が聞こえる。
念のため、ということでクレアがエントランスに出て、やがて困った顔でサラのところに戻ってきた。
「えっと……サラ様、ご報告です」
弱々しい声で言われ――一瞬、リシャールが大怪我でもしたのかと思ってサラの頭が真っ白になる。
だが、クレアは困った顔こそしているが、焦った様子も顔から血の気が引いた様子もない。それに、血の臭いもしないので、リシャールが生命の危機に陥っているわけではないはずだ。
一つ呼吸して気持ちを落ち着け、サラは頷く。
「ええ。殿下に何かあったの?」
「まず申し上げますと、殿下はご無事です。目立った負傷もなく、地方で暴れ回っていた盗賊集団を蹴散らしてお戻りになられましたが……あっ」
クレアの声で、サラはエントランスの方を見た。
――そして、低い位置から自分を見つめる緑の双眸と視線がぶつかる。
そこにいたのは、サラも数度しか見たことのない黒い獣だった。
これまではあまりじっくり見たことがなかったのだが、犬と猫を足して二で割ったような見た目で、前足を行儀良く揃えてお座りしている。
口の端からはサラの手の平ほどの長さがありそうな犬歯が、足元にはペーパーナイフのような爪が覗いているが、それらを擁する獣自身はなんともいえない、しょぼんとした表情でぱたぱたと尻尾を振っていた。
「……もしかしなくても、殿下ですか?」
「あ、サラ様! すみません、殿下がこんな姿で……」
サラの声を聞き、ひょっこりとダニエルが顔を覗かせた。
「こんな姿」と言われた獣――リシャールに尻尾でぱしんぱしんと腿を叩かれつつ、ダニエルは困ったように頭を掻いた。
「普段なら、戦闘が終わればすぐに元に戻られるんですけど……ちょっと今回はうまくいかなかったみたいです」
「う、うまくいかないことってあるものなの?」
「たまに……ですよね、クレア」
「ああ……そういえば何年か前も、翌日の夜くらいまでなかなか元に戻れないことがありましたっけ」
リシャールとの付き合いも長い二人が話す傍ら、サラはリシャールから視線が剥がせなかった。
ちょんっと座るリシャールは、申し訳なさそうな顔をしている――ように思われた。
過去にも同じことがあったのならそれほど心配することはないだろうが、自分のせいで皆を困らせたというのなら、繊細なリシャールはひどく気にするだろう。
「……いつになったら元に戻れるとか、分かるの?」
「どうでしょね……ただ前回は、しばらく日なたで丸くなっていたらぽんっと戻れました。今回の場合は多分、今日の戦闘のことが体に響いているんでしょう」
「お疲れになっているようですから、それも関係しているかもしれませんね。異能は、疲労時に使うと普段より体力を消耗したり、場合によっては昏倒したりすることもありますので」
(な、なるほど……)
異能を持たないサラにはよく分からないが、彼らにも色々都合があるようだ。
「それじゃあ今の殿下も、落ち着いたら元に戻れるのよね?」
「ええ、そう思います。少なくともサラ様が一生獣の殿下と添い遂げなければならないってことはないですので、ご安心を。そうでないと色々困りますもんね――あいった」
余計なことを言うな、といわんばかりに軽くダニエルの足に噛みついた後、立ち上がったリシャールはそろそろとリビングに入ってきて、サラを見上げてきた。
獣になったリシャールの体長は馬ほどあり、サラの腰ほどの高さに頭がある。犬や猫にしては破格のサイズだが、気まずそうにサラを見る眼差しはまさしくリシャールそのもので、サラはそっと彼の頬に触れた。
サラが自発的に撫でると思わなかったのか、リシャールは一瞬びくっとして毛を逆立てたが、やがてごろごろと喉を鳴らして目を閉じた。撫でられるのは気持ちがいいようだ。
「……どうすればいいかしら。このままだと、ベッドでは寝られそうにないし」
「日なたに毛布を持っていきましょうか。お食事も、召し上がりやすいように工夫すればいいでしょうし」
「そうね。クレア、準備をお願い。ダニエルは……いつ殿下が元に戻られるか分からないから、その間公務を止められるかしら」
サラが問うと、ダニエルは真面目な顔で頷いた。
「もちろんです。……念のため、陛下にも報告します。あと、サラ様には殿下のお世話と記録をお願いしてもいいでしょうか」
「世話はもちろんだけど……記録というのは?」
「ああ、そんな難しいものじゃないですよ。……これから先も同じように殿下が元に戻れなくなるかもしれないでしょう? そのときのために、今回の殿下の様子を残しておくべきなんです。何時に何をしたとか、そういう簡単なので結構なので」
ダニエルの言葉に、なるほど、とサラは頷いた。
二度あることは三度あるという。それなら今回の様子を記録しておき、もし次回があったときにも落ち着いて対処できるようにするべきだろう。
「分かったわ。それじゃあ皆、よろしくね」