君に、花を
本編30話と31話の間あたりの、仲よくなり始めた頃の二人の話。
離宮で暮らす王兄殿下は、筋金入りの引きこもりである。
どれくらい引きこもりかというと、離宮勤めの使用人の中にでさえ、彼が出歩く姿を見たことがない者がいるくらいである。
そういうものだから、いつも離宮の庭園の手入れをしている庭師たちが休憩時間中、薄めた果実水を飲みながら談笑していて――自分たちの傍らに亡霊のように立つ王兄殿下を見たときには、心臓が飛び出るほど驚いた。
「で、殿下!?」
「失礼しました! お見苦しいところを……!」
「……いや、いい。君たちは休憩時間なのだろう。くつろいでいてくれ」
慌てて立ち上がり、汗を掻いたため広げていたシャツの胸元なども直そうとした庭師たちだが、王兄リシャールは手を振って応えた。
リシャールはいつもの仮面を装着しており、日の光を嫌うかのような黒いコートとズボンを着ている。髪も黒っぽい色なので、白い仮面だけがぼんやり浮かび上がっているような光景は、正直なかなか不気味である。
「……寛大なお言葉に感謝します。殿下は、どうかなさったのですか?」
「……」
「……」
リシャールは、なかなか答えない。
だが、「殿下の沈黙が長いからといって、口を挟んだりしてはならない」と厳しく教わっている庭師たちは大人しく待ち、かなり経ってからリシャールは言葉を続けた。
「……少し、庭園を歩きたい。あと、いくつか花を切りたい」
「花、ですか」
「だめか?」
「いえいえ、この離宮に植えた花は全て殿下のものですから、お気に召したものがあればお切りしますよ」
「…………いや、いい。自分でやる。君たちは休んでいてくれ」
言葉はどことなくぶっきらぼうだが、休憩中の庭師たちの手を煩わせまいとしているし、去り際には「いつもご苦労」と労いの言葉もかけてくれる。
王兄殿下は、人嫌いで変わり者で引きこもりだ。
だが、少ない言葉には思いやりや優しさが込められているし、王族らしくその所作も洗練されている。
だから、離宮に仕える者たちはなんだかんだ言って、リシャールのことが好きなのだ。
離宮の主本人のお許しをもらったので、それならばと庭師たちは再び腰を下ろし、庭園に入っていく王兄を見守ることにした。
リシャールはちゃんと花を持ち帰るための道具を持ってきていたようで、黒いマントの隙間からちらちらと可愛らしいバスケットが覗いていた。使用人たちに持たせればいいのに、何かこだわりがあるようだ。
リシャールはしばらくの間、庭園内をうろうろ歩いていた。ときどき立ち止まって何か考え込んだり、しゃがんだり、籠から鋏を出してみたりしているのが遠目に見え、庭師たちはほっこりした気持ちで主君の動向を見守る。
しばらくして、リシャールはこちらに戻ってきた。相変わらず仮面をつけているので表情は見えないが、籠の中は空っぽだ。なんとなく、落ち込んでいるような様子が感じられる。
「……休憩中すまないが、少しいいか」
「ええ、もちろんですよ」
「……」
「……」
「……妃に、花を贈りたい」
ぼそぼそと王兄が告げた言葉に、庭師たちは顔を見合わせた。
リシャールの妃――それはつまり、少し前に嫁いできたサレイユの王女・エルミーヌのことである。
愛情の「あ」の字もない政略結婚で嫁いできた王女は、当初こそリシャールに素っ気なくされていた。
だが王兄妃の根気強い関わり合いと真心によって、頑なに閉ざされていた王兄の心もついに開かれ、夫婦として少しずつ距離を縮めていっているのだ――と、侍従のダニエルから聞いている。
リシャールが赤ん坊の頃から離宮に勤めている庭師たちにとって、王兄は主君である一方、心の中では息子や孫のように思ってその成長を見守り、自分たちにできる範囲で彼を支えてきていた。
そんな彼が妃と仲よくしているというのは、彼らにとっても嬉しいばかりだ。それに、引っ込み思案で不器用なリシャールが、妃に花を贈りたいと思うようになるなんて。
目の前に当の本人がいなければ、感動のあまり泣いていたかもしれない。
「それは、それは。……きっと妃殿下も喜ばれるでしょう」
「……だが、その……どんな花がいいのか、分からないのだ」
仮面の顔を伏せ、リシャールは言う。髪の隙間から見える耳はほんのり赤く、緊張していることが分かった。
「俺には、どの花がいいとか全く分からないし……妃の趣味も分からないし……どうやって手入れをして、どうやって渡せばいいのかも分からない。それに、持っていったからといって喜んでもらえるとも限らない」
「……殿下」
「……」
「大丈夫ですよ。妃殿下はきっと、殿下のお気持ちを喜んでくださります」
庭師たちは立ち上がると、肩を落とす青年を優しい眼差しで見つめた。
やっと人として動き始めたリシャールには、好きになった人に贈り物をするという動作一つでさえ、知識不足で不安になってしまうのだろう。
そしてこれまでの義務的な贈り物と違い、妃のことを本当に好きだからこそ悩む、その感情にも戸惑っているのかもしれない。
「我々も微力ながら協力します。もちろん、花を選ぶのも手折るのも殿下のお仕事ですが、この道何十年の我々だからこそお教えできることもあるかと」
その言葉に、リシャールは顔を上げた。やはり表情は分からないが、その顔からほんの少しだけ緊張の色が消えたのではないかと思う。
「……それは、ありがたい。是非、教授願おう」
「ただ今戻りまし――」
図書館から戻ってきたサラは、その場で動きを止めた。いつものように本を浮かせて後ろをついてきていたダニエルも慌てて足を止めたのが、気配で分かる。
廊下からエントランスに入ったサラだが、そこにはリシャールがいた。彼がいるのは、ちっとも構わない。
だが顔全体を覆う仮面姿のリシャールはサラの行く手を阻むように立ちはだかっており、むっつりと黙ってサラを見ている――と思われたのだ。
――ふわり、と甘い香りがサラの敏感な鼻を擽る。
だがあえてそれには言及せず、サラは微笑みを載せてリシャールを見た。
「ただ今戻りました。……殿下はこれからお出かけですか?」
「……違う」
「そうでしたか」
「……」
「……」
「……君を、待っていた」
そう言うなり、リシャールは背後に回していた両手を出し――右手に持っていた小さな花束を、ずいっと差し出してきた。
「……これを」
「まあ……わたくしに、ですか?」
目を丸くし、サラは花束を見つめた。
おそらく庭園に咲く花を手折ったのだろう、薔薇をメインとした花束は白い包装紙でくるまれており、少々不格好なリボンで根本を結ばれている。
なんとなく花の匂いがしていたので予想はしていたが、差し出されたのは手作り感溢れる――花を切るのにも、包装したりリボンを結んだりするのにも慣れていない者が作ったとすぐに分かる、素朴で愛らしいものだとは思っていなくて、受け取るとつい顔がほころんでしまう。
「……ありがとうございます。とても素敵な花束ですね」
「……そうか」
「ええ! これ、殿下が作ってくださったのでしょう?」
「どうして分かっ――い、いや、別に、そんなの……やっぱり、不格好だろう。もっときれいな……そう、クレアとかに作り直させる」
「えっ、そんなのだめですよ」
「……だが」
「だって、殿下が作ってくださったんですもの」
回収されてはたまらないと思って花束を抱き寄せ、サラはふふっと笑う。
「花は好きですし、贈り物も嬉しいです。でも、殿下が作ってくださったのなら……もっともっと、嬉しくなるんです」
「……そうなのか?」
「はい。だから、このままをいただきます。しばらくこのまま置いておいてから花瓶に生けるので、またお見せしますね」
「……ああ、そうしてくれ」
小さな声で言うと、リシャールは仮面の縁を手で押さえてそっぽを向いてしまう。
――彼が動いた拍子に花と、草と、土の匂いがして、サラはますます笑みを深くしてそっと花束を抱きしめたのだった。