天秤
白泉に嫁ぎ、お袖の日々が新しくなった。
小さなお店の若女将は、慣れない場所と人と仕事に日々を嵐の様に奪われて行った。
しかし、お袖は目まぐるしいのも忙しいのも大歓迎だ。
暇がないと、鬱々と考えを巡らして腐っていられない。
お袖は実家でずっと部屋に籠っていた自分が途方もなく愚かな気がして、自らの中でその気付きを払しょくしたいが為に、更にうんと頑張るのだった。
大旦那も大女将も、働き者に目が無かったし娘がいなかったのでお袖を可愛がった。
奉公人たちは初めこそ一体どんな我儘なお嬢様がやって来るのか、余分なお世話の為に顎でこき使われ仕事が増えるのではないかと戦々恐々としていたが、右も左も分からないなりに頑張る美少女の健気な姿に心を溶かしていった。
雄大な山の如くお店を見渡し、丁稚からの叩き上げらしい強面をした番頭ですら、お袖に何か質問される時だけは若干穏やかな顔になるから、下の者にクスクス笑われた。
あなたが来てから、お店の空気が柔らかいよ。
喜作に言われて、お袖は微笑む。
実家では、家の中に影を落としてばかりいたのに。
たどたどしく、もどかしい日々でもあったが、暮れの大掃除の頃には大女将と台所を清め、すっかり小和泉家の一員となっていた。
*
けれどもどんなに小和泉家に馴染み一員になったとしても、初夜の晩に見た喜作の身体に広がる痣の事は、結局本人から聞き出す事が出来ずにいた。
転んだんだよ、と、喜作は言うが、だったらどんな転び方をしたのか知りたくなる痣の付き方だ。
負けじと食い下がるには、まだ少し遠慮が消えない頃でもあった。
そうこうしている間に、喜作の痣は薄っすら消えてしまった。
消えてしまうと、ますます口に出しにくい。
結局、お袖の心にだけ痣が残った。
例えば、喜作と庭にやって来る小鳥たちをほのぼのと愛でている時や、しみじみこの方に嫁げて良かったなと思う時に、喜作の組んだ腕や、胸元や、背中などに着物を通して痣が見える気がしてしまうのだ。
そしてその時、お袖は辰二郎を思い出す。
辰二郎の身体に付いた無数の痣を。
*
謎が解けたのは、嫁入りして初めての年始だった。
年始の挨拶に、喜作とお袖の仲人を勤めてくれた菊重の旦那がやって来た。
年始回りに大忙しの大旦那、大女将に代わって喜作とお袖が出迎えると、菊重の旦那は並ぶ若夫婦にニッコリ笑った。
「御慶申し上げます」
そう言って白扇子を添えた菓子折りを差し出す。
白泉よりもずっと大店の菊重が自らやって来るとは、と、喜作は肝を潰さんばかりだ。
「父と母がそちらへご挨拶に伺う予定でしたのに、旦那様自らお越しいただいて……なんと申し上げたらいいか……」
「いや、儂が白泉の若女将を年の初め一番に見たかったんだ」
要するにお袖に挨拶に来たのだった。
菊重からしたらお袖の実家がお得意様なのだから、ちょっとややこしい。
けれども言葉に裏は無い様で、菊重の旦那は眩しそうにお袖を眺めて幸せそうだ。
「本当に綺麗な嫁を貰って、何だか今でも白泉にいるのが信じられない」
失礼な事を言う。
しかし、未だ狐につままれている心地なのは喜作も同じ様で、
「全くです、富くじに当たった気分でございます」
「まぁ、富くじなんて」
そんなものと一緒にしないで欲しいお袖だ。
菊重の旦那は若夫婦のやり取りを見て、晴れやかに声を上げて笑った後、
「そうさな、町中の男どもが羨む富くじだった。嫉妬されても仕方が無いなぁ、なぁ、若旦那。それにしても、商売物の腕が無事で良かった!」
そう言ってうんうん、と頷くので、お袖は眉を潜めた。
喜作はというと、息を飲んで口の端を引きつらせている。
なんとなくでなくとも、お袖にはぴんと来るものがあった。
「なんのお話でしょうか?」
話を遮ろうとする喜作よりも大きな声で、菊重の旦那が「なんだ、知らないんですかい?」と、腕を組み眉を潜めた。
お袖の刃物屋探しの時といい、この旦那は大らかで世話好きだが、何かをまるで隠そうとしない。いつも公明正大に生きている証でもある。
「何がそんなに障るのだ」という顔を、特に今の様な場面でされたらもう、ひとたまりもなかった。
「お袖さんが嫁入りする二日ほど前に、若旦那はどこぞの若い衆に囲まれて襲われたんですよ!」
お袖は驚いて喜作を見る。
喜作はグッと俯いて、「もう終わった事です」と、小さな声で言った。
「どうして……」
「そりゃあ、嫉妬ですよ、お袖さん。あんたどれだけ良家の縁談を振って来たんですかぃ」
「え……」
お袖は、背中を冷たいものが撫でて行く感覚にゾッとして胸に手を当てる。
縁談の中身を全て知っているわけでは無いけれど、両親が勧めた縁談の中にはとんでもない良家の御子息もいた。
白泉の客間より大きい看板を玄関口に掲げる様な大店からも、求められていた。
辰二郎の事件以来、色味のある事から遠ざかっていたので彼女自身は知る由もないが、町中の男達が彼女に逆上せていた――――。
「男冥利に尽きるじゃねえか」
喜作が生きているからか、自身はよっぽどの猛者なのか、菊重の旦那はそんな事を言う。
青ざめるお袖の横で、喜作がサッと深く平伏した。
「菊重の旦那様、私は果報者です。良い話を持って来てくだすって、ありがとうございました。そろそろ、先からお約束しているお客様がいらっしゃる時分ですので……」
「おう、年明け早々、繁盛しているじゃないか。しかし、もう少し良いだろうか」
菊重の旦那は腰を浮かそうともしない。
「なんでしょうか」
「大旦那に、ちょっくら相談したい事があるんで、帰りを待たせて貰えないだろうか」
そう言う菊重の旦那の目に、初めて真面目で押しの強い光が宿っていた。
喜作が瞬きをして、首を傾げる。
「どういった……?」
「すまないが、まずは、大旦那に通したいんだ」
開けっ広げな旦那がこんな風に言うとは、よっぽどの事なのだろう、と、察して、喜作もお袖も顔を見合わせた。
「こちらから伺わせますが……」
「なんだ、やけに追っ払いたがるな。せっかく舅姑があいさつ回りで夫婦水入らずのところ、悪かったなぁ……」
「そんな、滅相もございません! お待たせしては申し訳ない一心でございます」
「こちらの都合だから、気にしないで欲しい。悪いが、待たせてもらうよ」
喜作は急いで両親を呼び戻す為小僧を走らせた。
しばらくして、大旦那と大女将はなんだなんだと戻って来て、慌しく菊重の旦那へ挨拶を済ませると、客間にしばらく引きこもってしまった。
肝心要の人出を取られ、お袖も喜作も他の挨拶客を迎えるのにてんてこ舞いだ。
そのせいで、お袖は喜作に痣の話をする暇が無かった。
喜作も忙しい事を楯に、お袖と目を合わさない。
日の暮れる頃、菊重の旦那が帰って行くとようやく落ち着いて、挨拶先や訪問客の一覧を帳簿に記し終わる頃には、一日が矢の様に飛んで行ってしまった。
そしてようやく一息ついた矢先、大旦那と大女将から呼び出され、お袖は息つく暇も無い。
喜作はというと、嬉々として「なんだろうね、菊重の旦那がやけに話し込んでいたから、きっとその件だろうな」と言って、お袖を急き立てた。
お袖はここで聞き逃したらもうずっと同じ様にはぐらかされる気がして、「待って下さい」と、声を上げた。テコでも動きませんよ、と表明する為、しっかりと正座して顔を喜作へ向ける。
障子を半分程開いていた喜作は、後ろ背で溜め息を吐いて、そっと障子を閉じた。
「菊重の旦那様の仰られた事は、本当の事ですか」
「うーん、もう済んだ事だよ」
「一体誰が」
「誰だって良いじゃないか。私達の知らない人らだよ」
「許せない」
どうしても、辰二郎と被る。
いや、喜作が巻き込まれた事件は、きっとほとんど一緒のハズだ。
もしかしたら、同じ者達の仕業かも知れない。
そんな風にお袖が思い詰めていると、
「ねぇお袖」
と言って、喜作がお袖の直ぐ向かいに座った。
お袖が彼を見上げると、部屋の小さな灯の中、喜作の目が細まる。
「どうして笑っていらっしゃるの」
「富くじに当たったみたいだから」
あなたは本当に綺麗だね、と、喜作は言って照れ笑いをした。
出会った時から判っていたが、やっぱり少し栓がおかしい人だ。
「なにを言って……」
「私が浮かれて幸せそうにふらふら歩いてたのが悪かったんだよ。あなたを欲しい人がたくさんいる事を知っていて、ちょっと得意になっていたしね」
そりゃあ頭に来るさ。と、喜作。
「私が気に病むと思って、黙って下さっていたのですね? お前のおかしな刃物屋選びのせいで、とお叱りになられても良かったのに……」
私は富くじなんかじゃない。きっと貧乏くじだ、とお袖は思った。
婿探しに刃物屋を選ばなければ、向かいに座って微笑んでいる人の良い男を傷付けずにすんだのに。
もしも、腕や手指をどうこうされていたら、否、辰兄さんみたいに――――と思うと、お袖は心から震え上った。
「私が何も言わなかったのはね、そうかも知れない。でも、一番は嫉妬なんてつまらないものに干渉されたくなかった」
殴られる以上に嬉しくってさ、だから襲われるんだなぁ。彼らの腹も立つさ、ははは。と、またおかしな事を言う。
「私を殴ろうが蹴ろうが、誰もあなたをお嫁には出来ない」
ふふ、と喜作は笑う。
「だって刃物屋じゃないんだもの」
「全然おあいこじゃないわ」
「全員に嵌る天秤なんてないからねぇ」
お袖が不服を言おうとした時、障子の向こうで急かす声がした。
「若旦那様、大旦那様が『まだか』と……」
「ああ、ごめん。すぐ行きますと伝えてくれ」
答えて、喜作は立ち上がる。
彼は相変わらず眩しそうにお袖を見る。夜の部屋はとても暗いというのに。
彼女を映す細めた瞳の中では、勝利が輝いている。
*
大旦那と大女将が痺れを切らして待つ座敷に上がると、そわそわとした空気が充満していた。けれども、少しだけピリッと危うい張りつめたものも感じて、喜作もお袖もそっと目配せし合った。
――――一体、なんのお話だろう。もう遅いというのに、明日まで話すのを待てないなんて。
向かい合って座ると、大旦那が腕を組み、じっと喜作を見詰めゆっくり喋り始めた。
「遅くに悪いな。実は、菊重の旦那から仕事の相談をされたんだ」
「仕事の相談、ですか」
喜作は首を傾げる。仕事の相談なら、どうしてこんな夜更けに集まってする必要があるのだろう。
「ああ。稚児刀を一振り」
特に珍しくない依頼だ。どこか立派なお家で赤ん坊が誕生したか、成長のお祝いだろう。
けれども、白泉はそんなものを依頼する様な筋の良いお客様を数える程持っていない。
大旦那は、依頼主はその中のどのお客様でも無いと言う。
「刀ってだけでもウチじゃ最近珍しいのに。どこのお子様へお贈りするものですか」
「うむ……それが、菊重の旦那様もしきりと首を捻っておったんだが……あの旦那も間の間に入ってるだけみたいでな」
「間の間。大きなお話みたいですね」
大旦那は深く頷いた。大女将も、緊張した顔でジッと主人を見守っている。
「去年の秋頃に、若殿様の側室様がご懐妊されたそうなのだ」
「……は。え、はい……」
見積よりも大きな話が飛び出て、喜作もお袖も目を見開く。
そうだろう、そうだろうとばかりに大旦那は頷いて見せた。
「初夏にはお生まれあそばせる」
「……」
困った様な、興奮した様な顔で、大旦那が口を開く。
「稚児刀を一振り」