幸せの足音②
クレアが言うに、サラは自室に戻るなり寝室に直行し、そのまま寝込んでしまったようだ。
それを聞いたリシャールは、体中から血の気が引く感覚に襲われる。
やはり、サラは体調が悪かったのだ。
そういえばサラは演奏会から戻ってすぐに休もうとしていたが、そんな彼女をリシャールが引き留めたのであった。
「……やはり俺は死ぬべきだ」
「はいはい、少なくともあと五十年は生きてからにしてくださいね」
すぐに自害したがるリシャールをなだめていると、ドアが開いた。
寝室から出てきたのは、重いドレスを脱いで簡素な寝間着姿になったサラで――すかさずリシャールはダニエルの後頭部を掴んで、振り向かせないようにする。
「サラ! なぜ起きているんだ!」
思わず口走ってから、リシャールは自分の発言を悔やんだ。
あれだけ後悔したというのに、また自分はサラに厳しい言葉掛けをしてしまった。ここは、「まだ寝ていなさい」と優しく言うべきだっただろうに……。
だがサラは首を横に振ると、クレアの手を握りながら弱々しく微笑んだ。
「お気遣い、ありがとうございます。……寝たので、少し気分がよくなりました。だから今のうちに、殿下に謝罪したくて」
「……しゃざい?」
「はい、謝罪です」
そしてぽかんとするリシャールを前に、サラはゆっくりと膝を折って頭を垂れた。
「……殿下のお心遣いを無下にし、ご忠告も聞かずに幼稚な振る舞いをしたこと――お詫びします」
「サラっ……」
「申し訳ありません。……以後、気を付けます」
「待ってくれ、サラ」
今度は、ちゃんと優しい声が出せた。
リシャールは後頭部を掴んだままだったダニエルに、「あっちに行ってくれ」と目線だけで合図をすると座っていたソファから立ち上がり、寝室前に佇んでいたサラの手を取った。
いつもはほんのり温かいサラの手は、今は冷たくて少し乾燥している。
「謝るべきなのは、俺の方だ。……君の体調が優れないというのに気遣えず、すまなかった」
「……殿下、どうして……?」
「君は体調が優れなくて、気持ちも落ち着かなかったのではないか?」
リシャールの言葉に、サラは目を見開いた。
それが肯定を表していると悟り、リシャールは自分の体温を少しでも分け与えようとするかのように、サラの手をぎゅっと握る。
「無理をして演奏会に行ったのを咎めたのは、君が心配だったからだ。……だがそれでも、俺は君を責めるのではなく――一言でもいいから、体を張って俺のために動いてくれた君に感謝の言葉を述べ、労るべきだった」
サラが周りの反対を押し切って外出したのは、今日当日欠席すると今後に響くかもしれないから。
彼女が無理をしたのは――複雑な立場にあるリシャールのためだったのだ。
「頑張ってくれて、ありがとう。君の気持ちを推し量れず、すまない。……でも、これからはもっと、自分の体を大事にしてほしい」
「殿下……」
「その……それでも君が俺を許さないというのなら、なんでもするから言ってくれ」
「……だめですよ、殿下。『なんでもする』なんて言っては」
「……」
「殿下はお優しいから……私がずるずる甘えてしまいます」
サラは目線を落とし、小さく息を吐き出した。
「今回は、私がいけなかったのです。申し訳ありませんでした」
「……次からは、俺も気を付ける。だから君も、体の調子がいいときでいいから、言いたいことは言ってくれ」
「分かりました」
そうしてサラは顔を上げ、まだ弱々しいながら微笑んだ。
その笑顔を見ると――その儚さに胸が苦しくなる一方で、妻の笑顔を見られてよかった、あのとき首を吊らなくてよかった、と思われた。
一つ咳払いすると、リシャールはそっとサラの腰に手を宛てがった。
「……体が冷たいし、まだ顔色もよくない。辛いのに起きてくれて、ありがとう。もう少し寝るか? それとも、何か腹に入れるか?」
「私の方こそ、様子を見に来てくださりありがとうございます。……少しお腹が空いたので、何か食べてからもう一度休みたいのですが……いいですか?」
「ああ、もちろんだ。……医者とかはいいのか?」
サラをソファにエスコートしながら尋ねると、ゆっくり腰を下ろしたサラは、なぜか少し返答に躊躇ったようだ。そして傍らで様子を見守っていたクレアに目配せしてから、頷いた。
「……実はクレアに頼んで、夜に診察に来てもらうことにしたのです」
「それならよかった。……ん? だが、離宮の侍医からはそのようなことは聞いていないと思うが」
離宮はリシャールの城だから、侍医の出入りや使用人たちの監督をするのも彼の仕事だ。もし、急用で医者を呼んだのならば、主であるリシャールにもまず連絡が来るはずなのだが。
するとサラは少し黙った後、腹をさすった。
「……いえ、クレアのつてで、別のお医者様にお願いすることにしたのです。信頼できる、女性の方です」
「女医か……まあ、クレアなら大丈夫だろう。分かった」
フェリエにまだ女医は少ないが、体に悩みのある女性の診察をしたり相談に乗ったりと、非常に重用されている。
今度エドゥアールに、女性医師の育成に関する提案をしてみてもいいかもしれない。
サラは微笑むと、「それでですね」と隣に座るリシャールの手を握った。
「もしお時間があれば、殿下にも同席していただきたくて」
「俺か? ……ああ、いや、嫌なわけではない。だが、俺がいても役に立たないだろうし、逆に君が落ち着かないかもしれないし……」
「大丈夫です。私も今の症状には少し、心当たりがありまして。診察中はともかく、その後で殿下と一緒にお話を伺いたいのです」
「……そういうことなら。今晩は予定もないし、いつでも出られるようにしておこう」
「ありがとうございます。……殿下」
「……ああ」
「……弱い私をいつも支え、導いてくださり、ありがとうございます。……愛しています」
……サラの言葉に、リシャールは少し動揺する。
基本的にしゃきしゃきしているサラだが、「愛している」などの言葉はやはり気恥ずかしいようで、あまり聞くことがないからだ。
だがすぐに我に返ったリシャールはサラの腰を引き寄せ、そっと抱きしめる。
抱き寄せた体からは、自分のものでない、もうひとつの鼓動と温もりが感じられた。
――リシャールはこれっぽっちも気づいていなかったが。
幸せの足音は、もう自分たちのすぐ側まで、近づいてきていた。
幸せの足音
おしまい。
つまりそういうことです。