おいしい時間をあなたと①
本編終了後、結婚してしばらくの二人の話。
きっかけは、クレアから聞いた話だった。
「えっ……フェリエでは、貴族の奥方でも料理をするの?」
「わりとよくある話ですよ」
サラは驚いたが、クレアは当然のように答えた。
お茶を飲みながらクレアと談笑していたのだが、そのとき彼女の実家の話になったのだ。
クレアはフェリエの下級貴族階級出身で、侍女にぴったりな異能の能力を生かすこともあって城仕えを始めた。彼女の両親は城下町で暮らしており、たまに実家に帰ったときには母の手料理を食べるそうなのだ。
サラの母も公爵家傍系出身でよく菓子は焼いていたが、食卓に並ぶような料理を作ったことはなかったはずだ。サレイユの貴族女性は嗜みとしてお茶淹れと菓子作りは学ぶが、晩餐用の一品を作ったりはしないものなのだ。
「それは知らなかったわ。料理人が作らないものなの?」
「ああ、いえ、毎日ではないですよ。わたくしの母の場合は――家族の誕生日などの特別な日に、一品だけ作ることが多かったです。ちょっと多めに作って、使用人たちにも少しずつお裾分けするのが母のやり方でしたね」
「そうなんだ……」
フェリエはサレイユよりも身分差の壁が低めだということは、サラも実感していた。だが、貴族の奥方が作った料理を使用人に分け与えるほどだとは思っていなかった。
(私もフェリエに嫁いだ身なのだから、こういうのにも慣れるべきだよね)
……ということは。
「……私も殿下に何か作って差し上げたら、喜んでいただけるかな?」
「まあ、それはとても素敵です! ええ、ええ! 殿下ならきっと、サラ様が作られたものならなんでも喜んで召し上がりますよ!」
「……それはそれでどうかと思うけれど」
突っ込んだが、今のリシャールであればサラが作ったものなら、沼だろうと炭だろうと本当に喜んで食べそうなのが笑えないところである。
(でも、殿下が喜んでくださるのなら……)
「……何か、殿下のお好きなものを作って差し上げたいな。でも私、いわゆるメインディッシュみたいなものを作ったことがなくて」
「サラ様はお菓子作りをなさりますからね、調理自体には慣れていらっしゃるので、それほど心配なさらなくていいですよ。わたくしたちもお助けしますから!」
「ええ、ありがとう。……あ、そうだ。せっかくだから、殿下を驚かせたいな」
サラはこそっと声を潜めた。
今、リシャールはダニエルを連れて本城に行っている。だから内緒話をするような声にする必要はないのだが、なんとなく、だ。
「殿下に内緒で計画を進めるのですね? いいと思いますよ! それでは早速、計画を立ててみましょうか」
「ええ、よろしくね」
乗り気なクレアを頼もしく思いつつ――ふと、サラは思った。
(……そういえば、殿下の好きな食べ物って何なんだろう?)
サラは、鼻が利くという特技を持っている。
だがリシャールもまた、別の意味でよく鼻が利くようである。
「……少しいいか、サラ」
名を呼ばれ、サラは振り返った。
リシャールは仮面を取り、デスクで書き物をしていた。国王エドゥアールに頼まれたものらしく、「しばらくは否が応でも引きこもり生活になりそうだ」と呟いていたものだ。
リシャールは書き物の手を止め、手を組んでサラを見つめていた。柔らかい緑の目は薄く細められ、眉間には皺が刻まれている。
彼と改めて結婚してからは見る回数がぐっと減った、不機嫌そうな表情である。
「……はい、何でしょうか」
「……」
「……」
「……いや、いい。なんでもない」
サラを呼び止めたのは自分だというのにかなり悩んだ末、リシャールはぼそっと言った。だがどう見ても、「なんでもない」という様子ではない。
(こういうときの殿下は、頑なになるんだよね……)
元々頑固なところがあるが、今の彼は「言いたいことはあるけれど、それを言おうか迷っている」ときの表情をしていると分かり、サラはすとんと肩を落としてリシャールに歩み寄った。
「なんでもないことはないでしょう? 私に何かおっしゃりたいことがあるのではないですか?」
「……それはむしろ、君の方じゃないか?」
「えっ?」
「何と言えばいいのか……最近の君は、どこか落ち着かない様子に見られる」
リシャールの指摘に目を瞬かせた直後、サラは内心ぎくっとした。
サラはここ二日ほど、クレアと一緒に「殿下に手料理を振る舞おう作戦」を進めていた。
離宮の料理人に相談して日取りを決め、何を作ればリシャールが喜ぶか考え、買い出しにも自分で行くことにした。
ダニエルにも根回しし、サラが料理を作る計画をこっそり進めていることをリシャールに感づかれないようにしてくれているのだが――
(ひょっとして、私の行動が挙動不審になっていた? それで怪しまれてしまったとか……?)
サラの動揺にも、リシャールは気づいたようだ。
彼は眉根を寄せると、少し悲しそうな眼差しでサラを見上げてきた。
「……もしかして、サラ」
「は、はい!?」
「体調が悪いのか?」
……どうやらバレてはいなかったようだ。
だがほっとしたのもつかの間。リシャールはサラの挙動がおかしいのを、体調不良だと勘違いしているのだ。誤解を解かなければ。
「い、いえ、そういうわけではありません。私はとても元気です!」
「……本当か? 体調不良ではないのなら――昨日も一昨日も、君は夜遅くまで何か調べものをしていただろう。その後もなかなか寝付けていなかったようだし……寝不足なのではないか?」
(すみません、それも全部、計画の準備のためなんです!)
クレアが実家から持ってきてくれた料理の本を借り、夜遅くまで読み込んでいた。リシャールが待つベッドに入ってからも、頭の中では芋の皮を剥いたり鍋で煮たりとイメージトレーニングに忙しい。
「いえ……ちゃんと睡眠は取れています。読書に夢中になっていただけで……あの、本当です!」
「……それならいいのだが」
一応納得はしてくれたようだが、なおもリシャールは消化不良らしく難しい顔をしている。
(殿下を喜ばせるために計画を立てているのに……心配させるなんて、本末転倒だ!)
「心配させてしまい、すみません。今晩はすぐに寝るようにします」
「……すぐに、か」
「えっ、はい」
「……」
「……」
「……もし君の体調がいいのなら、今晩は一緒に夜更かししないか」
消えるような声でリシャールが告げた言葉に、サラは小首を傾げた。
(一緒に夜更かし? お喋りをするとか、本を読むとか……?)
そう思ったサラだが、組んだ両手の甲に額を載せて俯くリシャールの耳が赤いことに気付き、きゅっと唇をすぼめた。
こんな状態のリシャールが口にした「一緒に夜更かし」の意味が分からないほど、サラは鈍感でも純粋でもない。
(そ、そういえばここ二日ほどは私の寝入りが遅かったし、その前は殿下も夜に出かけられていたから……)
書斎に、なんとも言えない空気が漂う。
リシャールの耳はますます赤くなり、それに呼応するようにサラの頬も熱くなる。
「……いや、やっぱりなんでも――」
「待ってください! ……あの、私も……一緒に夜更かし、したいです……」
言葉の最後の方はほぼかすれてしまったが、リシャールの耳にはちゃんと届いていたようだ。
彼は顔を上げるとほんのり目元を赤く染めた顔でサラをじっと見、そしてぷいっとそっぽを向いた。
「……そ、そうか。それなら……今晩は本を読まず、すぐにこっちに来てくれ」
「……はい。……あの、一緒に夜更かし、楽しみにしてます……」
「…………俺もだ」
言葉はぶっきらぼうだが、赤い耳と頬が彼の心の内を雄弁に語っているようだった。