毒
僕は毒を吸い込んだ。
世界を救うためにだ。
大気中に充満する毒を肺いっぱいに。
決して美味いものではない。
毒が僕の肺の隙間に滑り込むと、内側から身体を破壊しようとする。
『毒の正体は未だ解明されておらず_____』
真っ暗な部屋の隅で、テレビニュースの音だけがやけに大きく響いていた。その暗闇の中で、僕は独り、荒い呼吸を繰り返している。絶えず喉を通る毒に、何度もむせ返りそうになるが、毛布を体に引き寄せて必死にそれを飲み込んだ。
苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい。
心の中で何度も叫ぶ。声を出す余裕すらなかった。今日はやけに毒が濃いのだ。いつもなら楽に眠れているはずなのに、今日の夜はそういう訳にもいかないらしい。
『世界を救うため。』
そんな大義名分をぶら下げて、僕は今にも死にそうになっている。
認められたかった。誰かに。
褒められたかった。誰かに。
『今回の箱となる人物は、今も毒の器として、一心に毒を吸収しているわけですが、石巻さんは今回はどこまで保つとお考えでしょうか?』
『前回の箱はすぐダメになってしまいましたからね。今までのデータから見ると、平均でももって半年というところですし、難しいところですね。しかし今回は若い男性ということですし、期待はできるでしょう』
『今回は初めて日本から選出された訳ですから、日本のよい前例になれば嬉しいですね。それでは次のニュースです』
このニュースで言われた若い男性というのが、まさに僕だ。
それにしてもこの石巻とかいう専門家は一体なんだ。前回の箱なんて言い方、失礼だとは思わないのだろうか。しかもすぐにダメになったなんて。もはや僕たち毒の箱は、箱と言われるぐらいだから、人間として扱われないのかもしれない。まぁ、だから僕は今こうして悲しい末路を辿っているわけだが。
『毒の箱』
それは突如現れた毒の対策のために作られたものだった。毒はある一定の濃度に達すると人々をいとも容易く死に至らせる。発生源は未だにわからない。ただ、排出される毒の量は年々増え続けているらしい。世界に充満する毒は、どんな頑丈な箱に入れても、部屋に集めて密閉しても、スルスルと大気中に漏れ出してしまう。そして、もしそれらが可能だったとしても、毒を全て入れておける空間には限りがある。しかしやっとその問題に対して兆しが見えた。研究が進められた結果、最適な毒の入れ場が見つかったのだ。ただ、それは不運なことにも人間の体であった。特定の人間の体内に、毒を集中的に集めて置くことが可能な薬ができるらしい。そのことが論文で発表されると、たちまち世界中で話題となった。しかし最適な入れ物が人間の体とわかったところで、誰が毒をその身に受け入れるだろうか。倫理的にも、道徳的にも、人間が毒の箱となるのには、賛否両論であった。しかし、人間は所詮単純な生き物だ。論文を発表した研究者である外国人男性は、自分がはじめての箱になると手を挙げたのだ。その途端、誰も何も反論を言わなくなった。男性は救世主だとニュースで持ち上げられ、特別な薬の効果によってその身に毒を集め始めたのだ。
あの日から何年経っただろうか。僕はちょうど10人目の箱となった。
毒の箱となる人物は立候補制で決められる。ということは、僕も立候補したわけだ。しかしそれには理由があった。
ピリリリリリ
ローテブルの上にある携帯が鳴る。
「はい...」
『鈴井さん、今日の調子はどうですか?』
「今日は、酷いです。今までこんなことはなかったのに、眠ることもできそうにない』
『やはりそうでしたか...。実は先程、毒の濃度が新たに最高濃度を記録しました。鈴井さんの体への負担が大きくなるでしょう。こちらも力を尽くします。何かありましたらいつでも連絡をお願いします』
僕の返事も聞くことなく、通話はプツリと途絶えた。
あちら側は、正直僕の体のことなど気にしていない。箱としての機能を心配しているのだ。
立候補した時の僕は、まさか箱として生きることがこんなにも孤独なことだとは思ってもみなかった。
「あの子は一体誰が引き取るんだ。うちは子供も多いし、もう一人だなんて到底無理だ。お前子供好きなんだしちょうどいいんじゃないか」
「うちだってお義母さんの介護があるから無理よ。それにあの人の子供なんて死んでも嫌よ」
「俺は転勤が多いし、それに子供は元々嫌いなんだ。兄さんが見ればいいだろ」
初めて人の冷たさに触れたのは、両親の葬式の時だった。父さんと母さんは、なぜか親族から嫌われていた。その理由は、つい最近父さんのお姉さんからの手紙で知った。駆け落ちだったそうだ。両家とも、父さんと母さんの結婚には反対だったらしい。それは家柄的な問題だという。その反対を押し切って結婚し、二人とも家とはほぼ絶縁状態でやってきたのだ。そんな中、僕を残して二人はぽっくりあの世に行ってしまった。手紙の最後には、「あの頃はごめんなさいね」と書かれていた。思ってもないくせに。あの頃の僕は、自分がこんな待遇にあうとは思ってもみなかったから、今まで相当捻くれて生きてきたわけだ。親族から繋がりのよくわからない家まで、大人のエゴたっぷりに随分とたらい回しにされ、いつも家の中では孤立していた。そんな僕には、孤独なんて屁でもないと踏んでいたのに。
「さみしい....」
最近の僕は弱音ばかり吐いている気がする。
生きている意味を見出せなかった僕は、世界の救世主として名前を残し、さっさと死ぬ予定だったのに。
『特別毒の箱保護隔離法』
記念すべき10人目にして、毒の箱となる人物の情報は一切明かさないという法律が可決された。
以前までなら、箱となった人物は逐一その状況をテレビやネットで共有された。箱は世界の救世主として人々から称賛の声を貰い、全面的な生活を保証され、一度街を歩けば有名人顔負けの英雄そのもの。
今まで日陰で生きてきた僕は、一度でいい。死んでもいい。毒に侵されてもいいから、日向に出たいと望んでいた。毒の箱はまさにそれだった。
なのになのになのに。
酷い仕打ちもあったものだ。
僕は、名前は愚か。どんな人物で、今どんな風に生きていて、体調は良いのか悪いのか、苦しんでいるのかいないのか、何もかも情報を明かされない。
つまり僕は、このままいつ死ぬかわからない状況で独り、誰かに頑張ってと声をかけられることも、頑張ったねと労われることもなく死に絶えていくのだ。これが現実の厳しさというものか。
『日陰は日陰らしく、そこでじっとしていろ。』
昔誰かにそう言われた。
あれは確か、両親が死んで、初めて引き取られた家の子供に言われたんだっけかな。
「その通りだよ。日陰は日陰らしく。僕はココで死ぬんだ」
ベッドに大の字で寝転がり、暗い部屋を見渡した。
特別毒の箱保護隔離法は、個人情報を保護するだけではない。隔離。つまり僕は外界から隔離されているわけで、自分の意思で外に出ることもできない。これは、箱となった人を、外界のあらゆるものから守るためなどと言われているが、正直なところ管理しやすいからというのがもっともなところだろう。
言われてはいないが、この部屋はあちら側が用意したのだから、それなりに色々な仕掛けが施されているに違いない。僕が毒の箱となってから早三ヶ月。毒の濃度が上がっているということは、半年保つかは正直難しいところだろう。
日本初の毒の箱が、こんな人間でさぞ恥ずかしいだろう。僕はいい前例になれそうにないよ。
認めて欲しかった。
褒めて欲しかった。
愛情が欲しかった。
暖かい家族に囲まれて
温かい食卓を囲んで
日向で生きていたかった。
僕はもはや誰のためかもわからないまま、体から毒が漏れ出さないように必死で息を飲み込んだ。
ブチブチと、中で何かがちぎれる音がする。必死の我慢も虚しく、僕は盛大に咳き込んでしまった。口の中で鉄の味がジワリと広がっていく感覚。それが気持ち悪くて、堪らず口の中の異物を吐き出してしまった。
「嘘、だろ....。」
暗闇と溶け込みそうなほどの黒い血の塊が、手のひらに広がっていた。僕はあとどれくらい生きれるのか。
肺胞が次々と
ニュースのように、今回はどれくらい生きれるだろうねと、どこかの家庭の食卓で、きっとネタにされているんだろう。
死んでしまっても、残念だったねと僕の能力不足を疑われ、誰かとキスでもしているのだろう。
悔しくて仕方がない。
つくづく自分が情けなくて、手についた血を洗い流し、深く毛布を被った。
明日は生きているのだろうか。