07 イグナーツ家の当主
お屋敷の周囲には警備なり監視魔法なりあるだろうと思っていたが、なかった。
屋敷はかつて訪れた時のような、歴史を感じさせる荘厳さはなく、手入れされていないかのようにボロボロだ。
かなり、経費削減のために使用人やら常時発動させておくべき魔法の器具やらを減らしたようだ。
どうやらお金を搾り取るだけ搾り取ってぽいしようという考えの方のようだ。
ハルトがひどい目にあってないといいけれども。
どこから侵入するか……屋敷を睨み付けていたら、ハルトを見つけた。
ベランダにいる。
何故ベランダに?
近付いてはっとする。
この季節にしては薄着過ぎる。
こちらに気付くことなく、彼はうつむいていた。
……ベランダは三階。
ひっくり返っても子供じゃ下りられない。
内側から鍵をかければ立派な牢獄だ。
彼の家はその特殊性からか貴族街から外れた場所にある。
庭も広く、叫んだところで誰も気付かないだろう。
記憶の中のハルトは困った顔をしている。
あの大人しくて泣き虫で甘えたのハルトが、傷付けられてるかもしれないと思うと胸が痛かった。
「ハルト!」
小声で名前を呼ぶと、潤んだ瞳が私を捉える。
私はゆっくりとベランダに降り立った。
「……そろそろ来ると思っていました。」
知っていた表情をしていたのは一瞬で、仮面が外れるかのごとくするりと感情が消えた。
そこにいるハルトは、記憶の中の彼とはあまりにもかけ離れていた。
「こちらへ。」
いままでと喋り方が変わった事に、ゲームで分かっていたはずなのに衝撃を受けた。
まるで別人のようだ。
記憶の中の彼と上手く結びつかない。
彼はふらつきながら窓へ向かった。
窓枠に手を触れ、「開錠」と呟くとカチャンと音がして窓が開いた。
物を動かす魔法の応用かと思われる。
呼び掛けるための名前がないのが気になるが、省略可能なものなのだろうか。
あれ? というか締め出されてたのでは?
……いや、本編だとこの事件を地力でどうにかしていたのだ。
すでに解決に向けて動いていても不自然ではない。
「これを。」
ハルトは一冊の本に挟んであった手紙を取り出して、私に差し出した。
私が説明を促すと、ハルトは落ち着いた声で話し始めた。
「当主代理を名乗ってるあの男は、イグナーツ家の地下書庫から得た情報を他国へ売り渡そうとしています。この手紙には売り渡そうとしている情報、取引の日時と場所が記載されています。……直接騎士団に渡しても取り合ってもらえないでしょう。君のお父様に渡して下さい。」
「ハルトは、どうするの?」
「連帯責任にはなりませんよ。私はまだ10歳の子供ですから、罪には適用されません。それにイグナーツ家はトラヴィス王国において重要な役割を担っています。潰す事はまずないでしょう。」
あの男が処罰されれば当主としての権限は私に戻ってくる、とハルトはこれからの顛末を語った。
……もう、当主の顔をしている。
あの甘ったれで泣き虫の彼が、なにもかもを1人で背負わんとしている。
私の知っている彼だ。
「貴方は手紙が途絶えたら私を探すだろうと確信していました。貴方は私を守らなければいけない弟かなにかと思っているようですから。」
お願いします、と再度手紙を渡され、私は手紙を受け取る。
へにゃっとした表情はそこにはなく、彼はどこまでも”当主”の顔をしていた。
少年はこれからの人生で、幾度も心を殺していく。
その事実に胸が痛んで、思わず口に出してしまった。
「……大丈夫?」
「……!」
ほんの少し、驚いた顔で私を見返す。
ハルト少年はやはり落ち着いた声で言葉を返した。
「ええ、大丈夫です。例の男は財産を搾り取ったと思ってるみたいですけれど、あれは一部でしかありません。私が当主の権限を取り戻せれば、魔術具の用意も、解雇された使用人達もすぐに元通りの生活に戻れます。」
イグナーツ家は大丈夫です、と彼は微笑んだ。
ゲームでハルト=イグナーツは使用人達と協力して事件を解決したとあった。
イグナーツ家にとって、使用人は重要な役割がある。
お屋敷には秘密の通路や隠し書庫、武器倉庫なんてのがいくつも存在している。
そのため使用人達は限られた者にしかできない。
イグナーツ家の使用人は、代々彼の家に仕えている特別な一族なのだ。
そのため、当主一家と使用人一族一同は結束が強い。
泣き虫だったハルトが立ち上がったのも、この使用人達が理不尽に解雇されたからこそだろう。
彼は愛する家族を守る為に変わろうとしたのだ。
……。
だけど、私が心配してるのは、イグナーツ家ではない。
私は。
「そうじゃなくて、ハルトは?」
「え?」
「ハルトは今、大丈夫なの? 辛くない?」
辛いはずだ。
後少しの辛抱とはいえ、この家に居続けるのは。
本来のハルトなら、間違いなく。
だってまだ、当主の顔なんて外付けだ。
一朝一夕で変われるものでもない。
責任感だけで必死に悲鳴をおさえている。
さっきだって、彼の目は潤んでいた。
ハルトが身じろぐ。
何か言葉を絞り出そうと目線が泳ぐ、取り繕おうと考えているのか瞬きが増えた。
「……平気、で、」
ぽたりと、涙が零れた。
ぽたぽたと次から次へと頬を流れていく。
少年は呆然としていた。
「…………。」
「……ハルト、」
びくりと肩が震えた。
悪い事がバレてしまったかのように、彼の表情は怯えの色を滲ませていた。
「なんで、」
少年は俯いた。
恨めしそうな、絞り出したような声で言葉が続く。
「なんで、そんな事、聞くの……。」
「辛いに決まってる。」
堰を切ったように言葉が溢れる。
ハルトはキッと私を睨んだ。
「助けて、って言えるなら縋りたいよ! お父様とお母様に助けて欲しいって何度も思ったよ! でもいなんだ、僕しかいないんだから僕がどうにかするしかないじゃないか!」
大丈夫ではないということが、大罪であるかのように彼の心にのしかかっているのだろう。
あまりにも苦し気に吠える彼を見て、私はそれを口にした。
「なら、逃げよう。ハルト。」
私は非情にはなれなかった。
ゲーム通りの彼にすべきだ、と頭では分かっていた。
キャラクターの根本を変えるような事はしない方がいい、これは私の考えだ。今も思う。
それでも、目の前で、今を生きてる少年を見て、同じ事は言えなかった。
ここで私の家が彼を保護することも出来る。
例の男は警戒して交渉を取りやめるだろうが、時間の問題だ。
ハルトに当主としての資質がないと判断されれば、イグナーツ家は取り潰しになるかもしれない。
けれどハルト本人が罪を犯したわけではない。
その先はいくらでも道がある。
当主になる以外の道があるのだ。
そも、両親の教育の賜物で、すでに魔法の理解度が深いのだ。
国が放っておかない。
ハルトの視線が揺らいだ。
本当は逃げたいのだろうに。
それでも、最後は悲し気な微笑みに変わった。
「それは……。それは、出来ません。」
「どうして?」
「僕は、……いえ。私はイグナーツ家を誇りに思っています。仕えてくれる使用人達も含めて、私はイグナーツ家が大切なのです。」
それを捨てるなんて出来ません、そう彼は断言した。
……私はこれから、彼が弱さを。心を捨てていくことを知っている。
「その道は、とても辛い道のりだと思うよ?」
「承知の上です。」
……振られた。
私は、これ以上の説得は無駄であることを悟った。
彼の心はもう、動かないだろう。
……結局モブに何か出来るわけもなかったのだ。嫌われていたし。
分かっている、のに。
足がまるで接着剤でもつけられたかのように動かない。
すぐ手紙を持っていかなければならないのに。
「……ブランカ、僕は君が嫌いでした。君は僕と同い年なのにしっかりしてて、優秀で、お父様には比較対象が出来てからちょっと厳しくなりました。」
優しい声だった。
ゲームとは違って、まだ声変わりのしていない少年の声だ。
まだ子どものはずなのに、随分流暢に話すものだ。
この事件は彼を急速に大人にしてしまったらしい。
「でも、本当は君を認めてました。君は努力家だって分かっていたからです。」
……そうだ、ハルト=イグナーツは努力する人間を評価する。
よく周囲を見ている、優しい人だ。
「それでも君に優しくできなかったのは……なんというか、君はまるで姉であるかのように僕を守ろうとしてて、僕を対等には見てくれなかったからです。」
言われてはっとした。
私はちゃんと今の彼を見て接していただろうか。
推しの幼少期、と。
未来の彼を基点として彼を見ていなかったか。
「僕は君と対等なライバルになりたいんです。君に心配されて、守られる存在ではなく。……信頼しているライバルの君に、その手紙を託したい。」
任されてくれませんか。
ハルトは笑った。
……事件が解決するまで、ハルトはこの家で耐えなければならないだろう。
今後当主としての責任が付きまとうだろう。
これを受けるということは、ハルトのこれからの人生を、未来を信じるということだ。
信じて欲しいのだ、彼は。
推しに、ここまで言わせて引き受けないわけにはいかない。
「ほうきよ。」
まるで見捨てるかのような選択に心を痛めながら、私は窓から飛び立った。
「ありがとうございます、ブランカ。」
「……事が済んだら、連絡をくださいませ。」
悔しい、モブの私が運命を変えられるはずもなかったのだ。
けれど、ああ、解釈一致だ。
私の知ってるハルト=イグナーツはそういう人だ。
汚れても、傷ついても、彼は立ち上がった。
強く気高く美しいキャラクターだった。
だから彼を好きだと思った。
彼の人生が好きだと思った。
この事件は彼の人生の原点。
きっとこれから彼は生き方を変えないだろう。
まだ冷たい風が、頬を叩いた。
それから、事件が解決しても、ハルトからの連絡はなかった。
1年、2年と時間が流れていった。
ハルトとはあの日以来、ぱったりと連絡が途絶えてしまったのだった。