失踪
柳が優雅に立ち並ぶ川べりを早春の風が吹き清め、さざめく葉に照り返した日の光が金粉の様に風を追った。
穏やかに神懸ったさやさやという優しい奏でが辺り一面に揺らめく中、二人の少女が滑らかな額をくっつける様にして秘密を囁き合っている。
二人は寄り添い合って、片方が手のひらを添えてもう片方に耳打ちしていた。
どちらの睫も愛らしくハタハタ動いて蝶々が舞う様。小袖から覗く細い腕の、白い事、白い事。
ふふふ、と、微笑み合う横顔を、通りすがりの若者がうっかり盗み見て、頬を染めたまま石に躓き転んでしまった。
騒ぎに娘二人がパッと振り返る。
「どうしたのかしら」
たっぷりした髪を綺麗に結い上げた娘が、両手を口に当てて声を上げた。
色っぽい垂れ目の中の黒目がちな瞳が、若者がどうして転んだのかとっくに見透かし悪戯そうに微笑んでいる。
名はおきぬ。
小さくとも堅実に繁盛を続ける呉服屋『彩白井』の一人娘だ。
枝垂桜や藤の花が風に揺れて誘う様な、そんな薫る娘だ。
この春やっと十五になって、縁談が雨あられの様に降り注いでいるけれど、本人には心に決めた人がいるとかいないとか。その殿方は、今日の内緒話の主人公となり、小さな囁きの中いきいきと彼女にさもいとしげな温かいまなざしを向けているのだった。
内緒話の余熱で彼女がふわんと微笑むと、転んだ若者はこれ以上の赤は無い程の赤に顔を染め、俯き逃げる様にさっさと歩き出した。
「歩きながら寝てたんでしょ」
もう一人の方が意地悪を言う。
この娘は、おきぬに近付く野良犬(例え羨望の視線だけだろうと、野良犬である!)に毎回手厳しい。おきぬの意識を野良犬から引き剥がす為に、大きくすっきりとした二重瞼の瞳を、茶目っ気たっぷりにおどけて見開いている。――――ほら、私の方見て笑って。
化粧など施していないのに、目尻にごくほんのり夢の様な朱が踊っている。ふっくらした桜色の頬を染めさせるのは、いったい誰なのか。おきぬと同じこの春に十四を迎えて、こちらも町中をヤキモキさせている。取りあえず、あの間抜けな若者ではてんで役不足だ。
名はお袖。
仕立て屋『ぬい丸』の末娘だ。兄が二人。下に兄弟がいないのと、たった一人の女の子なのと、愛らしいのとでもみくちゃになって、両親が甘やかす、甘やかす。
だからちょっとだけ聞かん気ない我儘娘に仕上がった。
「ねぇ、続きを話して。裏庭でバッタリ会って、兄さんはおきぬちゃんに何か言った?」
内緒話を無粋に邪魔されて、ちょっとご機嫌斜めのご様子で、お袖はおきぬに内緒話の続きをせがんだ。
おきぬだって、それは望む所だ。
「ううん。なにも」
「なにも? 何よ。兄さんのかいしょう無し!」
お袖はガッカリしてちょっと高い声を出した。
おきぬの『決めた人』は、何を隠そう仕立て屋『ぬい丸』の次男坊、お袖の兄である。
呉服屋『彩白井』と仕立て屋『ぬい丸』は先代から続く見込み合ったお得意様同士で、二つのお店の繋がりはあえて説明するまでもないが、簡単に言うと『彩白井』は反物を売り、『ぬい丸』が着物に仕立てる、である。
切っても切れない仲だ。もちろん、『彩白井』の方が大店だから、『ぬい丸』は『彩白井』から吹く風を決して見誤らない様にしている。万が一でも縁を切られる様な事があったら、『彩白井』から客が流れて来なくなってしまうからだ。
さて、『ぬい丸』には男児が二人。二人はすくすく育った。長男はもちろん跡継ぎだが、さて、次男は、と考えていた矢先、『彩白井』で遅れに遅れて玉の様な女の子が産まれた。おきぬである。
『ぬい丸』の主人(お袖の父親)は初め、おきぬを長男の嫁に、と夢を見たがそれは叶えることが出来なかった。おきぬの母親が、産後の肥立ち悪く霞の様になって死んでしまったのだ。
『彩白井』旦那様は奥方様に芯から惚れていたから、後妻はとらぬと言う。奥様が健在の時は他所で遊んだ事もあるクセに、男はこういうところ勝手である。
おきぬは跡取り娘となって、婿を取らなければならなくなった。
だったら、『ぬい丸』の跡取りである長男ではなく、次男の出番だ。と、お袖の母親が言い、皆が膝を打った。
『彩白井』は安泰、次男坊の将来も安泰(むしろ逆玉)、酒の席では主人同士が「いっそ、彩白井とゆい丸同じ店内で」なんて盛り上がったりした。確かに反物を売って直ぐにお仕立てに掛かれたら便利だ。他の商売敵にもきっと一線を引ける。なんて。
だから、次男坊は十四の頃から『彩白井』へ奉公に上がっていた。名目は「商売人としての修行をそちらでさせてやって下さい」なのだが、花婿修行だ、とコッソリ両家の使用人たちに温かく笑われたりしている。
おきぬとお袖の兄は、公認の仲なのだ。
そして嬉しい事にお互いがお互いを気に入っている。
おきぬは目も眩む美人だし、お袖の兄だってスッキリ凛とした男前だ。
こんなにお似合いな二人はいない。
誰だって認める。誰だって祝福する。誰だって、二人を見ればきっと幸せな気持ちになる。
――――なのに。
「せっかく人気の無い場所で二人っきりになったんでしょ? しかも偶然。誰も咎めやしないのに、だんまりなんて!」
もだもだと袖を揉むお袖に、おきぬは目を細める。黒目が心の光を表に出して、キラキラ光った。
「でも、微笑み掛けてくれたの」
おきぬは、ヤキモキするお袖に対し心の底から嬉しそうに、得意げに言う。
十五のお祝いに銀の花簪を頂いた時だって、こんな風に嬉しそうに微笑まなかったのだから、お袖は不思議で仕方がない。銀の花簪以上の自慢があるかしら? お袖の中では残念ながらあり得ない。
「……ふん。おきぬちゃんは兄さんに何か声を掛けたんでしょう?」
「ううん。なにも。ただ、微笑み返したの……すぐ俯いてしまったけど」
微笑ましいけれど、年頃のお袖はそんな淡い展開に興味が更々ない。
「もう! 二人共そんなんじゃ、俯き合ったままお爺さんとお婆さんになっちゃうんだから」
もどかし気にお袖が言うと、おきぬは柳の木にもたれて座り、頬を両手で包んだ。
「そうね……お爺さんと、お婆さんになっても、一緒にいられたら幸せでしょうね」
駄目だ、こりゃ。
呆れつつも、夢見る瞳に気圧されて、お袖の胸がきゅんと跳ねた。
それから安心もする。
――――そうだ。二人はきっとずっと一緒だ。
そしておきぬちゃんと私もずっと一緒だ。
おきぬちゃんは兄さんのお嫁さんになって、私とは姉妹になるんだ。
風がどこまでも清廉に吹き抜ける。柳並木がさやさや揺れる。
仄かに桜の香りがするのは、春が満ちようとしているからか。
それとも。
お袖は、おきぬの方を見る。
おきぬは微笑んで、流れる川を眺めている。
お袖は満ち足りた気持ちになって、美しく微笑むおきぬの傍で、一緒に流れる川を眺めた。
桜さん、桜さん、早く咲かないと、おきぬちゃんに名前を取られてしまいますよ――――。
*
仕立て屋『ぬい丸』の次男坊辰二郎が、奉公先からひょいと実家に顔を出したのは、その日の暮れの事だった。
お袖は兄の訪れを喜んで、手土産のよもぎ団子の包みを見てもっと喜んだ。
彼は客間に通され両親と面会をした後、お袖の部屋へやって来るとフ~ッと息を吐く。
お袖はパッと彼に近寄り、きらきら目を輝かせて彼の袖をぎゅっと掴んだ。
「はいはい。質問責めされる覚悟でやって来たよ。そんなに引っ張るなったら」
スッと障子が開いて、使用人のみよがよもぎ団子とお茶を差し入れてくれた。
「みよ、一緒に食べよう」
お袖が気安く誘うと、みよは頭を下げて断った。
「めっそうもございません」
「そう……」
お袖はしゅんとして、しずしずと部屋から離れて行くみよを見送った。
お袖よりも三つ上で、子供の頃はもっと仲が良かったのに、みよは最近変なのだ。こんな風につれない。
「みよは解って来たね」
「なにが?」
「自分は使用人だって」
お袖は兄の言葉に頬を膨らませる。
「みよはみよなのに」
「そうだ。みよは使用人のみよ。お前は『ぬい丸』の娘。お前もそろそろ、そういう線引きをしないと」
まぁ、お食べよ。兄がそう言って、よもぎ団子の盛られた器を差し出した。
「もう子供じゃないんだから」
言われてお袖が憤慨していると、辰二郎が笑った。
笑ってなくても素敵だが、笑うともっと素敵な兄だ。
ちょっとだけ、兄と結婚するであろうおきぬが羨ましい。
私にはこんな素敵な殿方が現れるだろうか。女の膨れ面を、笑顔で吹き飛ばしてしまえるような。
仕方ないわね、という態でよもぎ団子を口に入れれば、爽やかに甘い。そしてほんのちょっとだけ、苦い。口の中で、春の芽吹きの青風がそよぐ。意地っ張りをするのが、なんだか馬鹿らしくなった。
「ふん、美味しい」
ははは、と、辰二郎が笑う。
ふふふ、と、お袖も笑う。仲の良い兄弟なのだ。
一番上の兄は歳が離れすぎているし、いずれ『ぬい丸』の主人になるのだからと厳しい修行ばかりでいつもピリッとしているので、お袖はちょっとだけ怖くて、あまり話した事が無い。
向こうも、お袖を可愛いく思っているものの、色々な隙間があるのと物静かで不器用な性格なのが重なって、おきゃんなお袖にどう接すれば良いか分からない様子だ。だから長男と末娘は一緒に住んでいるのに少しだけぎこちない。
さておき、お袖はにいぃっと笑って、辰二郎に詰め寄った。
「辰兄さん、私、お昼におきぬちゃんと会ったの」
辰二郎が、静かに微笑んだ。彼はこういう時、そよりとも気持ちを表に出さない。
「へえ、そうかい。相変わらず仲が良い」
「辰兄さんとおきぬちゃんもね」
こんな風にサラリと返されると、意味ありげな声を出すのが、少し浅ましい気になって来る。けれどお袖はそうするのを止められなかった。ねぇ兄さん、わくわくさせて頂戴よ。
辰二郎が涼し気な目元を細めた。
「そりゃ、あちらのお嬢さんだからなぁ」
「あら、そんな程度じゃないでしょう?」
「事実だもの」
「でも――、でも」
おきぬちゃんといい、辰兄さんといい、こんにゃくみたいにパキッとしない。
そんなだと、お袖までこんにゃくみたいにぐにゃぐにゃしてしまう。
「あはは、わかってるよ。お袖はませてるなあ。そんな程度じゃありません」
お袖は手を打って喜んだ。
「おきぬちゃんと一緒になるわよね?」
「あちらさん次第だなぁ」
「もう、とぼけちゃって!」
きゃっきゃと喜ぶお袖に微笑んでいた辰二郎が、スッと真面目な顔になった。
「来年だ」
お袖も兄の様子に、背筋を伸ばす。
「来年」
「ああ。『彩白井』の旦那様から、いよいよ勧めて頂いた」
「……おきぬちゃんをお嫁さんにどうか?」
辰二郎が、ふ、と笑う。
「しょうがないな、お袖は」
「どうして? そうでしょう?」
「そうだけどそうじゃない。『彩白井』を継がないか、と言って頂いたんだ」
辰二郎は『彩白井』の旦那に、店をゆくゆくは任せても大丈夫だ、と見込まれた。おきぬを嫁に出来る事もそれはそれは嬉しいけれど、男としては旦那様に「よし」を貰う事の方が誇らしかったのかもしれない。
「どうだって良いわ。おめでとう、辰兄さん」
「母さんが、明日の夕餉は鯛を焼くって。明日の夕餉の時刻、私は『彩白井』にいるのにね」
ころころ笑った後、お袖は再度姿勢を正し畳に両手の指をついた。
辰二郎は妹の澄ました様子に頬を緩め、わざとらしく「えへん」といった態で胸を張って腕を組む。
お袖は吹き出しそうになるのを我慢し、目を伏せ、兄へ深々と頭を下げた。
「心から、おめでとうございます」
伏せた顔の近くで、畳の良い香りが妙に鼻にツンと来た。
自分以外の幸せに、涙が零れるのはとても素敵な気分だった。
*
それから、華々しく半年が過ぎた。
認められた自信から辰二郎はみるみる男を上げて行ったし、おきぬは成就を約束された恋に磨かれ、ますます艶めき、薫り、輝かんばかりだった。あまりに美しいので、評判が評判を呼んで似顔絵が瓦版で配られる程だった。これは『彩白井』の良い宣伝にもなった。
さて、季節は秋の半ばを迎え、彼らが暮らす土地ならではの秋祭りの準備で町中が活気づいていた。
今年の秋祭りは特別だった。その前の年の暮れに、この土地のお殿様が身体を壊し、弱気になったのか自分の目の黒いうちにとお考えあそばせたのか、とにかく若殿様が正式に藩を治める事になっていたのだ。
若殿様は張り切って、秋祭りに合わせて皆に大規模な見世物を開くと告げた。
いわゆる人気取りだ。――――皆のもの、よろしゅうな。余の顔を覚えてくれよ。
皆、喜び楽しみにしたので、効果はあった。
結果、秋祭りはてんてこ舞いながらに大いに盛り上がった。
若殿様も見世物を初回だけご観覧なさり、特別な観覧席から皆に姿を観せていた。
お袖とおきぬは運良く初回を観覧出来た。『彩白井』の上客に、そういう手配にかけて抜群に顔の利くとんでもなく偉いお方がいたのだ。
『彩白井』の家族分の席の中に、お袖が入れて貰えたのは、辰二郎が譲ってくれたからだ。
ああ、なんて良い兄さんだろう!
見世物は野外の舞台観劇だった。
祭り終了後には取り壊してしまうものだというのに、とても立派な作りの舞台だったので、若殿様が如何に第一印象に熱を入れているかが伺えた。
そこに呼び寄せた華やかな役者達が演じ舞い踊ると、煌びやかさに皆が圧倒された。
舞台は表向きは大成功を収めた。
しかし、裏ではコッソリ嘲笑される事となった。
若殿様には申し訳ないが、張り切り過ぎると違和感を持たれるものだ。有り体に言うと、ちょっと野暮ったかった。そのせいで、この催しには小さな隙が出来た。
特に、「金の無い者達も観るが良い」とばかりに最終上演で太っ腹の無料公演が行われた時、それが著明となった。
きんきらきんだねぇ。
誰かが暗がりでボソッと吐いた。その人は言ってから、自分の擦り切れたわらじを見下ろしていた。
俺らは、こんなんなのに。
その人の足は埃と垢で真っ黒だ。それは、その人の真っ黒な足から、ザワザワと地を這う様に広がった。
真っ黒な足から足へ、口に昇って、吐き出された。
眉を潜める者達がじわじわと増えて行った。「思い返すとアレェ……? 何だかあんな事もこんな事も鼻につく。だんだんだんだん、腹が立つ」と言った具合に。
なんでぇ、あんな、きんきらきんにしやがって。
この愛らしい様な、澄ました様な六文字は、羨望も、称賛も、妬みも、嘲笑も、どの意味も決して失わず底光って零れ落ち、砕けていった。
*
さて、一部では皮肉に終わったこの催しだが、足には真っ白な足袋に、艶々した鼻緒の下駄を履いているお袖とおきぬ達は、素直に感動し喜んだ。彼女達には煌びやかさに何の不満も無かった。
またいつか、一緒に観たいね。なんて、そんな約束もした。
「でも、こんな大掛かりな舞台はもう一生に一度、これっきりかもしれないわね」
「もう一度くらい、あるわよ」
おきぬと先の約束がしたいばかりのお袖が強気にそう言うと、おきぬは微笑んで頷いた。
「じゃあ、うんと長生きしなきゃいけないわね」
お袖が頬をつやつやにして微笑んだ。
「うん。おきぬちゃん、お婆ちゃんになっても、ずっと一緒よ。そうしてきっと、この世の何もかもやり切った時に江戸の舞台を見に行きましょうよ」
嬉しさの余り、ついつい大きな事を言ってしまう。彼女達の土地から江戸は、雲の上と同じ位遠い。
おきぬが鈴の様に笑った。
「江戸かぁ、おばあちゃんの脚で、辿り着けるかしら?」
「足腰は大事にしましょうね?」
「ふふふ。大根足になる準備をしなくちゃ」
「その頃には切り干し大根ね」
娘二人が、ごった返す人ごみの中でコロコロ笑い転げれば、美しさと愛らしさに皆が振り返る。
二人は姉妹の様に並んでそれを受け止める。
綺麗に咲いているでしょう? 私達、幸せなの。
それから、辰二郎とおきぬ、口うるさそうな『彩白井』の付き人に家へ送って貰い、お袖は彼らを見送った。
同じ屋敷へ帰る兄とおきぬを見送るのは、なんだか置いていかれる様な寂しい気がして、お袖は二人を引き止めたがったが、「いつでも会えるよ」と二人に笑われてしまった。
その時辰二郎が、お袖の頭を幼い子供の様に撫でたので、お袖は膨れたフリをして「じゃあね!」と、家に入ってしまった。
背中に二人の笑い声が聴こえて、お袖も微笑む。
ふ、と、お袖は幸せに仄温かい胸を手で押さえる。
「私にも、素敵な人が現れます様に」
*
その幸せな夕に、『彩白井』の使いの者が『ぬい丸』に駆け込んで来た。
辰二郎さんとお嬢様が、まだ帰らない。そちらで長居しておりませんか。
日は殆ど沈む頃だった。
『ぬい丸』の家中の者が肝をヒュッと冷やしながら、冗談だろう、と、思った。
最後に別れたお袖は、二人がちゃんと家路へ歩いて行くのを――――見ていない。ぷいっと、家へ入ってしまったから。でも。二人は帰るところだった。
――――もしかして、お祭りの賑やかさに紛れて、二人だけの時間をちょっと味わっているのかも知れない。
そんな風に考えてみても、胸の中が騒めいた。
二人には、厳しそうな年寄りの付き人が付いていた。
婚約者同士とはいえ、婚前に二人きりで遊び歩かせる事など、許すだろうか?
両家の家中が総出で二人を探し始め、家には留守を守る為、長男の寅之助とお袖が残った。
震えるお袖に寅之助はそっと寄り添い、優しく声を掛けてくれた。
「大丈夫。きっと帰って来るよ。大丈夫」
いつも厳しい顔をして気を張っている寅之助の優しい声に、お袖は頷く。
心配で心配で、胸が張り裂けそうだった。
「辰二郎はね、運が良い男だから、大丈夫だよ」
何を根拠に寅之助がそう言うのか、お袖には分からなかったけれど、こういう時はそう思った方が良いのかも知れない。けれど、胸騒ぎは止まらないし、涙も次から次へと溢れて来る。
家の前を、祭りに浮かれて夜遊びする人々の笑い声が通り過ぎて行った。その笑い声が、別れる前のおきぬの笑い声と重なる。外に飛び出して、笑い声の主を確かめようとするお袖を、虎次郎が止めた。
「違うよ。お袖、大丈夫だから」
「おきぬちゃん……」
「大丈夫さ。あのお嬢様だって、誰かに恨まれる覚えもないだろう?」
誰かに恨まれる。
その言葉にゾッとして、お袖は身体を両腕で抱いた。
寅之助が繰り返し「大丈夫」「大丈夫」と言うけれど――――確かに、おきぬは誰に恨まれる筋合いもない良い娘だけれど……だったらどうして、二人して姿が見えないのだろう。
ジリジリ心配していると、誰かが家に飛び込んで来た。『ぬい丸』の使用人だ。
寅之助がサッと立ち上がって、青ざめ息も絶え絶えの使用人を迎えた。お袖も我を忘れて飛びつく様に駆け寄った。
「『彩白井』のお嬢さんが見つかりました!」
人気の無い薄暗い場所の、使われていない小屋に、付き人と押し込められて震えていたのだと言う。
お袖は安堵と恐ろしさと怒りに、膝から崩れ重たい息を吐く。
良かった! おきぬちゃん!
「辰二郎は」
寅之助が尋ねた。お店の主に相応しい落ち着きだった。きっと、厳しい日々に磨かれて、肝が据わり切っているのだ。お袖は寅之助をとても頼もしく感じた。
「へい、まだ……」
「おきぬちゃんと別々なの!?」
「あい、あい……ご一緒ではあられませんでした」
言葉半ばで、泣き叫ぶ様な使用人の声に、お袖は頭のてっぺんから氷水を浴びた様に呆然として、寅之助の方を見た。
寅之助はお袖の視線を受け止めず、拳を握って震わせると使用人に再び捜索へ戻る様指示を出し、玄関土間の畳の上に座り込んだ。お袖も、それに並んだ。
こうしていれば、店先の掛けっぱなしになっている暖簾を潜って、ひょいと辰二郎が顔を出したらすぐに見つけられる。
家じゅうがしんと静まり返っていた。
こんな時だと言うのに、祭囃子が近くなったり遠くなったりして、お袖はそれを恨めしく思った。
なによ、楽しそうに。
みんなみんな、馬鹿みたい。
押しつぶされそうな時間が嫌味な程ゆっくりと流れ、辰二郎がようやく見つかったのは、祭囃子も静まり返った頃だった。