おいしい時間をあなたと③
夕食時、サラがリビングに向かうと、ソファで本を読んでいたリシャールが顔を上げた。
「おかえり。今日は楽しめたか?」
「殿下も、おかえりなさいませ。……はい、私は楽しめました」
サラは微笑み、夕食の仕度をするようダニエルに命じた。
彼らがせっせとテーブルセッティングする中、立ち上がってサラの方にやってきたリシャールは、ふと、首を傾げた。
「……町で何か買って食べたのか?」
「……えっ?」
「いい匂いがする。何かを焼いたような……香ばしい匂いだ」
……サラの嗅覚もなかなかのものだが、リシャールも鼻が利くようだ。もしかすると、異能で獣になる力と関係しているのかもしれない。
つい強張った笑みを浮かべそうになったが、咳払いする。これまではリシャールの追及から避けていたが、料理を終えた今、誤魔化す必要はなくなった。
……必要は、なくなったのだが。
「妃殿下、お持ちしましたよ」
ドアがノックされ、料理の載ったカートを押した料理人がやって来た。
そこまではいつも通りの光景だが、彼の後ろにはトレイを持ったもう一人の料理人――サラに防護壁を張ってくれた人だ――がおり、リシャールも敏感に気づいたようで首を捻っている。
テーブルセッティングが進む中、サラは歩み出て料理人からトレイを受け取った。そこには覆いがかけられているが、中身は竈から出してすぐに持ってきたグラタンである。
「殿下、ご着席ください。……実は今日、一品だけ私が作ってみたのです」
「……サラが?」
まさかそういうことになるとは露ほども思っていなかったらしく、リシャールはその場に立ち尽くしてぽかんとしている。
ダニエルがそんな主君の背中を押して椅子に座らせ、サラはテーブルの空いている場所にトレイを置いた――のだが。
「……あの、殿下。この料理についてですが」
「あ、ああ。君が作ってくれたのだろう? 嬉しいな……早く食べたい」
「ありがとうございます。でも……すみません、失敗してしまって」
そう言ってから、サラは覆いを取った。
銀のトレイの上に載っているのは、二つの耐熱皿。分かりやすくするよう、リシャール用は緑色の、サラ用は茶色の器と分けている。
料理人たちは竈の火加減をしっかり確認してくれたので、中まで火が通っているしパン粉もほどよく焦げていい匂いを放っている――が。
本当なら、熱によってとろりと溶けてパン粉と一緒にほどよく焦げるはずだったチーズ。それが、ぺらっとした板状のまま残っていた。
「あ、あの……今日、食材も買ったのです。でも、チーズの種類を間違えたみたいで……溶けないものを買っちゃったんです」
竈から取り出した直後は、皆が硬直した。ペラペラのチーズがそのまま残っている様を見たサラは泣きたくなったが、クレアたちが励ましてくれたのだ。
今日の買い物にクレアや護衛たちは連れて行ったがサラの我が儘で、自分で商品を選んだのだ。クレアたちにちゃんと聞いていれば、チーズを間違えて買うことはなかったというのに。
覆いを胸に抱えて、サラは俯いてしまう。チーズの溶けなかったグラタンは不格好で、自分の情けなさとふがいなさで悔しくなってくる。
「その……火自体はちゃんと通っているので、食べられないことはないはずです。なんならチーズだけ取り除いて――」
「何を言っている。……すごいじゃないか、サラ。こんなにおいしそうなものを作ってくれるなんて……」
リシャールの弾んだ声に、サラははっと顔を上げた。
リシャールはグラタンから視線を上げ、微笑んだ。仮面を付けない彼の柔らかな笑みは、失敗してグジグジしていたサラの心に触れ、優しく解きほぐしてくれる。
「これはこれでおいしいんじゃないかな。……さあ、冷めないうちに食べよう」
「……は、はい」
リシャールに促され、サラは覆いをクレアに預けて席に着いた。
食器を手に取ると、リシャールは真っ先にグラタンに手をつけた。彼のほっそりした指がスプーンを持ち、さくっとグラタンの表面に差し込む。
やはりチーズは溶けておらず、スプーンで掬うとべろん、と板状のまま飛び出てしまう。だがリシャールは一切気にした様子もなく口に含むと、深く味わうように咀嚼した。
サラは自分の料理には手をつけず、ひやひやしながらリシャールの反応を窺っていたが、彼は「おいしい」と呟くと、二杯目を掬った。
「チーズ、これもまた斬新でいいんじゃないか。これが失敗作なんて、俺には思えない。何より、君が作ってくれたということが嬉しい」
「……そう、ですか?」
「嘘をつくわけないだろう。……もしかして最近なにやら考え込んでいたのは、このためなのか?」
ズバリと指摘されてサラが決まり悪く頷くと、リシャールは「そうか」と、頬を緩めた。
「俺を驚かせるために、準備してくれていたんだな。……ありがとう、サラ。ほら、君も食べるといい」
リシャールに言われ、サラはおずおずグラタンにスプーンを差し込んだ。
やはり、チーズはべろんとしていて硬いままだ。
だが――
(私一人で食べていたら虚しいだけだったのに、殿下が一緒だから……おいしいって言ってくれるから、すごくおいしく感じられる)
食事を終えたリシャールは、上機嫌だった。
「サラの手料理、すごく嬉しかった」
「……もし次回があれば今度こそ、間違えないようにしますね!」
「はは、期待している」
リシャールは目を細め、嬉しそうに笑っている。こんなふうに彼が声を上げて笑うようになるなんて、エルミーヌとして嫁いだ直後なら考えられなかっただろう。
……夕食は終わった、が。
『……本当に、これで殿下が喜ぶの?』
『ええ、このダニエルが言うのですから間違いないですよ!』
夕食の前に、ダニエルと交わしたやり取りが思い出される。
サラはグッと拳を固めると、ソファでくつろいでいたリシャールの隣に座り、そっと彼の両肩に手を載せた。
「……サラ?」
きょとんとした緑の目が、サラを映している。
サラは数度深呼吸し――
「……し、食後のデザートです!」
自分より背の高いリシャールの肩を掴んで引き寄せると、彼の左頬にちゅっと唇を押し当てた。
やたら上機嫌のダニエルが提案した、「夕食のシメ」である。
思いを通わせてから、リシャールはよくサラに口づけてくれるようになった。恋愛初心者の彼がぎこちなく贈ってくれるキスはどれも優しく、どこにされても嬉しくて幸せになれる。
だが思い返せば、サラの方からキスしたことは数えるほどしかない。それも、「ここに口づけてほしい」とリシャールの方からおねだりされて、恥ずかしいと思いつつ彼のお願いに応えることばかりだ。
思ったよりすべすべしている頬に口づけてから、おそるおそる体を離す。
リシャールは動かない。サラが心配になるほど、動かない。
(も、もしかして、硬直するほど嫌だったとか!?)
そう思うと、八つ当たりだと分かっていてもダニエルを呪いたくなってくる。
やがて、ぎこちなく首を回してこちらを見てきたリシャールは、少しだけ難しい顔をしていた。その顔を見るだけでサラはしゅんとしてしまい、ソファの上で少し後退してしまう。
「サラ」
「は、はい」
「今の行為はどうかと思う」
硬い声で言われ、やはり気を悪くさせてしまったか……と落ち込みかけたサラだが。
「君はさっき、『食後のデザート』だと言ったな? デザートならばやはり、経口摂取しなければならないのに、これでは君は俺の頬に菓子を押しつけただけになってしまうだろう」
「……え?」
顔を上げたサラが何か言う間もなく、リシャールがサラとの距離を詰め、長い腕で抱きしめてきた。
緑の双眸を見つめている間に、ほんの僅か開いていた唇に同じ温度を持つものが触れ、離れていく。
目を瞬かせたサラを、リシャールは満足そうに見つめていた。
「……デザート、確かにいただいた。グラタンに負けず劣らずの、美味だな」
ちろっと赤い舌を出して唇の端を舐める様は、普段のリシャールとは少し様子が違っていて――彼に何をされたのか今になって把握したサラは、凄まじい勢いで自分の体が熱を発し始めたことを知る。
「な、何を……!」
「嫌だったか?」
「……嫌じゃないです」
「……そうか。よかった」
うんうんと頷くリシャールはとても嬉しそうで――文句の一つでも言ってやろうと思った心も瞬時にしぼみ、後にはただただ彼への愛おしい気持ちが溢れてくる。
「……ずるいです」
「そうだな、俺はずるい男だ」
「……でも、好きです」
「……ありがとう」
ぎゅっと抱きしめられたので、サラも精一杯腕を伸ばしてリシャールの背中に抱きつく。
目を閉じて埋めた彼の首元からは、ミルクとチーズの甘い匂いがした。
おいしい時間をあなたと
おしまい。




