幸せの足音①
本編終了後、結婚して半年ほど経過した二人の話。
「だから言っているでしょう! 予定変更してたくさんの人に迷惑を掛けるくらいなら、少しくらい我慢しますって!」
「それがよくないと言っている。無理をして、今後に響いたらどうする?」
「そんなの……やってみないと分からないでしょう!」
「……失敗しないのなら、何をやってもいいと思っているのか? 俺は、『もしも』が起きてはならないと思って、君に忠告しているのに……」
フェリエ王国の離宮にて。
使用人たちがおろおろと見守る先では、いつも仲睦まじい王兄夫妻が言い合いをしていた――というより、感情的になって声を荒らげる妃を、王兄がなだめようとしていた。
いつもなら、少々衝突することはあってもどちらかが折れて譲歩するものだ。だが今回は妃がやけに食い下がり、妻を落ち着かせようとした王兄の方もほとほと困っている様子である。
「……もういいです。私のことは放っておいてください」
「サラ……」
「失礼します」
一方的に会話を叩ききった王兄妃は夫に背を向けると、黙って成り行きを見守っていた侍女を伴って自分の部屋に戻ってしまった。
最初は妻の背中を複雑そうな目で見ていた王兄はドアが静かに閉められると息を吐き出し、リビングのソファに腰を下ろす。
そして彼は最近離宮内ではつけることの少なくなった仮面を被ると肩を落として、言った。
「よし、死のう」
「いやいやいや、何馬鹿なことをおっしゃっているんですか!」
他の使用人たちではとうていできないだろう的確な突っ込みをしたのは、侍従のダニエル。
先ほどの喧嘩中も黙って成り行きを見守っていた彼は、晴れ晴れとした声でとんでもないことを言った主君の前に立つと、腰に手を当てて怒ったような顔をする。
「ショックなのは分からなくもないですが、夫婦喧嘩くらいで死なないでくれます?」
「何を言うか。俺は、サラを悲しませた。妻を悲しませるような男は首をくくって死ぬべきだろう」
「もしその言葉が正しいのなら、この世界で夫婦で寿命を迎えられる者はほとんどいなくなると思うんですが」
離宮に引きこもる生活を二十年近く続けていた王兄は、その生い立ちのわりには優しくて理知的だ。だがいかんせん少々世間知らずなことに加え、最近では妃のことになると判断能力が落ちるということで一部では有名だった。
「んー、確かにさっきのサラ様、悲しそうな顔はなさってましたね。でもですねー、もしご機嫌を直されたサラ様が殿下の首吊り死体を見たら、いっそう嘆かれますよ」
「そんなことはないだろう。俺の死後、サラにはもっとよい男を見つけてもらい……ああ、そうだ。死ぬ前に遺書を書かねば。ダニエル、筆記用具を」
「渡すわけないでしょう」
もしここにいるのが王兄とその侍従でなく対等な立場の者同士だったら、ダニエルは相手の後頭部を思いっきりひっぱたいていたのではないだろうか。
「だいたい……えーっと、何でしたっけ。午前中に、体調が優れないのにサラ様が演奏会に行ったのが原因でしたっけ?」
「そうだ。確かにサラを招待していた伯爵夫人は時間厳守で有名だし、縁を繋いでおけば今後何かと助かるだろう。……だからといって、朝食もほとんど喉を通らなかった体で行くのはおかしいだろう」
あいにく、王兄は昨晩から早朝にかけて「夜の仕事」に行っていたため、王兄妃がほとんど朝食を食べなかったことや、体調が悪いのに演奏会に行ったことを知らなかった。知ったのは、昼前に起きてからだ。
どうやら王兄妃はそのことを夫に言うなと念押ししていたようで、それがまた王兄の心にひびを入れた。
繊細な彼は、妃に無理をさせてしまった、気遣わせるあまり辛い思いをさせてしまったと、自分ばかりを責めているのだ。
「それなのに……サラは俺の話を聞いてくれないし、俺もサラに適切な言葉掛けができなかった。俺がもっとちゃんとしていれば、口がうまければ、サラにあんな顔をさせなかったというのに……」
「だからって自害しないでくださいよ」
冷静に突っ込んだ後、一つ呼吸を置いてからダニエルは顔を上げた。
「……僕はですね。今回はサラ様に原因があると思います」
「……」
「いやいや、そんな目で見ないでくれます? 僕は別にサラ様を貶したいわけじゃなくて、客観的に抱いた感想を述べてるだけなんで、最後まで聞いてください」
殺人的な目で睨む王兄をなだめつつ、ダニエルは続ける。
「……多分ですけど、サラ様が今回無理をしたのもさっきの話し合いがまとまらなかったのも、サラ様の体調不良が原因なんだと思います。だって、前にも同じようなことがありましたが、そのときのサラ様はきちんと殿下にもご報告なさったし、ご自分の非を認めた上で、譲れない点だけは主張なさったでしょう」
ダニエルの言葉に、王兄は頷いた。
確かに少し前にも、貴族からの招待があるからといってサラが悪天候の中、無理にでも相手の屋敷に行ったことがあった。
そのときも話し合いになったのだが、王兄は妃の言い分を理解した上で「無理はするな」とだけ言い、サラも無理をしたことは謝ったが、「ここで当日欠席してはならないから」ときちんと述べていたのだ。
「……そうだったな」
「ええ。それが普段のサラ様です。ですから……今日みたいに殿下のお言葉を聞かなかったり、強情になってらっしゃったのは、体調が原因だと思うのです。あまり食事も召し上がっていないですし、ご自分でも理由が分からないくらい感情的になっているのかもしれません」
「……そういうことがあるものなのか?」
「うーん……僕には姉妹がいるのですが、たまにそういうことがあると言っていましたよ」
ダニエルの言葉に、靄が掛かっていた王兄の目が見開かれる。
これまで長らく引きこもっていたリシャールは、養母や使用人以外の女性と接したことがほとんどなく、女性の心の機微や体のことに非常に疎い。だから、姉妹のいるダニエルの指摘はまさに、青天の霹靂だったのだろう。
「それは……知らなかった。では、サラもそのために感情的になっていたのかもしれないと……?」
「断定はできませんが、普段のご様子を鑑みるに十分考えられるかと」
「……」
「……」
「……サラと話がしたい。クレアに取り次いでもらえるか」
「はい、すぐに確認して参ります」
そう言うダニエルは、まるで手間の掛かる弟を見守る兄のような優しい眼差しをしていた。