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喪失

 辰二郎は柳並木の川渕で、両腕を後ろ手に手拭いで縛られ、半分川の水に浸かって発見された。

 顔は暴虐の限りを尽くされたのだろう、辰二郎の涼やかで凛とした面影は判別できない程真っ赤に潰され、身体中硬いもので打たれた痣や傷だらけだったという。

 父や寅之助などの男達と違い、朝にようやく現場へ足を踏み入れる事を許されたお袖は、ござをかけられて横たわる遺体を見て母と一緒にへたり込んだ。

 ござから力無くはみ出る足の色を、お袖は見た事が無い。

 見た事が無いのに、それが死人の色だとハッキリ分かって息が苦しい。

 生き生きとした辰二郎が、あんな足の色をしているハズが無い。人違いなんじゃないのか。

 破裂する様に母が咽び泣き出した。

 お袖はパッと駆け出して、横たわるござに近寄った。

 寅之助がそれ以上ござに近付かない様にお袖を止めたが、お袖は首を振って、

「本当に、辰兄さんなのですか」

 と、聞いた。そのくせ、頷く寅之助を見なかった。

 彼女は愛らしい目を吊り上げて、目に留まる人全てが嘘つきだと言わんばかりに睨み「辰二郎兄さんですか」と声を荒げた。

 皆が彼女の切ない様子に、目を逸らした。

 朝の冷たい秋風に柳の葉がざわざわ囁いて揺れた。幾重にも垂れさがる翠の中に、お袖は辰二郎の後姿を見た気がした。きりりと背筋を伸ばし、どこか向こうへ歩いて行く後姿だ。

 お袖が後を追おうとすると、突風が吹いて柳の枝が騒がしく束でしなった。

 そして、辰二郎の姿はしなる柳の枝の向こうへ消えてしまった。

 突風は悲しいくらい晴れ渡った空へ舞い上がって行き、もう二度と戻って来なかった。

 


 それから、お袖の時間は止まってしまった。

 表情が死に、ことりとただ座ったままに日々を過ごす様になった彼女を見聞きし、誰もが彼女の中身は兄の辰二郎と共に、天へ昇ってしまったのだと噂した。

 朧の中へ兄と手を取り合って、彼に架された苦痛を労りながら一緒に天に昇って行く兄想いの妹。

 きっと辰二郎も報われる事だろう。きっと寂しくないだろう――――。

 いいや、お袖はここにいた。

 その証拠に、彼女は最低限の日常生活をこなしていた。

 現実の世界で虚空を見詰め、辰二郎をあんな目に合わせた者を心の中で作り出しては呪い、心が鬱屈していくに任せていた。

 いっそ噂通りになってしまいたい。このままだと、そうなるのもすぐだ。

――――けれども、私は下手人の顔を見たい。何故辰兄さんにあんな酷い事をしたのか、理由が知りたい。

――――だから、その時まで私は根を枯れ果てさせやしない。

 彼女の周りは、兄の死など無かったかの様に緩やかに元の日常が戻りつつある。

 お袖はそれに逆らって、自分の時間を止めているのだった。

 今日も、その様にして時間を無視するつもりだった。

 彼女を取り巻く何もかもに、知らんぷりを決め込むつもりだった。

 だから障子の向こうから、みよが「お客様です」と呼び掛けて来ても、返事をしなかった。

 彼女の全てを承知の上で、勝手に障子が歯切れ悪い音を立てて開いた。

 お袖は構わなかった。

 私の時間は止まっているのだから。

 障子が開き切ると、部屋の中が少しだけ明るくなって「お袖ちゃん」、と、声がした。

 お袖は瞬きをした。

 敷居の向こうに、おきぬが頭を下げて正座していた。

 床に突いた白い手に従って広がる振袖の柄がお袖の目を引いた。

 金糸の紅葉だ。

 おきぬの時も、きっと秋祭りで止まっているのだ。

 それにしてもなんて見事な振袖だろう。誰もが袖を通せる代物ではないと、仕立て屋の娘でなくても容易に判る高級さだ。

 秋祭りで別れて以来、一度も会っていなかったおきぬは、伏せていた頭を上げると()()とお袖を見た。

 その瞳は燃える様に光っている。瞳の中のおきぬの炎は、怒っている。

 お袖にはそれが判る。

 だって、同じ炎がお袖の胸に広がって心を焦がし続けているから。

 やっぱり。私の味方はおきぬちゃんだけだ。

 おきぬちゃんだけが、私と同じ気持ちなんだ。

 けれども、紅などいらないおきぬの桜色の唇に、赤い朱が引いてある。

 「何処かへ行くの」

 お袖は掠れた囁き声を出した。声を出すのは久しぶりだった。

 おきぬは泣きそうな顔で微笑んで、小さく小さく頷いた。

 ここは冷えます、と、みよが部屋の中へ入る様に勧めたがおきぬは首を振った。「すぐお暇しますから」

 お袖は座っていられない程頼りない気持ちになって、畳に手をつき唇だけ動かした。 

『 ど こ へ 』

「お嫁に」

 目を見開くお袖の視線を、おきぬはしっかり受け止めて「お嫁に行きます」。

「お、おめでとうございます」

 みよが慌てて平伏した。

 お袖は、みよなんかこの場にどうして居合わせているのだろう、と思う。

 何がおめでたいんだろう。辰兄さんは亡くなったのに。

「お店は」

 鎖で絡め捕る様な気持ちで、お袖がハッキリ声を出した。

  だって、貴女は跡取り娘じゃない。何処へ行こうと言うの。

 おきぬはお袖がそう来るのを分かっていたのか、唇の端を複雑に歪ませた。ふっくらとしていた頬は削げ落ち、青白かった。

「遠縁の営むお店でお預かりしていた正吉という方が、跡を継ぐ事に決まりました」

「……」

「お預かりしていた」と言うのだから、きっと何処かの大店の息子だろう。多分、辰二郎の様な長男を兄弟に持つ……。

 跡継ぎが必要なのだから、彩白井はそうするしかないのだろう。

 でも。

 こんなに、すぐ? 

 こんなに、簡単に?

「お袖ちゃん」

「……」

 皆、どうして失ったものの皺寄せをそんなにもせっせと繕おうとするの?

「お袖ちゃん!」

 おきぬが少し大きな声を出した。

 お袖の瞳は潤んでいて、部屋の中の僅かな光にきらきらしていた。

「私はもう行きます。でも、お袖ちゃんがそんなんじゃ、心配して行かれない。どうしたら、貴女をしゃんとさせられるかしら」

 じゃあ、行かないで。

 たった一言が言えない。

 代わりに、喪失感と悲しみと、足を引っ張ってやりたいという醜い感情が、胸の中から、わっと沸き出した。

 目がまわりそうな激しい感情に、お袖は唇を噛む。痛みが友情を思い出させてくれた。

 共に大きくなった日々、輝かしい笑顔の日々、幾度胸の内を二人だけの秘密にしただろう。

 唇をもう一度噛む。

 キリ、と痛みの走った瞬間、お袖は霞から完全に帰って来た。

 お袖はおきぬのお望み通り、しゃんと背筋を伸ばし顎を引き上げる。

 そして、おきぬの顔を真っ直ぐ見ると、ぴしゃりと言った。

「きんきらきんな恰好して、どこへでも行けば良いわ」

 おきぬは心配そうな表情を動かさなかった。

 だからお袖は続ける。ほとんど喘ぐ様に。

「た、辰兄さんを、わ、わ、忘れて――そんな着物を着せてくれる、ひ、人と――、笑って――く、暮らせば、良いんだわ!!」

「お袖ちゃん……」

 おきぬが泣き声でお袖の名を呼び、顔を伏せ、頭を下げた。

 寒さに、おきぬの床に突いた手の指先が赤くなっていた。

 平伏するおきぬのうしろから見える庭に雪が降り、白く積もっていた。

 お袖の時間が再び動き出す。



 何処へお嫁に行くのか定かにさせず、ひっそりと籠が迎えに来て、おきぬは彩白井を去った。

 それっきりおきぬという娘が初めからいなかったみたいに、彩白井を新しい若頭が率いていた。

 祝い菓子が配られる様な事も無く、本当に隠れる様にいなくなったので、町のほとんどの者がしばらく気付かない程であった。

 そんな風であったから、何かある、と皆が察して、彩白井へ追及するのを伏せた。――――噂は町中を走った。有力なところでは、何処か裕福な処へお嫁入したのだろう。きっと、身分が違い過ぎて相手側が隠しているのだろう。というものだった。だったら、あまり騒ぎ立てては恐ろしい。時と共に、噂はそろそろと後退りし、その内他の事に興味を移していった。目新しい事は、次から次へと溢れて来るのだから。

 もっぱら、最近の噂は仕立て屋ぬい丸の末娘、お袖の伴侶探しについてだ。

 お袖は十六になろうとしていて、幼いころから評判の美しさが更に磨かれていた。

 咲き誇る華やかさとは裏腹に、不幸な事件の影が常に付きまとい、そのちぐはぐさがなんとも言えない魅力を彼女に与えていた。

 彼女の立ち姿は妙に胸を突かれるものがあって、男はいてもたってもいられなくなる。

 瞳の薄光りは真っ直ぐ過ぎて、目を合わせた者の心を焼いた。

 物言わぬ静かな苛烈さに、誰もがぞくりとさせられるのだった。

 振る様に縁談が舞い込んで、その噂が他の男達を焚きつけ、更に縁談が湧いた。

 けれども、お袖はどれもを蹴ってしまうという。

 その内、高望みだぁ、などと陰口を叩かれる様になったけれど、高飛車なお嬢様が一体どんなお大臣様に首を縦に振るのかますます気になって、皆が横目で気にしてしまうのだった。

 そして、いよいよ最有力候補が立ち上がった。

 彩白井の若頭、正吉である。



「お断りします」

 両親の慌てふためく顔を悲しく、申し訳なく思いながら、お袖は父と母に平伏した。

「お袖、彩白井さんの若頭だよ。彩白井の……」

「彩白井さんだからです」

 あそこのお店にもお屋敷にも、思い出がいっぱいなのだ。

 おきぬと、辰二郎の思い出が……。

 両親は気持ちが分からない人間ではない。だから、父は顔を歪め、母は袖で顔を覆った。

「辰兄さんがおきぬちゃんと結婚出来なかった穴埋めに、ぴったりだとは思います。お店の為にもなりましょう。でも、申し訳ございません……お父様、お母様……後生です、後生ですから……」

 お袖は心底申し訳なく思いながら、おきぬを思った。

 きっと、正吉という跡継ぎとの結婚話が最初に上がったのはおきぬだ。

 けれど、彼女はそれを断って何処か遠くへお嫁に行く事を望んだ。

 お袖はその気持ちが痛い程解る。きっと、全く同じ様な気持ちだったに違いない。

 辰二郎が収まる筈だった場所に、他の人間が収まるのだって辛いのに、その嫁になんて……。

 今更、おきぬが早々に何処かへお嫁に行った理由がぱちんとお袖の中で嵌って、お袖は胸が苦しくなる。

 畳に突っ伏して泣き出した愛娘に、両親は成す術も無く黙り込んだ。

 可愛い可愛いと愛しんできた娘だ。

 このまま強引に嫁にやって、泣き暮らす様な事にはなって欲しくない。

 そして、それでは彩白井へにも申し訳ない事になる。

 先方も事情は分かってくれている。だって当事者でもあるのだ。

 結婚を申し入れて来た時も、お袖の心の傷を気にしてくれて無理強いはしないと尻すぼみに言ってくれた。

 けれど……。

 辰二郎の事件で、未だにお店の空気は薄っすら暗い。

 親の自分達だって、大切な次男坊を失って酷く堪えた。今だって支えるべきお店が無くてはきっと、立っていられない程嘆かわしい。養うべき奉公人たちや、是非ぬい丸で、と仕立てを注文して下さるお客様の為になんとか立っているのだ。

 崩れない様に、おめでたい事を呼び込みたい。

 いずれ店主となる寅之助だって、そろそろ嫁を貰う時分でもある。

 お嫁さんが来て、孫が産まれたら……きっと明るさが持ち直す。

 失った者は帰って来ないけれど、新しい、歓迎すべき者を迎え入れれば、きっと張り合いが出来てこの先も頑張って生きて行かれる。

 しかし、その新しい輪にお袖は外れてしまうのではないか。だったら、彼女を愛で大切にしてくれるところへ嫁がせてやった方が、お袖自身も結婚生活で得られる目まぐるしくも楽しい日々に、心が癒されて行くのではないか……。

 お袖は美しさのお蔭で結婚相手に困らないのだから、余計に年を取って手札が減る前に良い所へ嫁にやりたいと言うのが、両親の願いだ。

「お袖、どうしても厭だろうか」

「先日正吉さんとお話する機会があったのだけれど、とても良い若者だよ」

 弱々しくもう一度勧め、それでも首を振るお袖に、母親が困り果てて聞いた。

「じゃあ、一体どんなお方なら良いというの。一生嫁がないなんてのは、こちらこそ後生ですからいけませんよ」

「……」

 母親の言葉に、お袖は少し思案した。

 そうだ。一生嫁がないなんて事、出来るわけが無い。うちは裕福な方だし、私を養ってはいけるだろう。だけど、おうちのお荷物にはなってはいけない。そんなつもりもない。

 でも、だったら何処へお嫁に? 

 実のところ、お袖は自分の結婚などどうでも良かった。

 自分の人生など辰二郎を失い、おきぬが場所も知らせず離れて行き、なにもかも楽しくないに決まっているのだと思っているのだ。

 だからヒョイと頭を掠めた思い付きを、口にした。

「……刃物」

「ん、なんだい?」

「刃物屋さんとなら、結婚させて頂きます」



 適齢期の刃物屋の若旦那はいるだろうか。

 おフザケで言っている様子では無かったし、しかし、刃物屋とは。

 お袖の珍妙な希望に、目をシロクロさせながら、両親の刃物屋探しが始まった。

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