呪われし者に祝福を
リシャールの過去と、未来と。
母は、とても寂しい人だった。
物心ついたときには、自分は既に母と共に離宮で暮らしていた。
自分には、「普通の親子」というのがどんなものなのか、分からない。
母はそんなこと、教えてくれなかったからだ。
母は落ち着かなくて、思考回路が理路整然としていない人だった。
それが元々の性格なのかは分からないが、母がおかしくなってしまったのには自分の存在が大いに関係しているだろうことは、子ども心にも分かっていた。
「リシャール……よく聞きなさい」
ぼんやりする記憶の中で、母が言っている。
離宮暮らしで、使用人以外に会う人なんていないのに、母はいつも派手に着飾っていた。まるで、たくさんの宝石やごてごてしたドレスによって、彼女の心を守っているかのように。
爪は長くて、赤く染まっている。
彼女はそんな手を差し伸べて、とろりと甘い蜜のような言葉を紡ぐ。
「おまえは、選ばれた子なの。フェリエ王家を継げる子は、おまえしかいない。おまえの顔は陛下にそっくりだし、おまえはとても賢い子。だから、いずれ王様になれるのよ」
それを聞いた自分は、何も言わなかった。
だが母は自分の沈黙を勝手にいいように解釈したようで、そっと頭を撫でてきた。
「そうすれば、おまえは誰よりも偉くなれる。おまえのことを悪く言う者はいなくなるし、おまえが言うことがこの国の全てになる。……とっても素敵よね?」
「……」
「大丈夫よ、リシャール。これからずっと、お母様が一緒よ。何も怖くないから、安心なさい」
母はそう言って、頬を優しく撫でた。
言葉の内容はともかく、今日は母の機嫌がいいようだ、と解釈した自分は、内心安堵していた。
――だが、その翌日。
母に課された勉強をし、褒めてもらおうと思って部屋を訪れた自分を出迎えたのは、母による平手打ちだった。
「消えろ! なぜこっちに来た! 顔を見せるな、化け物!」
次々にものが飛んできて、さすがに見過ごせなかったらしい使用人たちが自分を庇ってくれる。
だが、そうすればするほど母は激昂し、抑えようもないほど怒ってしまうのだ。
「どうして、おまえはそんな力を持って生まれた!? どうして、普通の異能を持たなかった!? わたくしは、わたくしは悪くない! 悪くないのに、どうして、おまえは獣なんかになるの!?」
唾をまき散らしながら怒る母に、自分は何も言えなかった。
せっかく仕上げたノートはぐしゃぐしゃに踏みつぶされ、顔を上げれば頬を蹴られた。
「おまえは呪われている! おまえなんて、生まれなければ! 普通の子だったら、わたくしはあの女に勝てたのに! おまえがいるから!」
母の怒りは、自分にはとうてい理解できなかった。
獣に変化するという、フェリエでも珍しく――偏見の対象になっている力を、自分だって望んで生まれ持ったわけではないのに。
口答えをするともっと酷いことをされるし、あの優しい母の顔をなかなか見せてくれなくなると分かっていた。だから呪詛を吐かれても殴られても反抗せず、じっと黙っていた。
自分は、母に望まれて生まれた。
だが自分の能力は、母には望まれなかった。
どうすればこの世界から逃れられるのか。
どうすれば母は優しい顔だけ見せてくれるのか。
まだ六つかそこらの自分には、分からなかった。
弟が生まれた。
正確には、母親違いの弟だ。
弟は、生みの母である王妃と一緒に離宮で暮らすことになった。離宮には既に自分たち親子がいたので、建物の端と端に分かれ、関わることのないように配慮されていた。
弟が生まれてからますます、母は心を病んだ。自分への暴力はとんとなくなったが、代わりに一日中暗い部屋の隅にうずくまり、ぶつぶつ呟くことが多くなった。
その頃には自分も、使用人たちのおかげでそれなりに大きくなっていた。そして、母の言いなりになるのが嫌になり、部屋から飛び出すことがしばしばあった。
金切り声を上げる母から逃げた先はたいてい、王妃のいる部屋だった。王妃は妾妃の子である自分も温かく迎え、生まれて間もない弟にも会わせてくれた。
弟は、とても可愛かった。まだ喋れないし立つこともできないが、自分が手を差し出すと小さな手できゅっと指を握りしめて、ニコニコと機嫌よさそうに笑っていて――そんな弟が愛おしくて、羨ましかった。
ふにゃふにゃで、無防備で、愛情をいっぱい受けて育つ弟。
そんな弟が妬ましく、自分と同じように苦しい思いをすればいいのに――と暗い声が囁く一方で、こんなに可愛い子を自分と同じ目に遭わせてはならない、と真っ当な自分が訴えていた。
葛藤の末に勝ったのは、使用人や王妃たちのおかげで密かに育っていた、正義の自分だった。
自分が与えられなかったものを渇望するかのように、頻繁に王妃と弟のもとに通った。弟はますます自分に懐き、激しく泣いていても自分があやせばぴたっと泣きやむようにさえなった。
だからあの日――夜中に母がふらりと部屋を出ていったのを追いかけ、ナイフを振り回して弟の眠るベッドに迫っているところを見たときに湧いた感情は、母への殺意だった。
これまでなんとか抑えていた感情が爆発し、自分は瞬時に身軽な獣へと化けた。そして眠る弟の前に立ちはだかると、呆然とする母に飛びかかってその首の血管を掻ききったのだ。
初めて、人を殺した。
だが床に倒れて血だまりの中で痙攣する母よりも何よりも、弟の方が気がかりだった。獣の姿のままベビーベッドに駆け寄り、前足を柵にかけて身を乗り出す。
これほどの騒ぎの中でも目覚めなかった弟の寝顔を見、その頬をぺろっと舐める。
そのときの自分の胸には、大いなる達成感と安堵感しかなかった。
自分は、人の皮を被った獣だ。
呪われながら育った自分にできるのは、可愛い弟のために戦うことだけ。
そうして弟が立派に国を治める姿を見届け、どこかで一人寂しく死ぬのが運命だと思っていたのに。
……まどろみから覚め、リシャールははっと目を開いた。
書類仕事を終え、少し休憩しようと思っていたら、うとうとしていたようだ。
久々に、過去の夢を見た。まだ自分が両手で数えられるくらいの年の子どもだった頃の、幸福とは言えない内容の夢だ。
昔は頻繁に幼少期の夢を見てうなされていたが、ここ数年はめっきりなくなっていた。今日のように何かの拍子に夢に見ることはあっても、もう母の声は思い出せないし、当時の記憶も不鮮明になりつつある。
だがそれはリシャールが年を取って、過去のことを忘れたからではない。
とんとん、と書斎のドアがノックされた。ダニエルにしては低い位置から聞こえる音に、リシャールは目を丸くしてすぐに立ち上がった。
「……フェリクスか?」
「ちちうえ」
問うとすぐに返事が返ってきたので、ドアを開ける。
そこに立っていたのは、黒灰色の髪に茶色の目を持つ少年だった。リシャールの腿ほどの身長の彼の背後には、付き添いらしいダニエルの姿がある。
「どうした、ダニエルたちと遊ぶんじゃなかったのか?」
少年を抱き上げて優しい声で問うと、「ははうえが、リディとおひるね」と教えてくれたので、思わず頬を緩めてしまう。
「……そうか、母上がリディと昼寝をしているから伝えに来てくれたのか」
「うん」
「フェリクス様、自分が教えに行くんだって言って聞かなくて」
ダニエルが補足して言うので彼に頷きかけ、少年の背中をポンポン叩いた。
「よく言いに来てくれたな。では母上たちが起きるまで、父上と遊ぼうか」
「えー、殿下。書類は?」
「できている。……フェリクスの相手、助かった。書類を本城に持っていってくれるか」
「はいはい、了解です」
書類を持ったダニエルを見送り、リシャールはデスクの席に戻ると、膝の上の少年の頭をそっと撫でた。
少年はデスクに置いていた丸いペーパーウェイトが気になるようで、ふくふくした手で転がして遊んでいる。
「……呪詛を吐かれた俺が、こんな祝福を受けるなんてな」
「どうしたの、ちちうえ?」
「なんでもない。……これ、積んでみるか? 他のもあるぞ」
「うん!」
引き出しから色とりどりのペーパーウェイトを出して転がしてやりつつ、リシャールは目を細めた。
「……生まれてきてくれてありがとう、フェリクス、リディ」
そして、もうすぐ生まれるだろう、新しい命にも。
王兄の囁き声は、幼子のはしゃぎ声に混じり、柔らかな日差しの中に溶けていった。